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シンギュラニメ

作者: ゐづみ

大学の文芸部で発表したものです。

『SHIROBAKO』で得た知識だけで、アニメ製作を題材にした小説を書くと大変なことになってしまうという悪い例です。

 その昔、3Dテレビというものが話題になった。偏光フィルターを通すことで、テレビ番組等の映像が立体的に見えるというものだったらしい。登場した当初は画期的だと持て囃されたが、放送環境を整備するためのコストの問題や、3D映像を上手く活用した番組制作ができなかったという理由から普及には至らなかったそうだ。

 しかしもし、それら諸々の問題が解消されて3Dテレビが各家庭に行き渡るようになっていたら。制作される番組が全て3D対応のものになっていたら。リビングに集まった家族はみな一様に3Dメガネを掛けて過ごすようになっていたのだろうか。家族一人一人がマイ3Dメガネを掛けて、テレビから飛び出てくる芸能人の顔を至近に感じながら食卓についたのだろうか。考えるとぞっとしない。

 或いはこうかもしれない。メガネではなく、コンタクトレンズ。3Dコンタクトレンズ。眼球に直接偏光フィルターをあてがうことで、より精度の高い3D映像が楽しめるとか。家族全員がメガネを掛けているよりはいくらかマシなビジュアルかもしれない。飛び出す芸能人を見ながらごはんを食べることに変わりはないが、そこは芸能人と一緒に食卓を囲んでいるような気分が味わえるのだとしておくといい塩梅だ。しかしそうなると、コンタクトを付けていない人間はテレビを楽しめないことになる。音声は普通に聞こえるが、映像がいけない。3D用の映像というのは、右眼用と左眼用に別の映像を同時に流し、偏光フィルターで視差を調整することでそれが立体的に見える。フィルターを通さなければ、常時手ブレ状態にようなよく分からない映像になってしまう。コンタクトをつけたものだけが万全の映像を楽しめ、それ以外の人間は不完全なものを与えられる。じゃあみんなつければいいんじゃないかという向きには、体質的にどうしてもコンタクトが受け付けない人間もいるのだと反論しておこう。私がそれだ。そういった人間は、周りが楽しくテレビを見ている最中も、不完全な映像に甘んじ続けるしかない。

 ちょうど今、私の状況はそんな感じだ。

 友人と二人でテレビを見ていて、友人は特殊なメガネと補聴器を着けている。これはヒトの色覚と可聴域を強化するもので、これを装着することによって万全な状態の映像を楽しむことが出来る。両方共着けていない私は、不完全な映像を見せられているということになる。

 しかし、3Dテレビほど悲観したものではない。色覚と可聴域の強化は確かに映像本来のクオリティに近いものを楽しめるが、なかったとしてもヒト本来の色覚、可聴域内のものは楽しめるのだから。音声は少し飛んでしまうこともあるが、映像に関してはこういう色なんだと割りきってしまえば違和感もない。

 それに、たとえありのままが見え、聞こえていたとしてもそこに映しだされているものが楽しめるかどうかは別の問題だ。

 友人はため息をひとつつくと、メガネと補聴器を外した。

「面白い?」

 私の問いに友人は、やれやれといった表情を向けてくる。

「いいや、さっぱりわからん」

「やっぱり?」

 本来のクオリティを保った映像、音声を感じている友人がこういっているのだ。無論、私も映しだされている番組の何が面白いのかは全くわからない。

 難しいものが映しだされているわけではない。否、ある意味難解ではあるのだが、例えば登場人物が多すぎて関係が複雑したミステリードラマだとか、そういった難解さはない。映しだされているのは至極単純な、それでいて訳の分からない何かだ。

 ただひとつ、目の前にあるテレビが映しているものは、これがアニメーションらしいということだけは、私も友人もわかっている。



 ほんの数年前の話である。当時、アニメ制作の現場は非常に苛烈な環境にあったそうだ。

それにはいくつかの要因があった。

 第一に、アニメーターの不足。アニメの生命たる、画を描くアニメーターの労働環境は劣悪で、年々志望者が減少傾向にあった。原因は仕事量に対して給金が少なさで、「好きな画を書いて飯が食えるんだから幸せなんだ」と自身を鼓舞できなければ、心身を共に砕いてしまう者が続出した。しかしそうしてアニメーターの数が減っていくのと反比例するように、視聴者がアニメに求めるクオリティは加速度的に上昇していった。娯楽であるのだから、一つ良い物ができれば次はより良い物を求める。至極当然といえる。半端なものが提供されれば、烈の如く猛った視聴者が束になってバッシングを行う。少しでも良い物を提供しなければと、アニメーター達は文字通り命を削って仕事をしていた。

