4月末
そのうわさが出はじめたのはいつ頃だったろう。
椿が初めて耳にしたのは五月も初め、木々は目にも鮮やかに、風は、早くも夏を感じさせるほどに晴れ渡った眩しい午後の事。
「保健室に知らない女子が居る?おれたち未だ入学して一ヶ月しか経っていないんだから、当たり前だろう」
「それが違うんだよ、二年も三年も誰も知らない女子が居るんだ」
「じゃ、新しい保険の先生」
「が、制服着ている訳ないから謎なんだよ」
呆れ、と言うよりは心の底から不可解に首を傾げて返すと、エヘン!待ってましたとばかりの、したり顔、顔、顔。どうも要領が飲み込めない。…いや、本当は予測が付いているのだが考えたくないと言うか。
先日のハダカ事件以来、男子の間限定ですっかり株を上げてしまった椿の元には、クラス内外からこういった妙な話がたびたび持ち込まれる。やれ体育倉庫の金庫には何が入っているだの、どこぞで見かけた女子の名前を知りたいだの、頼りにされる事には大歓迎なのだが、都合よく使われているような気もしないでもなく、やっぱりこう言う経験も初めての事で無く。
「そこで代表の出番なんだ。俺たちクラス男子一同、いやさ全校男子生徒が美人保健委員の事を知りたがっている。野球部のキャプテンなんか、毎日通い詰めているらしいし、ほかの奴に先を越されるなんて許せないだろう?ここは一つ!我らが代表の力を見せ付ける絶好の機会!!」
「要するに、女子の評判を落としたくないから、もう地に落ちたおれを利用して情報ゲットって事ね」
「そういう言い方をされると実も蓋も無い。もちろん、やってくれるよな」
「う~ん、しらみつぶしに探す事になる可能性もあるし。食券一週間分で手を打とうかな」
一転、顔寄せ合って作戦会議。各々の財布を紐解き…かなり長い間待っていたような気もするがとにかく、しぶしぶながらも商談成立!エイエイオー!と一致団結する姿を見て早くも女子たちが、あからさまな軽蔑の眼差しを向けていたが内緒にしておこう。こうして椿は、クラス男子たちの熱い期待と男のロマンを背に教室を後にする事になった。
とは言ったものの十中八九、彼女であることは間違いないだろう。たまにはボロ儲けさせてもらってもいいよなと、獲得した食券を手に、口笛吹き吹き保健室の扉を開けるとやっぱり。
「乙訓さ~ん、迎えに来たよ」
「つ、椿くん!?ど、どうしてここが、って言うか今日は委員会があるから遅くなるって言ってなかった?」
「委員会は明日の間違いだったんだよね、さっき会議室へ行ったら誰も居なくて。だから今日は、放課後の保健女子さんを確認がてら、来ちゃいました」
ご丁寧に制服の上から白衣を羽織り、診察用の丸イスで固まったまま、さっきの椿同様、心底ふしぎそうな顔を傾けて、続く言葉を待っている。その点には愛想笑いで返して、向かう患者用丸イスに腰掛けると。思いのほか近く、コホンと咳払いで誤魔化して気を取り直して。
「ね、ね、何してたの、女医ごっこ?」
「お、おかしな言い方しないで!保健の先生が席を外している間だけ、手伝ってるのよ」
「毎日?」
「って、何で知ってるの」
「ふふ。放課後の保健室に誰も知らない女子がいるって、うわさになってる事、知らないんだね」
「え!…ずっと、ここにいるから。それじゃぁ場所を変えた方がいいかしら、でもここ以上に快適な逃げ場所って…それで!この間から患者さんが増えているのね、それも処置って言うまでも無いような理由をつけて来るの、男子ばっかり」
そう言って、てまりが目を向けたのは意外にも窓の向こうで、椿もそれに倣うとグラウンドが、部活動に励む生徒たちがよく見えた。
ああ、また。と小さく漏らした、てまりは精一杯の作り笑いで窓の外に手を振り、その先を辿ると野球のユニフォームを着た男子生徒が両の手で、全身で歓迎しているのが見える。どうやら彼がうわさのキャプテンらしい。てっきり明智探偵よろしく調べて回っているのかと思っていたが、そう言うことか。彼は彼で、てまりの隣に居る椿を確認するや否や瞬間止まり、それから自慢の脚力を存分に発揮してこちらへ一直線!
「あそこ、走ってこっちに向かって来ているのが野球部のキャプテンさん、常連なの。怪我してる訳でもないし、何処も悪くないと思うんだけど」
「いや、あれは重症じゃないかな」
分かるの?と、てまりが椿に向き直ったのが早いか、グラウンド側の扉が勢いよく開かれてキャプテンが血相変えて土足で踏み込んだのが早いか。
「こ、困ります!面倒くさがらずにちゃんと靴を脱いでください。ここは保健室なので、清潔第一でお願いしますって、昨日も言いましたよね?」
慌てて靴を脱ぎ、床掃除に取り掛かるも、膝やらすねやら、とにかく全身土まみれでは。そんな分かりやすい彼に対する、てまりはと言うと一緒になって、ぎくしゃくと雑巾を用意したり、タオルを渡したり。
「顔も、これで綺麗にしてください。あ、顔が赤いですね、もしかして風邪ですか」
「ハァいやその、てまりさん、この男は…」
「乙訓さん、今日も留守番ごくろうさま!さ、交代交代」
と、てまりの手がせっかくキャプテンに伸びた時に限って。邪魔に勢い良く入ってきたのは本当の主、重量級のおっかさんタイプ保健医。そう言えば、健康診断の時に見かけたな、彼女。早速、室内のただならぬ様子に気付いて、てまり、キャプテン、椿の順に顔を見回し、ははんと一人合点しては、そのクリームパンのような両の手のひらで男二人の背中を思いっきり叩くと。
「いや~この子ったら、いつまで経っても保健室だから心配してたけど。先生安心したわ、やるじゃない!で、どっちが本命なの」
「つ、椿くん大丈夫!?キャプテンさんも。そう、こちらお熱があるみたいなんです」
「うんうん、そっちね。で、こっちは草津の湯。よろしい、先生がとっくと聞いてあげましょう、さ、座って」
「おねがいします。それじゃ椿くん、帰ろうか」
仲よくね、と椿たちに付いて来ようとするキャプテンの手をしっかり引きとめて手を振り、それに深く頭を下げて下校の挨拶をする、てまり。何の未練も無く、というより全く気付く様子も無くあっさり扉を閉めて、閉まり行く扉の向こうの、キャプテンの顔が半べそだった事は、椿の胸に仕舞っておいた方がいいだろう。でも、
「風邪でもクラブに出なくちゃいけないって、キャプテンさんも大変よね」
「…本当にそう思ってるの?」
「違うの?」
なんと説明したものか。いや、彼女が気付いていないのなら止めておいてもいいか。
校舎の外に出ると日は茜く、思わず逸らした目の先の、ふたりの陰法師は重なり、ますます目のやり場に困って。どうやら今日は、顔を上げる事も出来そうに無い。