60 ゼータの思い
いつからだろうか。自我というものが宿り、自分という存在を知覚できるようになったのは。
それまで、自分という存在は自分ではなかった。自分とは物であり、何かを考えることなどできないただの人形だとばかり思っていた。考えるという行為そのものを放棄していたとも言えよう。
でも、違う。自分とは、自分である。ゼータという名称の、一個体なのだと……ゼータは、彼と出会ってから知ることが出来た。
初めて出会った日のことは、今でも覚えている。
あれは、そう……嘘みたいに、月が綺麗だった夜のこと――
「…………」
夢を見た。
ゼータは自室のベッドにて目を開けて、無言で身体を起こす。本来なら魔法人形に休息は要らない。だから睡眠も必要ないはずなのだが、太陽が眠れと言ってくれているのでゼータは眠ることにしていた。
機能として搭載されている睡眠という行為は、夢を見せてくれるから嫌いではなかったりする。
ぼんやりするように遠くを眺める彼女は、先程見た夢のことを思い返していた。
「ふぅ」
緩んだ頬を揉んで、元に戻す。この夢を見た朝は表情が緩んでしまってダメだ。ゼータは微かに息をついて、ベッドから出る。
「良い天気ですね」
明朝。まだ太陽が完全に姿を現していない時間帯に、ゼータはいつも起床していた。彼女の住まう屋敷、太陽邸では一番の早起きである。
目的はもちろん、朝食を作るためだ。彼女は屋敷で唯一の料理人として、かつメイドとしての責務を果たすべく動き出す。
メニューは、屋敷の主が好む内容で。そのあたりのリサーチは既に済んでいる。手早く準備して、一通り完成したら時間も頃合いとなっていた。
「さて」
朝食をテーブルに並べてから、ゼータは主の部屋へと向かう。
「失礼します」
扉を二度三度ノックしてから、彼女は静かに室内へと入った。
そうして見えたのは、この屋敷の主――加賀見太陽の、だらしない寝姿である。
「ぐがぁ」
物凄いいびきであった。上半身裸で、尻は半分出てる。鼻ちょうちんを錯覚してしまうくらいの快眠をとる主に、ゼータはやれやれと肩をすくめた。
お世辞にも可愛いとは言い難い。寝顔の方がマシとも思わないし、むしろ起きてくれていた方がまだ良いとさえ思えるだらしなさ。
警戒心のまるでないその寝姿が、しかしゼータは嫌いじゃなかったりする。
「ご主人様、朝でございます」
そっと顔を寄せて、耳元で囁くように声をかける。
「そろそろ起きてくださいませ」
ついでにふっと息を吹きかけると、太陽がビクンと跳ね起きた。
「――っ!? っ、っ!!」
耳を抑えて声にならない声をあげる太陽。童貞故に、耳に息を吹きかけられた程度で顔を真っ赤にしていた。実に童貞である。
そんなご主人様にゼータは内心で笑いながらも、外面では無表情を貫いてさっさと歩きだすのだった。
「朝食が出来ております。どうぞ、温かい内にお召し上がりくださいませ」
「ゼータ……お前が俺のこと大好きなのは分かるけど、もう少し心の準備をさせて欲しいんだ。いや、別にイヤってわけじゃないぞ? たださ、こう……分かるだろ? いきなりすぎてびっくりしちゃう、みたいな」
「いえ、申し訳ありません。ゼータはご主人様のような生き物を未だ理解できませんので」
「分かれよ。お前、俺が童貞だって知ってるだろ……っ!!」
「そんなことより」
「そんなことより、だと……!?」
食堂にて、寝癖をそのままに喚く太陽を傍目に佇むゼータは、普段通りのマイペースを貫いて言葉を紡ぐ。
「本日の朝食はいかがでしょうか? まあ、ゼータは完璧なメイドを自負しています。美味しくないわけがないとは思いますが」
「うん、美味しいけど……なんかその言い方むかつくなぁ」