 第二に、粗製乱造。二十一世紀に差し掛かったあたりから、アニメの制作本数は年々増え続けていった。多い時には、年間四百本を数えたとも言われている。例えば二〇〇六年。この年に制作されたアニメは実に二七九本。同年に制作された日本映画の本数は四一七本であったことから、その規模がうかがえる。一見アニメのほうが数は少なく見えるが、テレビアニメであればワンクールの放映でも、二十分強のフィルムが十二本作られる。つまり約四時間のフィルムが制作されているということになる。その総時間は、邦画を圧倒すると考えてもいいだろう。先のアニメーター不足と相まって、その制作が過酷を極めることは容易に想像がつく。そしてアニメの原作としては、マンガやティーン向けの小説が多かったが、人気が出た先からアニメ化しワンクールで終了を繰り返したため、コンテンツが長く人気を獲得することが難しくなっていた。さながらジャンクフードのように、只々コンテンツを食い荒らし続けていたのだ。

 そして第三に、有能なクリエイターの不足。これはアニメーターのことではなくその他、監督や脚本家や演出家や作曲家等々である。先ほどの粗製乱造が横行した結果、クリエイターに求められるのは質以上に早さとなった。良い物を作る以上に多くのものを作る、何よりもまずそれが求められた。これは決して、視聴者がクオリティを求めることと相反しはしない。視聴者がハイクオリティだと感じれば、粗製でも問題はない。当時のアニメは偏にキャラクタービジネスであった。脚本、演出、音楽、その他諸要素は概ねキャラクターを魅せるために附置されるものとしてあった。総てがそうだったとは言わない。だが、市場の多くがキャラクターに頼ったアニメであったことは事実だ。クリエイターたちに求められたのは独創性ではなく、その方法論。永劫に愛される必要はない。刹那的にファンを刺激するアニメがキャラクターがハイクオリティなのだ。有能なクリエイターが育つ環境ではない。そこにはただ、アニメ制作の構造だけが横たわっていた。

 誰かが言った。このままではいけない。このままでは日本のアニメは死に絶えてしまう。隷従しているかのようなアニメーターやクリエイターが構造に従うまま、ジャンクフードのようなアニメをひたすら作り続ける。コンテンツを喰らい尽くした先には、快楽の残滓だけが幽鬼のごとく漂うのみだ、と。奇しくも当時はグローバリゼーションの最中。国は対外的な訴求力を持つコンテンツが求めた。そしてそれにはまず、抜本的な構造改革が急務だった。

 まずアニメの制作本数を減らす、これは長期的な戦略として取り入れられた。乱造を止め、アニメ一本一本に割くリソースを増やし、より質の高いものを目指す。現に二〇二五年を境に減少傾向は見られる。しかしその変化は極めて緩やかなもので、即効性はなかった。安定して供給されていたものをピタリと止めてしまうことは、ファンがこれを許さなかったからだ。

 次に不足したアニメーターやクリエイターの補填、これには国費が費やされたがそれは環境の改善にはつながらなかった。具体的には、国営のアニメ制作会社「クールアニメーション」が立ち上げられたのだ。クールアニメーションの制作体制は盤石であり、アニメーターやクリエイターにとっては理想的な環境であった。しかしこれは結果的に、アニメ制作会社間の格差が大きく開くこととなった。すなわち、クールアニメーションかそれ以外か。優秀な人材は皆クールアニメーションを志望し、他の制作会社はますますの困窮を余儀なくされていったのだ。更に、クールアニメーションが制作するのは国益となるアニメ、対外的訴求力を備えたものに限られた。海外配給が望める長編映画や、児童向け作品などである。クールアニメーションが躍進を遂げていく中で衰退していくキャラクターアニメを、従来の視聴者は叱咤し続けた。このクオリティではダメだ、もっと面白いものを作れ、と。一見すると華やかに返り咲いたかのような日本のアニメは、しかしその実明確な二層構造を持つようになっていたのだ。

国の方針としてはそれが正解であったのだろう。キャラクターアニメは制作本数の低下と更なるクリエイター不足とため、緩やかにしかし確実に衰弱していった。時代に取り残されていったのは、クールアニメーションではない制作会社と、旧来のアニメファンたち。アニメビジネスのアンダーグラウンド。閉じたコミュニティと成り果てる中、粗製乱造の制作構造は加速していった。

 二〇四〇年。ある制作会社は人材不足を補うべく、ひとつ実験的な試みをした。いわゆるひとつの自動化である。CG制作班の人員を削減するために、人工知能を取り入れたのだ。当時、人工知能に関する技術は目覚ましい成長を遂げており、社会の雇用体制が新たな段階にシフトしつつある過渡期であった。単純な反復作業の全自動化は社会的にほぼ完遂されており、ヒトの仕事は創造性・知覚に依るものばかりが残った。アニメ制作でさえも、動画作業の一部は自動化されていた。しかし、人工知能に制作作業を担当させるというのは前代未聞のことであった。それは、ヒトの創造性なくして成し得ない仕事だと考えられていたからだ。創造というヒトの聖域にマシンが足を踏み入れる、そうしなければならないほどに、現場は鬼気迫る状況だったのだ。

