58 地に伏し、頭を垂れ、慈悲を求めること
もしも、加賀見太陽がいなければ。
人間という種族に属する、規格外の化物がいなければ。
今回の戦いは、間違いなくエルフが勝っていただろう。
加賀見太陽がいたせいで、アールヴ王女の目算は外れることになったのだ。
加賀見太陽がいなければ、ヘズやシリウスがここまで力をつけることはなかった。太陽と出会う前であれば、ヘズはトリアが、シリウスはアールヴ王女が抑えることは可能なはずであった。
加賀見太陽がいなければ、アルカナ暗殺だって問題無かった。アリエル、エリアルの二人に加えて空間魔法使いのシルトがいれば、エリスなど敵にもならなかった。
加賀見太陽がいなければ、スカルやアブリスといった実力者でフレイヤ王国を混乱に陥らせることは可能だった。また、加賀見太陽がいなければヴァナディース王国の総帥、神楽坂刹那がこの戦いに参加することもなかっただろう。エルフの結界だって、壊れることはなかったはずだ。
加賀見太陽がいなければ、アールヴ王女が制御可能な戦争だった。
だが、加賀見太陽がいたせいで……全てが、狂ってしまった。
敗北。それも、完膚無きまでの敗北だ。人間側の被害はほとんどないと言っていい。だが、エルフ側の被害は甚大だ。
アルフヘイム国は荒れ果て、バベルの塔は崩れ、一部の実力者は大けがを負い、最終的に人間側に逆らえなくなる始末。
唯一の救いは、民衆に被害が出なかったことだけ。
(こんなこと、しなければ良かったのじゃ……)
あまりにも悲惨な結果に、アールヴ・アルフヘイム王女は戦争をけしかけたことを後悔しているほどである。この罪は命でも償えない。種族全体を貶めてしまった自らを、アールヴ王女は殺したくなってしまった。
エルフの誇りを、守る為ならば。人質となっている民衆の命など無視して、暴れてしまえばいい。アルカナを殺すことが出来たなら、一矢報いたと言ってもいいだろう。
そうすれば確実に死ぬことにはなるが、それで胸を張ることはできるのだ。
(じゃが……まだっ)
まだ、死ねない。王女として、まだ死ぬわけにはいかない。
死ぬのは簡単なのだ。だが、後のことはどうする? 現状、エルフの中で最も頭が回るのはアールヴ王女だ。今、彼女がいなくなってしまうとエルフという種族そのものが落ちぶれてしまう可能生がある。
簡単に言うと、後継がいないのだ。長命なエルフであるが故に、後継を育てるのを怠っていた。これもまた、エルフ特有の驕りが生んだ失敗だったのだとアールヴ王女は後悔する。
(死ぬわけには、いかない)
エルフを統べる者として、この命を落とすのは許されない。
感情では死にたかったのだが、理性がそう言っていたのだ。故に、アールヴ王女は選択する。
「どうした? 黙りこんで……もう抵抗はいいのか?」
眼前でこちらを見下ろす加賀見太陽を見上げて、アールヴ王女は深く息をつく。
そして、地面に膝をつけて……それどころか手もつけて四つん這いとなり、彼女は頭を下げるのであった。
「どうか、命だけは……助けて、ください」
それは、土下座であった。
傲慢なエルフ族の王女は、しかし自らの種族を守るために……屈辱的な姿を晒してまで、命を縋ったのだ。
誇りの為に命を捨てることは……王女として、できなかったのである。
「……なあ、お前は情けなくないのか? そうやって土下座までして、生き恥さらしてまで生きたいのか?」
対する加賀見太陽は呆れているようだった。足元のアールヴ王女を見下ろして、表情を険しくする。
「それに、甘えんなよ? お前は俺の身内を傷つけたんだ……その命でもって、償え」
ぞっとするほどに冷徹な声。今、太陽の機嫌を損なえばアールヴ王女は間違いなく死んでしまう。そうなれば、エルフは本当に終わりになってしまうかもしれない。
そう考えると、プライドなんて簡単に捨てることが出来た。
「妾の命は、もう少し待ってほしい……せめて、この戦争の処理が終わるまで。エルフが安定して生活できるようになるまでじゃっ。どうか……どうか、お願いします」
「都合が良すぎるだろ。お前らが勝手に俺たちに喧嘩を売っておきながら、負けたら許せだ? お前らは、俺達人間をどうしようとしていた?」
もしもエルフが勝っていれば、逆に人間の立場は弱くなっていただろう。少なくとも、エルフのおもちゃにされていたことは間違いないはずだ。
「重々承知の上じゃ……それでも、どうかご慈悲を。命だけは……」
「ふざけるな」
太陽は吐き捨てるようにそう言って、アールヴ王女に向かって刺々しい声を放つ。
「ゼータが記憶を失った。ミュラが傷つけられた。何人もの人間が、お前らのせいで人生を狂わされた……それを全て見逃せと? 許せるわけ、あると思うか?」
「許すことは、できないじゃろう。妾だって、逆の立場なら許せない……でも、ここで死ぬわけにはいかないのじゃ。まだ、やることがある……だから、どうかっ」
震える声で、許しを乞うアールヴ王女。