美味しい。その一言にゼータはふむと頷き、太陽に見えないようガッツポーズを取った。彼女だって最初から何でもできるわけじゃないし、何も感じないわけじゃない。
努力を認められ、褒められると嬉しいのだ。ただ、太陽の手前表には気持ちを出さないのだが、それは天邪鬼なので仕方ないことである。
「しかし、本当に美味しいな……よし、ゼータ。毎日俺の味噌汁作ってくれないか?」
それから、唐突に決め顔を作るご主人様にゼータは「は?」と視線を細めた。
「作ってますが」
いきなり何を言い出しているのかと言葉を吐き捨てれば、太陽は乾いた笑顔を返すのみ。
「あ、はは……そ、そうだよなー。毎日作ってるもんな―」
「作らせているのはご主人様です。とうとう頭がおかしくなったのでしょうか?」
「べ、別にいいじゃん。ノリだよ、ノリ……ってかこの決め台詞俺の世界でしか伝わんないのか。カッコつけて損した」
「……? 決め台詞とは?」
「や、こっちの話。あー、そういえばミュラ遅いな!」
強引に話を変える太陽に、ゼータはいつものことかと思考を切り替える。
「ミュラ様は昨夜、ベッドが高級すぎて眠れないと寝付けなかったようなので、もうしばらく寝かせてあげた方がよろしいかと」
「……そうか。俺、あいつもう少し甘やかすことにするよ。なんか質素だし貧乏性すぎて泣けるんですけど」
「左様ですか」
ハーフエルフにここまで優しくするとは、相変わらず不思議なご主人様だな――とゼータは考えて、それからコツンと頭を叩いた。
ハーフエルフが何だ。自分は人形じゃないかと……太陽に特別視されているのは自分も同じだと、芽生えかけていた嫉妬の心を消す。ミュラが来て以来、子供じみた独占欲がたまに制御できなくなるので困ったものだった。
「ゼータはいけない子です」
「ん? 何か言った?」
「……いえ、別に」
朝食を口いっぱいに頬張る能天気な主を見て、ゼータは悩んでるのがバカバカしくなってきた。
「ご主人様。朝食を食べるあなた様を見ていると、少しお休みが欲しくなりました。夜までお休みをいただけませんか?」
「何その罵倒……朝飯食べてただけなのに理不尽だろ」
と、太陽はなんだかんだ言うわけだが。
「いいよ。ほら、羽根伸ばしてこい。あ、お小遣いいるか?」
結局、ゼータのお願いごとなら何だって太陽は聞いてくれるのだ。そういうところが、ゼータは嫌いじゃなかったりする。
「いえ、お給金があるので結構です。では、お昼は作り置きしておくので」
「おう。じゃ、ごちそうさま」
そうして、和やかな朝を終えて。
ゼータは朝食の片付けと昼食の準備を済ませてから、外へと出て行った。
天気は快晴。夜は綺麗な星が見れそうだなと、ゼータは街まで歩く。
フレイヤ王国の城下街は数多くの人間で賑わっていた。ゼータは慣れた足取りで道を進み、目的地に向かう。
そこは、国でも有数の料理人が構える店の立ち並ぶ場所だった。
「失礼します」
とあるお店に入って、ゼータはそこの店員に一声かける。店員はフレンドリーに挨拶を返して、キッチンの方に案内してくれた。
「ん? 今日も来たの?」
「はい、勉強させていただきます」
そのコックに一礼して、ゼータは隅で邪魔にならないように佇む。そうすると、他のコックたちはゼータを居ない者として、自らの仕事に入った。
その様を、ゼータは隅でジッと観察する。
(……なるほど、ああいう料理法もあるのですか)
これは、ゼータにとっての修業とでも言えようか。
味覚こそ機能として持っているものの、料理法までは知らない彼女が、それでも主に美味しいものを食べてもらおうと思っての行動だった。
実際に料理している姿を見て、その技術を盗むこと。魔法人形故に学習能力は高いので、見るだけで真似は可能なのだ。こうやってゼータはたくさんのお店で、見学させてほしいと許可をもらっている。