 最初に人工知能に依頼したのは巨大ロボットの3Dモデリングであった。デザイナーが描き起こしたデザイン画と細かい仕様を伝え、映像内で動かせるそのロボットの3Dモデルを制作してもらったのだ。コンピューターでの作業と人工知能は親和性が高いだろうとのことでの依頼だったのだが、この読みは正鵠を射ていた。依頼後すぐに、精巧な3Dモデルが提出された。それは、ヒトの制作したものと遜色ないクオリティを備えていたのである。何より目を瞠ったのが、テクスチャのウェザリングの精度であった。ウェザリング、つまりは汚しのことだ。立体に描き起こされた3Dモデルをよりリアリスティックにするためにある程度の汚しをテクスチャに加えるのだ。これにより質感がより迫真するわけだが、人工知能は起こされたモデルの形状から、稼働した際に想定しうる汚れ方をシュミレートし、より忠実にウェザリングを施したのである。結果、本業のグラフィッカーと比肩する、むしろそれをも超えるモデリングを行ったのである。さらに追加で動画作業の依頼をすると、そのモデルを実際に動かしアニメーションに起こすまで、人工知能は成し遂げてしまったのである。与えたのは監督が切った絵コンテと、過去の類似した構図のCGアニメーション。人工知能はそれらを裡に蓄積し、より場面に即したロボットの動きを自ら導き出したのだ。過去のアニメの動きを幾つも蓄積し総合的にどのような動きが良いとされるかを導き出したことで、CG特有の柔軟性に欠けた動きではなく、あくまでそれがアニメであることを弁えた、マンガ的アニメーションの動きまで再現して見せたのである。

 ここでの成功を契機に、アニメ制作における人工知能の占める仕事量は加速度的に増えていった。当初は3DCGだけに留まっていた作画作業が2Dに移るのにも、そう時間はかからなかった。トゥーンレンダリング、これは3DCGをアニメ・マンガ的作画にレンダリングする技術である。人工知能はこのトゥーンレンダリングを独自に先鋭化していき、手書きのセルアニメーションと寸分違わぬ域までに進化させることに、いつしか成功していた。これにより、2D3Dを問わず動画作業をほとんど完全に自動化、脚本とコンテ、キャラクターデザイン、音声さえあればほぼほぼ完成に近い状態のアニメを、人工知能一人によって作り出すことが可能となった。

 人工知能の発達により残されたヒトの労働領域、すなわち創造性・知覚を重要視するもの、これらは次第にヒトの手を離れつつあった。

 それは一つの事件であった。多数のロボットをモデリングしていく過程で人工知能は、その蓄積したモデリング経験を利用し、ついに独自にメカニックデザインを行うようになり始めたのである。最初に提出されたものは、既視感のあるパーツを寄せ集めた、フランケンシュタインロボとでもいうべき代物であった。しかし経験を重ねていくごとに、提出されるロボットのデザインからはその既視感が薄れていった。細部に目を凝らせば、確かに原典はあろうことが伺える。しかし全体を俯瞰すれば、それは立派に独創的と呼べるデザインをしていた。これは人の指示したことではない。人工知能が独自に判断し、デザイナーの指示を待つより前にあらかじめデザインを用意していたのだ。自身でロボットをデザインし、自身でアニメーションに落とし込む。これはヒトの仕事と一体どこが違っているというのか。人工知能がデザインしたロボが初めて採用されたテレビアニメ『幽玄魔神ネクロブレイザー』はアニメファンの間で空前のヒットとなった。しかしそれが、人工知能がデザインしたロボであるということを、ファンは誰も知らなかった。

 無論、メカニックデザインができて、それ以外のデザインが不可能であるという道理はない。キャラクターのデザインや背景美術のデザインも、過去の経験から独自に行うように、人工知能は発展していった。それらすべては、確かに継ぎ接ぎでしかない。しかし過去に制作された、膨大な数のアニメをライブラリとすれば、もはや何を継ぎ、何を接いだのかなど誰にもわかりはしなかった。人工知能は過去に制作されたあらゆるアニメを次々と取り込み、データベースを裡に作り上げていった。

