。――2年後-1-
澄みわたる空。そこに浮かぶ雲は薄く伸びて山まで届く。太陽は大地を照らし、海は穏やかな風を運ぶ。
サイジル国の小さな島、トルマディナの港では活気に溢れ、漁師や買い物客が笑いあい、子供たちも興味津々で魚とにらめっこしている。そしてトルマディナにある立派な城の裏庭では…。
バチッ!!ガツッ、ガガッ!!
服や武器が素早い攻撃の中で擦れ合う音が聞こえる。赤錆色の髪と真っ黒の髪が何度も何度も近付いては離れ、互いの身体目掛けて拳や蹴りを繰り出していた。ビュッと黒髪の攻撃の手が空を切る。躱した赤錆髪は懐に入ろうと勢いよく地面を蹴った。あと一歩で腹に一発入れられる、その時だ。
ボーン、ボーンと時計台の鐘の低い音が辺りに鳴り響く。正午を報せる鐘の音に、二人の攻撃の手がピタッと止まった。
「わーい、お昼だあ♪」
闘っていた二人の近くで黒髪の少女が声を上げると、その横をビュンっと二つの影が追い越して行く。後ろにいたはずの二人の姿はもうない。
「アハハ!待ってよー♪」
少女は笑いながら二つの影を追いかけた。一歩目を踏み出したあと、少女はぐんっとスピードを上げた。裏庭から中庭、兵士たちの訓練場の横を過ぎる間に、何人もの人間を追い越していく。しかし前を走っている二人にはまだ追いつけない。ものすごいスピードで駆ける二人に気づいた人は道を開けるように横に避けている。ほぼ一直線、同じくらいの速さで赤錆色と黒色がある場所に向かっていた。
同時刻、食堂では入口を開けて皆が何かを待っている。遠くからダダダと廊下を走る音が聞こえると、その場にいた人間全員が開いている扉を凝視した。
―――と。
「っめえんだよ!!」
瞬間、入口前の廊下に赤錆髪と黒髪が勢いよく現れ、すかさず黒髪が足をズッと伸ばして食堂の床へ一歩踏み入れた。
「あっ!!」
そのすぐあとに赤錆髪も食堂に入るが、なんとも悔しそうに表情を歪めた。
「勝負あり!!」
「何だよー、今日もミンチェの勝ちかよ!!」
「いえーい、俺の当たり!!」
「くそー、あとちょっとだったのに!!」
様子を見届けた人々は一斉に声を上げる。コックたちは持ち場に戻って食事の支度を再開し、他の者はそれぞれ自分の座っていた席に着いた。その中で一人だけ彼らの元に向かい、にっこりと笑顔で迎える少女がいた。
「惜しかったね、ラクト。お疲れさま。」
名前を呼ばれた赤錆髪の少年は、額から流れる汗を拭いながら微笑みを返した。
「うん。ありがとう、ウルキ。」
にこにこと二人だけの空気が漂う中、一緒に入ってきた黒髪の少年は舌を出しながら反論する。
「惜しくねーよ!まだまだ俺の方が速いね!!」
そう言って鼻息をふんっと荒げていると、後ろから追いかけていた少女がようやく追いついて立ち止まった。
「そんなこともないよ、兄サンといい勝負♪ラクちゃん本当に速くなったね。」
「ああ゛!?リリ、馬鹿言ってんじゃねえよ!!俺はまだ本気で走ってねえんだ!!」
ぐあっと怒りを顕にするミンチェの頭に、突如としてチョップが襲い掛かった。
「っで!?」
「!シャーロットさん。」
振り返ると四人の後ろにオレンジ色の長い髪の女が立っていた。ミンチェを叩いた手を腰にあて、シャーロットと呼ばれた女が溜め息をつく。
「いつまで入口に突っ立ってんだ?後がつかえてるだろ!?さっさと席に着け!!」
見るとシャーロットの後ろにはぞろぞろと先程追い越してきた兵士たちの姿があった。皆食堂に入れず立ち往生している。怒られた四人は慌てて食事を受け取り空いている場所、ラクトとウルキは窓際、ミンチェとリリはそこから少し離れた席に着いた。
「ラクトー、今日も負けたんだって?」
料理を乗せた盆を持ちながらラクトたちの元に二人の兵士が近付いてきた。この城の近衛隊、第二部隊隊長アイルと部下のロギだ。
「ロギさん、でも今日はあと少しだったのよ?」
隣に座るロギにウルキはにっこりしながら言った。
「へえ、すごいな。ではミンチェを追い越す日も遠くないかもね。」
アイルがそう言うと、聞き耳を立てていたミンチェが声を張り上げる。
「うるせえ!!俺は本気じゃねえって言ってんだろ!!」
ガルルッとまるで獣のように睨んでいるミンチェを、妹のリリはにこにこしながら宥める。