ただ、ご主人様に美味しいものを食べてもらいたいがために、ここまでやっているのだ。休みをもらおうとも、実際には働いているようなものである。
「勉強になりました」
一通り見て、それからお金を払ってゼータは店を出て行った。見学料ということで安くないお金を払っているが、それも全部もらい過ぎているお給金から払えるので問題はない。
その後は、夕食の買いだしに移る。先程学んだ料理法を実践して、主人が飽きないよう手間を加えるのが、ゼータは嫌いじゃなかった。
(また、美味しいと言ってくれますように)
そんなことを思いながら、買い物を続けることしばらく。
もうそろそろいいかなというタイミングで、ゼータはとあるお店の前にやって来た。
(ここは……)
衣類の販売が行われている店だった。以前、というかずっと前に来た覚えがある。
(確か、ゼータが初めて衣服を買ってもらった場所、でしょうか)
太陽と出会って、すぐのことだったか。この店に入って、安物ではあるがメイド服を買ってもらった。少し前に破れて使えなくなったメイド服、今は新調したのを着ているが……同じようなメイド服があれば、揃えるのも悪くはないと彼女は思い立つ。
「いらっしゃい! って、あんたはいつぞやのゴーレムか」
入店すると、見覚えのある店員がいた。あちらもこちらを覚えているようなので、手短に用件を伝えることに。
「以前買ったのと同じメイド服、あれば購入したいのですが」
「あー、あれね。残念だけど、売れなくて全部処分しちゃったなー」
「…………むぅ」
確かにデザインが奇抜というか、ちょっと破廉恥ではあった。裾の長いメイド服が一般的なので、この短さは大衆受けしないのも仕方ないだろう。だが、思い入れがあるので処分されたなど言われては、少し面白くない。
「なんだ? あれが欲しかったのか? うーん。そうだなぁ……同じのはないけど、似たようならある。ただ、ちょっと高いよ? こっちは処分品じゃなくて、特注品だから」
そう言って見せられたのは、いかにも高級そうなメイド服だった。裾が短く、エプロンもフリフリが多く……所々刺繍も施されている。前に来ていたのより豪華だが、形状は似てると言ってもいい一品である。
「これは……まあ、一部の変態貴族がメイドに着せてアレする用に特注されたメイド服なんだけどね?」
「……その情報は不要でした」
なるほど。だから特注品で、高いのかとゼータは嘆息する。
ともあれ、お金はある。主からたくさんもらっている。それを主の為に使うのが、ゼータの信条だ。
「購入します。今すぐ着たいのですが、よろしいでしょか?」
「毎度あり!」
そうして、服屋から出るころには着替えも済んで。
少し派手な格好になったゼータは、日が沈んですぐに帰宅した。
(ご主人様は、気付いてくれるでしょうか……)
夕食を準備しながら、ゼータは新調したメイド服のシワを伸ばす。
身体はそわそわと揺れていた。表情は無で固定されている彼女は、その実なかなか感情豊かである。
ただ、天邪鬼なので大きく出ないだけだ。
「……よしっ」
夕食が完成して、ゼータはグッと拳を握る。
自身のお披露目に多少の緊張を感じながらも、それを隠して太陽の部屋に向かっていった。
軽くノックしてから、その扉を開け放つ。
「ご主人様、夕食の準備が整いました」
声をかけると、中でダラダラしていたであろう太陽がこちらを振り向いた。
「……ん?」
ぴくりと眉を寄せるご主人様。新たなメイド服の感想でも言ってくれるのかと、若干の期待をするゼータ。
しかし、彼女のご主人様は加賀見太陽である。
「美味そうな匂いだな。ゼータ、早く夕食を食べよう!」
身構えるゼータの横を通り抜けて、食堂にさっさと走り去ってしまうのだった。