「魔法人形にされた人間は全て元通りにする。そなたの魔法人形も、記憶をしっかりと戻す……怪我をしている者には、治療の魔法アイテムを渡す――否。妾の保有する魔法アイテムは、全てそなたたち人間に提供する。だから、どうか……妾に、民衆を守らせてほしい。苦しむのは、妾だけにさせてくれっ」
懇願は、心からの言葉とともに。
王女として民衆を守りたいのだというその意思は、まさしく本物だった。
「何でも言うことは聞く! 全面的に降伏する……妾の身であれば、どうしてくれても構わない。だから、罪なき民衆を……守らせて、ほしい」
己の身を捨てて、土下座までして……アールヴ王女は慈悲を求めていた。
そんな彼女に、加賀見太陽は――
「お前の意思なんてどうでもいいよ。後悔の中で死ね」
――やはり、聞く耳をもたず。
ゆっくりと振り上げられた拳に、アールヴ王女はうなだれることしかできなかった。
「死、か」
全てを悟り、だが抵抗はできず……そのまま太陽の拳を受けて、死ぬのだろうと諦観する。
それと同時、彼女の身をかばうように……とある魔法人形が、間に入ってきた。
黒髪黒目の、破れたメイド服をまとうそれは、ゼータ型の魔法人形で。
「ご主人様。この方を今殺しては、ゼータの記憶を戻せなくなってしまいますので、感情的にならないでくださいませ」
平坦な声で紡がれた言葉は、されど加賀見太陽という存在が最も甘やかしている声でもあった。
「……ゼータか。ああ、そうだな。今殺したらダメなんだな」
立ちふさがれて、そこでようやく冷静さを取り戻した太陽。頭に血が上っていたのかと、彼は息を吐き出した。
「ごめん、ちょっと、どうかしてた」
「いえ、ご主人様が無能であるのは理解しております。記憶はありませんが、知識として残っておりますので、ご心配なく」
「そこは心配してないんだよなぁ……むしろ要らない記憶だから消えたままでもいいんだけど」
「いいえ。ゼータは、ご主人様と過ごした日々を思いだしたいのです。無能で、呆れるほどにエッチで、そのくせ分からず屋で……でも、ゼータを甘やかしてくれるご主人様が、ゼータは大好きですので」
淡々と言葉を続けるゼータは、そこで一つ間をおいた。
いつもより素直すぎるその態度に、太陽は思わず毒気を抜かれてしまう。殺意にまみれていた感情が、少しずつ溶けていくのを感じる。
「知ってる……お前、俺のこと大好きだもんな」
「はい。ゼータは、おバカなご主人様が大好きです……だから、先程のような顔はおやめください。憎悪などお捨てください。くだらない生き物のために、ゼータの大好きなご主人様を穢されたくありませんから」
そっと、ゼータは太陽の頬をつねる。同時に強張っていた顔が緩んでしまい、思わず太陽は苦笑してしまった。
「殺すなって、言いたいのか?」
「いいえ。怒ったご主人様は好きではないと、言っているだけです」
「……お前が嫌いなことを、俺がするわけないだろ? そんなこと言われると、殺せなくなるだろうが」
拳を下ろして、太陽はゼータの頭を撫でる。黒い髪の毛を優しく撫でれば、ゼータは思いっきり不快そうな顔を浮かべるのだった。
「セクハラです」
「とか言って、本当は嬉しいくせに」
記憶がないはずのゼータは、しかしいつも通り素直じゃなくて……だからこそ、太陽は殺意は削がれてしまうこととなった。
「……分かったよ。殺さない。でも、だからって許すわけじゃない」
そう言って、太陽は近くに山積みとなっている奴隷の首輪を一つ手に取る。
今まで自らの首についていた首輪を、彼は無造作に放り投げて……
「着けろ」
一言、アールヴ王女に厳命するのであった。
「首輪を着けて、誠意を示せ」
「誠意……」
言われて、今まで押し黙っていたアールヴ王女は、首輪を拾い上げる。頭の良い彼女は、太陽の意図をすぐに理解できてしまった。
エルフの王族である彼女に、奴隷の首輪など無意味だ。外そうと思えばいつでも外せる。何せ、命令権を彼女は持っているのだから、命令されたところで意味などない。
だからこそ、太陽は着けろと言っているのである。
「お前が、お前自身に命令しろ。人間に害を与えないと、自分で自分を縛れ……それがもしも破られたら、俺は今度こそエルフを滅ぼす。そのことを、肝に銘じておけ」
全ては、アールヴ王女の態度によってエルフの生存は決まる。そのことを分からせる意味で、太陽は奴隷の首輪を手渡したのだ。
これが、太陽の慈悲。命を取らない代わりの罰である。
「……感謝、する」
アールヴ・アルフヘイムはそう言って素直に奴隷の首輪を装着した。命までは取らないという慈悲に、彼女は伏して礼を述べた。
「本当に、ありがとう」
「…………」
その言葉に、太陽は何も答えない。無言で背を向けて、その場を立ち去って行く。
こうして、エルフの王女は奴隷となった。
だが、この行為こそが最良だったといっていいだろう。今まで幾つも間違いを重ねたアールヴ王女は、だがここでようやく正解に辿りつくことが出来たのだ。
加賀見太陽と敵対して、するべくは戦うことではない。
地に伏し、頭を垂れ、慈悲を求めることのみが、唯一の正解なのだから。
それほどまでに彼は最強で、怖がるべき存在なのだから――