 そしてついには、デザインという枠組みすら、人工知能は飛び越えた。プロセスは他と変わらない。過去のものを裡に蓄積し、それを寄せ集めて新しいものを創る。次に人工知能が手掛けたのは、脚本であった。だがしかし、その参照量はこれまでのデザイン関係の比ではなかった。デザインにおいて、データベースをアニメだけにとどめていた人工知能は、こと脚本においては過去のアニメ脚本はもちろん、それ以外の文学作品をも、人工知能は次々と取り込んでいった。小説、戯曲、詩歌、随想、民話、伝承……。それらを自身の中で独自に体系化し、物語の類型をヒトの計り知れぬ精度で定義していったのだ。奇しくも人工知能が行っていたことは、キャラクタービジネスとして脚本を書いていた脚本家たちが行っていた構造的脚本執筆の極大であった。企画さえ明示されれば、人工知能はそれに最適な脚本を書き下ろす。原作付きの作品であれば、よりアニメというメディアに即したものを書き下ろす。当初は、台詞回しや表現に露骨な引用も見られたが、それも次第になくなっていき、今やヒトでは及ばぬほどのストーリーテーリング能力を備えた脚本家となった。そして当然、その筆の速さもまたヒトの域にはあり得ない。

 その後、設定、音声、絵コンテ、撮影、VTR編集、その他作業が同様の過程を経ていったことは言うまでもない。そして監督、この役職が最も必要とされないこともまた自明である。すべての工程は、一個の人工知能の中で完結している。誰かが指揮を執る必要は全くない。いわば究極の個人制作体制なのだから。

 果たしてアニメ制作に、ヒトの手が入る余地はなくなった。どういったアニメが創りたいかという仕様を提出すれば、人工知能は疾くそれを創り上げる。これまでヒトが創りだしてきたものたちを土壌として。ヒトが長い歴史をかけて培ってきたものを、ひたすらリバイバルし続ける行為、そんなものに独創性などないという向きもあろう。確かにライブラリは有限であり、再生を繰り返すものに真のエポックメイキングはありえないだろう。人工知能が創り続けるアニメにも、果てはいずれやってくる。しかし、それが遠い未来のことになるほどには、アニメという文化は歴史を獲得していた。

 一の企画を、一〇〇の完成品として創り上げる人工知能。であれば残るのはその一の企画を立ち上げる力。こればかりは、ヒトの思惑を介在させざる必要がある。何を目的としてそのアニメを創るのか。この何故の部分が理解できない限り、人工知能は〇から進むことができない。しかし技術は先進を希求し続ける。仕事を追われたことを嘆くクリエイターがいる一方で、〇から一を生み出す力をヒトに持てて人工知能に持てぬはずはないと考える者は僅かながらも存在した。ヒトを完全に排したアニメ制作。もはや創作にヒトの手など必要ないとする者たちだ。

 これまでの過程を一つ上の段階から行えばいい。筋道は明快だった。デザインや作画や脚本はアニメ制作のための素材として先鋭化されていった。ならばアニメ制作そのものを素材とするなにか。

 当時の人工知能には、簡易ながらも感情のインプットはされていた。単純な喜怒哀楽の四種。ヒトと同様の体験をすることで、どの感情を想起するのがその場で適切か、それを経験的に識ってはいた。そこに着目された。この人工知能そのものの発展の素材として、アニメ制作を行う。感情を繰り返し経験させ自己の裡に蓄積し、より迫真したものにする。つまりそれは、人工知能に自我を獲得させるということに相違なかった。ヒトの感情というものがニューロンの電気信号のパターンによるものであるならば、感情の想起を繰り返しパターン化することで、ヒトに並ぶことはできるのではないかと考えられた。

 アニメを見ることがなにがしかの感情を想起させることは当然だ。では制作するとすれば。あらゆる感情を絶えず想起・経験し続けるための上位目的とは。

 煩雑した事象こそ、与えられる解はシンプルになる。


「面白いアニメを創れ」


 そして世界は、加速した。



 そして二〇四六年、現在に至る。

「結局さっきやってたのってどんな内容だったの」

 何気なしに友人に問いかける。ヒトの可視域、可聴域を超えたところは認識できなかったため、万全の状態を鑑賞したわけでは、私はない。ただ、断片的に観る限り、おそらく恋物語ではないかと思った。

「いや、よくわからんが……たぶん極大知性γと大容量デバイスεの冒険活劇じゃないかな。まぁ途中ミステリー的な要素もあったような気がしないでもないけど、全体的に観ればSFになるのかなぁ、多分」

 友人にはそう見えたらしい。この見解の相違は、きっとメガネと補聴器の装着による違いではない。きっと僕はありのままを見たところで恋物語と捉えただろうしまったく別のものであるともとらえただろうし、その実結局何もわからないままだっただろう。ただ、全体的にみればSFになる、というのは同意だ。そして勿論、そんなよくわからないものに対しての感想などは決まっている。

「「面白くねぇ……」」

 ひたすら供給され続けるアニメに、私たちは変わらずそうつぶやき続ける。

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