「分かったよ、兄サン。それより食べないなら私がおかずもらってもいいー?」
そう言ってリリはミンチェの皿から唐揚げを一つ奪って口に放り込む。
「んな!?リリ、お前!!」
「うるさい、黙って食え!!」
ギャーギャー騒がしいミンチェにシャーロットがまたチョップする姿を見ながら、ラクトたちも食事を始めることにした。本日はパンが二つとトマトと豆のスープ、サラダに魚の唐揚げだ。
「にしてもすっかり恒例になったな、お前とミンチェの昼飯前の競争。」
スープを啜りながらロギが言うと、ラクトはぽりぽりと頬を掻いて申し訳なさそうに謝る。
「す、すみません…お騒がせしちゃって。」
「いんや、おもしれーからいいんだけどよ。ただ、たまには勝ってくれねーと!俺はお前に賭けてるんだからなー!」
唐揚げをバリボリと頬張りながらロギはアイルの皿を見るようスプーンを動かす。見ると明らかにロギよりおかずの量が多い。どうやらラクトたちの競争を賭事にしているらしく、今日はメインの唐揚げを賭けていたらしい。近くにいた何人かの兵士もそうだと相づちを打った。
「いや…負ける俺も悪いですけど、それなら賭けなきゃいいじゃないですか。」
「ラクトっ…見込みが薄いお前のことを期待している俺らに何てことを!」
「見込みが薄いって言っちゃってるし…それは俺が勝ったらアイルさんに奢ってもらえる約束をしたからでしょう?」
「なんだ、知ってたのか。」
演技をやめてロギはけろっとした表情になる。本人に悪気はないのだが、ラクトにとっては複雑だ。
「はは。ラクト君、そう肩を落とすことはないよ。ロギもこう言っているが、君が思っている以上に皆期待しているんだよ。いつかミンチェより強くなれる、とね。そうでなかったら賭事にもならないさ。勿論、私も期待している。」
第二部隊隊長のアイルに期待されているということに、ラクトは気恥ずかしいが嬉しさでつい顔がにやけてしまった。が、ロギがラクトに賭けて負けたのなら、アイルはミンチェに賭けていたということ。また複雑な顔になったラクトにアイルは続ける。
「期待している、けれどもう少し力をつけないとね。」
それを見てウルキはクスッと笑った。
「そういえば…もう二年になるのか。君たちがトルマディナにやって来てから、早いものだ。」
アイルの言葉にラクトもウルキも昔の自分を思い出す。
そう、ラクトとウルキが初めてトルマディナの地に足を踏み入れてから約二年が経過しようとしていた。
ラクトの魔眼が発覚してから色々検査を受けたが、目以外に体調に異変はなく、魔力との相性もよかったらしい。拒絶反応も起きることなく、ラクトは何とかその力を自分のものにしようと必死になった。
何となくでしか見てこなかった魔力だが、色によって様々な特徴や癖があることを知った。生き物身体に直接影響を与える魔力は黄色っぽいものが多く、自然界に存在する力が集約したような炎や雷などは緑、また武器など命のない物を強化するものは紫、逆に空気など目に見えないものを変質させ纏うような魔力は赤などだ。また、使える魔力に得意や不得意があることも分かった。城にあった魔道具を片っ端から試して、自分がどんな魔力と相性がいいのかを探ったりもした。
勿論、ミンチェとの特訓も欠かすことはない。毎日飽きるほど取っ組み合い、生傷を作ってはウルキに治療してもらった。最初こそ最後には息切れしてしまっていたが、段々と体力面でも技術面でも力がついてきて、今では午後だけだった特訓も朝からやり合い、そのあと全力疾走の競争までできるようになった。この全力疾走も一年ほど前から毎日繰り返されていて、始めた頃は二人の距離はかなりあったが、ラクトの元からの逃げ足の速さもあってか最近ではほぼ同着になりつつある。それはラクト自身にとっても嬉しいことだった。
「ミンチェたちもなんだかんだ馴染んできたしな。昔はこんな大勢集まる場所には来なかったのに、今じゃあの憎たらしさも慣れちまった。」
ロギの言う通り、ほとんど団体行動を避けていた二人もラクトとの特訓を通して他の隊員との接触も増えてきた。原因であるミンチェの性格が変わった訳ではなく、ラクトのような人のいい少年の相手をすることで恐怖や厄介者だという周りの印象が変化したことが大きい。ワガママで怒らせたらちょっと恐い子供、というように考え方を変えて、ミンチェに話し掛ける兵士たちが増えたのだ。
