鐘の音
数日後の夜、維月は、自分が大怪我をして死にかけた場所、そして数年後には、そこでついに人としての命を落とした場所に立っていた。
遙が祟り神に囚われ、それを若月と共に助けようとして…だが、あの日は闇夜だった。人だった維月には、まだ自分で人型を取る事の出来なかった十六夜からの力は降りず、蒼が無理矢理門を開いてその身に十六夜を下ろして助けに来た時には、自分は黄泉に旅立っていた。黄泉の自分に届いた、皆の泣き声…。維月は思わず耳を塞いだ。最後まで十六夜は自分を呼び続けていた。今も月から聞こえる十六夜の、自分の名を呼ぶその声は、その時の記憶とあいまって維月は身を縮めた。あの悲しげな声…。
回りの景色は、人として自分が最後に見たものと同じだった。夜の闇の中、それは尚も昨日の事のように鮮明に思い出せる。ここで、終わった。それで私は、全て終わったはずだった…あとは蒼に任せて、十六夜もまた、代々当主を守って生きて行っただろう。そして維心は…維月など知らず、面倒な思いもすることはなく、王として同じように君臨し続けて…。
ふと、読経の声が聞こえた。近くの山の上にある、寺からのようだ。人の通夜か何かだろうか。
神の世では、読経も聞く事はない。神は神でしかなく、法要もその決まりに則って行う。そう言えば、仏がどうのと聞いた事はなかった。
怖いという気持ちも最早維月にはなく、維月はそちらへ向かって人に見えないように姿を消して、スッと飛んで行った。
寺では、思った通り通夜が営まれていた。人としての生を全うしたのか。維月はなぜか羨ましかった。全てを忘れてやり直す事のできる幸せを、維月はひしひしとその身に感じた。月は不死。私は自分で逝く事も出来ない。二人も愛して傍に置く自分。どちらかを捨てる勇気もない。そして、同情して相手を助けるという自己満足のために、愛情もないのに他の者まで一時的にせよ受け入れて、更にその二人を苦しめるようなことまでする…。
維月は、ふらふらと寺を離れて、裏にある大きな池へ向かった。その水面を見ていて、ふと源氏物語の浮舟を思い出した。浮舟は、匂いの宮と薫の間で悩んで、河に身を投げる。でも、私は身を投げたって死なない。だって私は、月だから…。どんなに嫌な女でも、この記憶を捨てて、身を捨てて、新しくやり直す事すら許されない。そして、自己嫌悪しながら、長い時を生きなければならない。
維月は涙を流した。どうして戻ったのだろう。私は永く生きて行けるほど、強く清い心の持ち主ではなかったのに。あのときここで死んだまま、戻らなければ良かったのに。死んだ悲しみはいつかは癒されるもの。だけど私は不死の命で、生きている間皆を苦しめて行く。人目にも神の目にも触れる間、私は皆を巻き込んで…。
維月はふと、思った。姿が見えなければいいのでは。消えてしまう…誰の目からも。そこで私は眠りについて、二度と出て来なければいい。誰にも見つからない所で、この膜に包まれたまま…。
そうだ、と維月は思った。十六夜も維心様も、始めは探すだろう。でも、時と共に消えて行く。死んだ訳ではないのだから、どこかに生きていると悲しむ事もないだろう。
維月は決心して、空を見上げた。夜空に十六夜の気配のある月が出ている。きっと私を探しているのだろう。でも、膜に包まれた私を探すのは、いくら十六夜でも至難の業。きっと無理だ…子供の頃から変わらずああして、上に出ていた愛おしい月…。
「…鐘の音の、絶ゆるひびきに音をそえて、わが世尽きぬと君につたへよ…か。愛しているわ…十六夜、維心様。」
維月は、池の中へと歩いて行った。思った通り苦しくも何ともない。そのまま、池の底の岩の間にある洞窟のような窪みの中へと入って行き、どんどんと奥へ漂って行った。奥まった所に少し空間が空いている。そこに身を置いて、二度と目覚めぬように、深い眠りに入って行った。それでもまだ生きている維月の回りはまだ、気を遮断する膜に包まれ、その体を守ると共に、外へは全く気配を逃す事はなかった。
「…維月!」
維心は息を乱して飛び起きた。なんという夢…維月が、どこかの水の中に、身を沈めて…。
維心は胸騒ぎが収まらず、寝台を降りて袿を羽織り、窓に歩み寄った。その夢の中で、聞いた和歌。あれは、いつか読んだ人の世で流行っていた、あの物語の辞世の句ではなかったか。その中でその女は、二人の男の間で悩み、その句を詠んで河に身を投げ…。
不安感がどっと胸に押し寄せて来て、維心は月を見上げた。ただの夢ではないか。それに維月は月だ。死ぬことはない。だが、なぜにこれほどに不安なのだ。維心は居ても立っても居られず、十六夜の気配を読んだ。
十六夜の気は大きく乱れていた。そして月からものすごい速さでまるで落ちるように降りて行くのが感じられる。維心はまさかと慌てて窓を開けると、そのままの姿で十六夜の気配を辿って、必死に飛んだ。我と維月は繋がっている…あれはおそらく、正夢なのだ!