「…………」
そんなご主人様に、ゼータは息をつく。
童貞に何を期待していたのかと、自らの考え違いを反省した。
そもそも、ここで女性の変化に気付くような人間であれば、童貞をここまで貫けるわけがない。
そう、自分に言い聞かせることにして……ゼータは若干の落胆を覆い隠して、自らもまた食堂に向かっていった。
「ごちそうさま。流石はゼータ、俺のハーレム一号に相応しい腕前だ。美味しかったぞ」
「その一生完成しそうにないハーレムなのですが、一号にされてしまって誠に遺憾です」
「か、完成させるし。いつか、きっと……多分」
「頑張ってくださいませ」
夕食を食べ終えて、まあ美味しいという言葉も聞けたので、それだけで良しとするかとゼータはメイド服のことを気にしないようにする。
ただ、もう少し見てくれても良いのでは……なんてことを思いながら、スカートの裾をひらひら揺らしていた時のこと。
「ん? なんだ、ゼータ。なんだかふてくされているみたいだけど?」
主である加賀見太陽が、ニヤニヤと笑ってこちらを見ていた。
「別に、ふてくされてなどいませんが」
反射的に返した否定にも、彼は取り合わない。
「やけに服を気にしてるよなぁ……なんでだ? もしかして、新しいメイド服着てるのに気付いてほしかったのか?」
紡がれた言葉は、なかなかに意地悪なものだった。
「気付いてたよ。いや、本当に可愛いと思う。あと、あからさまに気付いてほしそうな顔をするゼータも、見応えがあった」
つまりは、わざと言わなかったのだと。
最初から気付いていたくせに、しかしゼータがそわそわしているところを見たかったがために、あえて口にはしなかったのだと。
そう言われて、ゼータはさっと顔を伏せた。
即座に頬に手を置いて、弛緩した筋肉をほぐす。主人に相好を崩したところを見せたくなかったのだ。
照れもあった。素直に嬉しいという気持ちも、しっかりある。
されども、ここでデレてしまってはゼータではないのだ。あえて無表情を貫いて、彼女は太陽に言い放つ。
「……ご主人様は、一生童貞なのでしょうね」
その言葉に、太陽ははっとしたような声を上げた。
「お、おいやめろよ……こういうところがダメなのか? すぐに女性を褒めることが、童貞脱却への近道なのか? くそ、マジかよ……失敗した」
想像以上にダメージを受けているのか、肩を落とすご主人様。
その隙にゼータは食堂を出て行くのだった。
「ふぅ……」
顔が熱い。外に出たゼータはぱたぱたと顔を仰いで、空を見上げる。
夜空には雲ひとつなく、満開の星空と……丸い月が、輝いていた。
美しい夜の情景に、ゼータは今朝がた見た夢を想起する。
加賀見太陽と……ご主人様と出会ったのも、こんな夜のことだった。
『よろしくな、ゼータ。今日からお前は、俺の所有物だ』
人形だというのに、気さくに話しかけてくれた。
機械じみたやり取りの中に、いつしか変化が生まれるようになった。
ご主人様の望む回答を。
従順より、少し嫌がった方が良い。罵倒してやると嬉しそうな顔をする。自虐をすれば、自分を尊重しなければ、嫌な顔をする。
こういった学習を経て、ゼータは自らを確立していった。
それは感情の機微となり、自我となり、やがては自分となり……
そうしてゼータは、ゼータとなったのだ。
「お慕いしております」
どこまでも。何があっても、ゼータは太陽の所有物である。
それこそが、彼女の存在意義。ゼータ型魔法人形の、唯一の意思。
「ゼータは、ご主人様のそばに――」
いつまでも。どうなっても。ゼータは、太陽の所有物として。
彼との日常を、望むのだ。
「月が綺麗ですね」
静かな夜に、そっと言葉を落として。
彼女は、何気ない幸せを噛みしめる――