「思ったんだけどよ、真っ黒の野良猫みたいだよな。一匹狼ならぬ一匹野良猫?」
ロギの言葉に思わずラクトたちは噴き出してしまった。フシャーっと威嚇している黒猫が容易に想像できる。
「…んだと、ロギ…てめえ!」
どうやら聴かれていたらしい。真っ黒いオーラを纏ってミンチェが席から立ち上がると、ロギはズババッと皿に残っていた料理を口に掻き込んで席を立つ。
「ひへふははひっへへ!」
逃げるが勝ちってね!と言いたかったらしいが、モゴモゴ何を言っているのか分からない状態でラクトにウィンクすると、ピューッと食器を片付け、手を振りながら一目散に逃げて行った。
「待ちやがれ!!」
ミンチェも怒りの形相でロギの後を追いかけていく。それを見ていた食堂にいる人々は、ミンチェが居なくなったのを確認してから一斉に笑い声を上げた。
「ぶはは!!またやってら!!」
「ロギも懲りねえなあ!!」
こうしたロギとミンチェのやりとりも今に始まったことではなく、これもミンチェを受け入れる大きな要因となっていた。
「兄サンが行っちゃったから、ここにお邪魔してもいい?」
残されたリリはさっきまでロギが座っていた場所にやって来た。どうやらシャーロットはとっくに食べ終えて行ってしまったらしい。ウルキがにこっと微笑んで頷くと、リリもつられて笑顔になった。
「兄さんについていかなくていいのかい?」
アイルが訊ねるとリリはこっくりと頷く。
「いいの。相手はロギさんだし、あの人は兄サンを傷つけないで押さえることができるから。それに、兄サンもそんなに大暴れすることもなくなってきたし♪」
嬉しそうに話しているが、内容はもう乱暴な息子を持つ母親の心情だ。ミンチェのストッパー的な妹がこの子で良かったと誰もが思う。
「そうか…リリはいい子だね。」
食べ終わった食器を持って立ち上がったアイルが去り際にリリの頭を撫でていった。リリは照れたように撫でられた場所に手を当てて赤くなっている。
「えへへ♪くすぐったいね。」
「本当のことだもの、リリはいい子よ。」
「えへ、ありがとウルちゃん♪」
ラクトたちが特訓する間にウルキとリリも仲良くなっていたらしい。女の子同士の柔らかい雰囲気にラクトも癒される。何気ない会話をしていると、昼食時間の終わりが迫ってきた。
「そろそろ戻ろうか。ウルキは今日は書庫?」
「ううん、午後はセミールさんが時間を作ってくれたから会議室で最新の情報を教えてくれることになってるの。」
この二年の間、ウルキも何もしていなかったわけではない。書庫にあった大量の書物を読み漁り、ほぼ読破してしまった。そればかりではなく、この城の主で王族でもあるセミールに話を聞くことで、現在の情勢の勉強まで始めた。そして、もう一つ…。
「そのあとは私も特訓よ。」
グッと拳を握ってラクトに見せて笑う。
ウルキはシャーロットがかつて閉じ籠った地下の部屋で、一人で己の魔力を制御する特訓を始めていた。感情にされやすいウルキは、誰も来ない、侵されない、安全な練習場が必要だった。そして選ばれたのがあの部屋だ。シャーロットの血痕が大量に残っていた部屋を綺麗にしたあと、魔力を通さないコーティングを施した部屋で自分自身と向き合い、力を高めていた。ウルキが魔人だと知るのはラクト、シャーロット、セミール、そして医師のフラットだけだ。何も知らないリリたちには護身術の特訓、ということにしてある。
「そっか、頑張ってね!なんなら私が教えてあげるよ♪」
「ありがとう、リリ。」
「…無理はしないでね。」
と、ラクトが心配そうな表情をしていることに気がつく。ウルキの境遇を知っている分、ラクトはウルキが魔力を使うことに少しだけ不安を持っていた。それでも、ウルキはそんなラクトに笑顔を向ける。
「ふふ、ラクトもね。」
そして食器を片付けたあと、各々が自分の目的地に向かって食堂を後にした。
二年、それは長く、とてもあっという間の月日だった。ただがむしゃらに、でもひた向きに、ラクトとウルキは自分の役割を、目標を胸に前を向いて歩いていた。