9月 4
まさか、泣くなんて。
忘れようと仕舞い込んでいたワンシーンは、なのはの一言であっさりと、意識のいちばん浅い所で椿を責める。…らしくないだろ!この椿竜彦が悩むなんて?こんなにも…後悔するなんて。落ち込んで、元気が無くなくなって、自分が自分で居られなくなるなんて。…本当は、予想していたのかもしれない、だって、少し考えれば分かるようなものだろう?でも、考えなかった。あんな事になるなんて想像もしなかった。
「どうして、あの時…」
「あの時、おれはハッタリなんかこいちゃったんだろう?まさかこの期におよんで、本当にウソだったのか代表!?」
「ウソだった、のか?…それなら何でこんなに、考えるだけで苦しくなるんだ」
「苦しいのは後ろめたさがあるからでしょう。でも、すぐに楽になるわ、だって結果は見えてるんですもの。楽しみだわぁ、約束」
「約束…絶対泣かせちゃいけないって、決めたのに。おれ、どうしてあんな事言ったんだろう」
「代表、今さら後悔してももう、気の早い女子は準備万端だぞ、あ~ぁ」
「もし、その彼女が六時までに来なければ、椿はその場で頭を丸める約束。楽しみだわぁ、椿、頭の形キレイだから、きっと似合うわよ」
「それはどうも。ってちょっと待った!何だその、フザケた約束は!?と言うか…お前らいつの間に、何でドーナツショップ?」
皿のように平べったい、いくつもの視線が椿をバカ?と攻め立てる。
改めまして。
昼休み、なのはの助言を受けてからずっと、気もそぞろに心の底の辺りを漂い続けていた椿。何もかも忘れて家路に付いたつもりが、気がつけば日は傾き、約束の五時の少し前のドーナツショップの一角に座らされている…と言うか、ボウズ!何で?
恐る恐る、髪に手を当てると途端に、集まった野次馬クラスメイトの呆れ目線に狂気の火がともり椿の心臓が縮みあがる。冗談でしょう?と喉まで出かかった言葉も声にならない。
…やる気だ。そりゃ確かに、毎朝毎朝手のかかる癖っ毛だが。どんなに苦労しても、だからこそ愛しい大事な髪!誰がそんな、非人道的な事言いだしたんだ?ともかく!断固拒否、絶対回避!むしろ脱出。
「ちょっと!椿ったら何処へ行くのよ」
「ト、とイレでございます」
「往生際が悪い!代表の風上にも置けないな」
「おれは!男の風下で後ろ指さされたって嫌なものは嫌なの!」
「…本当、こんな男の何処がいいのかしら、てまりは」
半歩。逃げようとしていた足は迷って迷って、もとの位置。口を真一文字に腰を据え、膝の上に固く結んだこぶしは震えを隠そうと、うつむいた心に映る記憶はやっぱり…
もしかして、椿を好きになった事を後悔して、泣いていたの?
yesと言われる事がひたすらに、恐かった。
ガラス越しに見える大時計の針が真っ直ぐになると待ち構えたように、ゼンマイをきしませながら音楽が流れ、すっかり夜色の街並みを急ぐ人々の顔をほんの一瞬、ほころばせる。顔も見えない、知らない誰かの、ほんの小さな幸せ。
誰も…これから椿の身に起ころうとしている不幸せなど予測もしていないだろう。椿自身も間抜けな事に、まんじりともしない雰囲気に任せて再び心の底辺へ、性懲りもなくスッカリ忘れていた。だから再び
「一時間経過。椿、最後に言いたい事はあるかしら」
「おれは…てまりちゃんは、おれが居ないと駄目だったんだ。皆と話す事も、クラスに出て来る事も。でも、少しずつ溶け込んで行って、みんなと仲良くなって、おれが居なくっても平気に見えて…悔しかった。時々、うっとおしいって思ってたくらいのに、それなのに本当に一人になったら、寂しかった。いつの間にか、おれの方が平気で居られなくなってた。てまりちゃんが居ないと、なのに…」
「話逸れてねぇか?」
「シ!あの椿が告白してるのよ、てまり居ないけど。言わせてあげましょうよぉ」
「なのに、傷つけて。フォローも出来ないで逃げてばっかりで」
「そうよね。じゃ!もしもしこの場に、てまりが居たとして一言っ!」
「てまりちゃん、おれ…」
「って、こっ恥ずかしい!取り押さえてサッサと刈るぞ」
すっかり告白大会ムードに目を輝かせていた女子たちにしびれを切らしたのか、場の雰囲気に耐えられなかったのか。勢いづいた男子が飛び掛かるとあっさり、未だ浮上途中の椿はなされるがまま、用意していた白い布を首に巻かれてようやく、事の次第を思い出す。
「し、しまった!言葉巧みに誘導されて油断した!…あ~もう!分かりました、煮るなり焼くなり…と言いたい所だけどやっぱり嫌だ!この通りだから勘弁して」
「ど、土下座!代表、そこまで堕ちたか」
「全く、あと一言だったのに。もうど~でもいいわ、取り押さえて刈ちゃえば」
「そ、それだけはぁ~!」
キラリ、とアナログなバリカンが、椿をあざ笑うように蛍光灯に反射する。あわや!
「だめぇ!」
大きな声と同時にみぞおち辺りに重い衝撃、続いて後頭部に迫る椅子の角!…を何とか避けられた事は奇跡に近い。
一瞬、誰もが何が起こったのか理解できない。男子生徒の、手持ち無沙汰になったバリカンはわずかに、椿の頭から一本だけを勝ち取っている。そこから少し離れた所、野球部も真っ青な捨て身のスライディングで椿の癖っ毛を死守した人物は今は、馬乗り状態のまま真っ赤にうろたえて身ぶり手ぶり言葉を探している。
「ご、ごめんなさい!え~と、その…そう!待ていてくれてありがとうござる!その、ここじゃ何だから、こっち!」
手が抜けるくらいに引っ張って、疾風のごとく去って行く。…後には台風一過さながらの大惨事に、茫然と立ち尽くすしかない被害者たち?
「ほ、本当に居たんだ?でも高嶺の花女子ってうちと同じジャージ?」
「何処見てるの、てまりじゃない。あーもう!誰が後片付けすると思ってるのよ!」
そりゃ、店員さんたちの冷たい視線を見れば当~然。
「ハァ、ここまで来ればもう大丈夫…って、椿くん?」
「は、速いよぉ、てまりちゃん」
「ええ~!?サングラスにマスクして帽子被って来たのに、何で分かったの」
わかるよ、どんな格好をしていても、てまりちゃんなら。
「ありがとう、助けてくれて。本当に、本当にうれしい。おれ、こんな性格だから、たぶんこれからも何回か困らせちゃうかもだけど…それでもいいかな」
「これからも?何回か?それってもしかして、ぷ、プロポーズ!?」
「ちょ!ひ、飛躍しすぎ!いい?おれはね、これからも恋多き青春をエンジョイするの!」
「ム!やっぱり、今から取って返してみんなの前でバリカン刈ってやる。それが嫌ならぁ~、一つだけ約束して。わたしだけを好きでいて、ね、椿くん?」
「ど……努力します」