十六夜は、維月が生きて来た道を振り返ると聞いて、自分があの神を封じた、維月が人の命を落とした場所へも必ず行くと思って見ていた。必死に目を凝らしていると、維月が、あの場所から少し離れた山の上にある寺の近くの、池の淵に立っているのが見えた。十六夜は、数日ぶりに見る維月の姿にホッとして、そしてそれが人の頃の姿であることに懐かしさを感じた。すぐに降りて行こうか悩んでいると、維月はスッと歩き出し、池の中へと入って行った。
…あの膜の中に居ては、見失ってしまう。
十六夜は慌てて、必死に維月を止めようと地上へ降りた。維月の姿はもう、池の中へ入っていて見えない。気配が読めないことにいらいらしながら、十六夜も池の中へ飛び込んだ。
維月は、死ぬことはない。あれは月のエネルギー体だし、月は不死だからだ。だが、あの膜に包まれたままこんな池の底へ沈んでしまったら、自分には、維心にも、探し出すことは出来ない。小さな玉を池の中へ落とすようなものだからだ。
《維月!維月!》
十六夜は、池の中で必死に念を飛ばした。だが、池の中には魚や亀などの気が点々としているだけで、全く維月からの念は感じない。そもそも膜自体が、こっちの念すら遮断している可能性がある…。
十六夜は、暗い中でも見える目を、必死に凝らした。だが、維月の姿は全く見えない。
どこへ行った。
十六夜は、自分を責めた。いいと言っておきながら、あんなことを維月に言った…あいつの性格は、誰よりも知っていたはずなのに。あいつは自分を責めたのだ。曲がったことが大嫌いだったあいつが、どれほどに自分を責めていたのか、わかったはずなのに…。
十六夜は水の上から何か分からないかと、水面から顔を出した。すると維心が、必死の形相で傍に浮いていた。
「十六夜…!やはり維月はここへ入ったのか!」
十六夜は頷いた。
「オレのせいだ。オレがあんなことを言って責めて、そのあと話もせずに居たから…そんなつもりはなかったのに。あいつは悪くねぇ。なのに、この中に」十六夜は池を示した。「膜を被ったまま沈んじまった。死なねぇから、膜が消滅することはねぇ…こんな大きな池の、どこに沈んでるのかわからねぇ…。」
維心は険しく眉を寄せたかと思うと、水面に向けて手を翳し、目を閉じて気を発した。
水面が激しく揺れる。辺りの地も連動して、細かく振動した。維心はひたすらに念を飛ばし、何事かと寺のほうから覗いている人のことなど気にも留めずに集中した。人には、神は見えないからだ。
「…駄目だ。」維心は言った。「見える場所には居らぬ。つまりはどこか奥まった場所に居るのだろう。」
十六夜は水面を見た。
「あいつは、二度と浮き上がって来ないつもりで水に入っただろうから…どこか、岩の間とか、木の根の辺りとか、そんな所に入っているのかも…。」
再び、十六夜は水に潜った。維心は自らも水に入って行きながら、龍の宮へ向けて念を飛ばした。
《義心!軍神一個大隊を率いてここへ来い!》
維心は、水へ入って行った。