夢と現実
その夜は何事もなく過ぎ去ったと十六夜が維月の嬉しそうな報告を聞いたのは、昼近くになってからだった。
何も知らない維月は、やっぱり見ないと思ったら夢を見なかったと喜んでいた。
維心もまた落ち着いた様子で、ぴりぴりとした空気は感じない。やはり何かを感じ取って、不安になっていたらしい。
たかが夢でも駄目なのか。十六夜は、維心の維月に対する執着の強さに驚いていた。維心は無意識のうちに自分の力の全てを使って、維月を自分の元に留めようとしているのだ。そしてその夢さえも、誰にも渡すつもりはないらしい。ここまで徹底していることに、ある意味十六夜も感心していた。
「さて、今日はどうする?」十六夜は、機嫌よく座っている維月に言った。「緑青の所はもう行ったし、あまり遠くへ行ったらまた維心がうるさいだろう?」
維月はフフッと笑った。
「今日は一日、十六夜とゆっくりしよう?だって里帰りしてるんだし、十六夜の所に帰って来てるのに、お互いあっちこっちふらふらじゃダメでしょ?いくら熟年夫婦みたいになってても、少しは仲良くしてもいいじゃない。」
十六夜はびっくりしたような顔をしたが、同じように笑った。
「それもいいな。そら、来い。」
十六夜は手を広げた。維月は十六夜に飛びついた。十六夜はそれを抱き留めて、維月に深く口付けた。
しばらくそうしていて、十六夜はふと、言った。
「…思えばこういうのって、最近は夜にしかなかったな。昔は昼間っからそれはベタベタベタベタ…思えば他にすること無かったのかってほどだ。月だってのによ。」
維月は笑った。
「でも、夜はベタベタしてるじゃない。別に仲が悪くなった訳じゃないからいいの。」維月はんーっと伸びをした。「露天風呂でも行こうか?旅行にも最近行ってないし、その代わり。」
十六夜は立ち上がった。
「今の時間なら誰も居ねぇしな。ゆっくり出来らぁ。行こうぜ、維月。」
二人は手を繋いで、宮の露天風呂へと向かったのだった。
風呂から出てあっちこっち庭を散策し、人の世で料理人だった神に調理してもらって久しぶりに懐石料理を食べ、二人で酒を飲み、旅行ごっこを楽しんだ二人は、部屋へと戻って来た。
「やっぱり、また二人で旅行に行きたいなー」維月は言った。「十六夜って子供の頃から一緒だから、一緒に居るととても気持ちが落ち着いて解放される感じ。人に戻るような気がする。」
十六夜はその肩を抱きながら月を見上げた。
「お前って人だったんだもんな。月になって神の世に住んでも、心までは変われないよなあ。」
維月は、ふと、下を向いた。
「ねぇ…私、月になって良かったのかな…。人のままの方が、良かったのかもって思う時があるの。」
十六夜は維月を見た。
「…だが、人だったお前は、あの時死んじまった…こうしてオレと結婚することもなく。」
維月は黙って月を見上げた。不死になった自分。愛する十六夜と同じ。でも、それは真っ直ぐな道ではなくて、たくさんの神と関わって、望まれて、戸惑って…。
「あのね…私、時々思うの。私があの時黄泉がえりしなければ、どうなっていたのかなって。」十六夜が不安そうに維月を見るのを、維月は困ったように見上げた。「蒼は人のままだったでしょう。皆、きっとそうね。そして、蒼は人と結婚して次の月の継承者を残して黄泉へ逝ってるはず。私は子達を向こうで迎えて、十六夜を向こうから見守って…」
十六夜は身震いした。維月が戻らなかった未来。今、オレは一人で、蒼も死に、次の継承者を守って生き…ただ、愛していた維月だけを想って、想って、忘れられない身を恨んで…。
維月は、続けた。
「維心様にも会わなかった。きっと、誰にも会わなかったの。そうしたら誰も私を想ったりしなくて、それによってつらい想いもしなくて済んで…。私はまた、何もかも忘れて転生する…。」
十六夜は維月を抱き締めた。
「よしてくれ。」十六夜が言うのに、維月は驚いて十六夜を見た。「そんなことは考えられねぇ。お前が居ないなんて…オレはお前が生きててくれたらそれでいんでぇ。愛してるんだ。放ったらかしだと思うかも知れねぇが、オレはほんとにお前が生きててくれたらそれでいい。生きてる限りオレを愛してくれるのは知ってるし、オレは何も怖かないよ。怖いのは、お前が死んじまってた未来だけだ。戻って来てくれて、オレは感謝してるんでぇ。」
維月は十六夜を抱き締めて背を撫でた。
「ごめんなさい…そんなつもりじゃなかったの。ただ、人の頃が懐かしかっただけ。もう、戻れないんだものね。今人に戻ったら、見る見る老いて死んでしまうわ…大丈夫、私はあなたの半身。片割れでしょう。ずっと一緒よ。愛してるんだもの。」
十六夜は頷いて、維月の頬を両手で挟んだ。
「愛してる…これからもずっとな。」
維月も十六夜を見つめて微笑んだ。
「私も愛してるわ。十六夜…」
二人は唇を重ね、そして傍の寝台へ倒れ込んだ。
義心は、その桜色の玉を握り締めた。今夜こそ、自分の思いのたけを話そう。ただ一度でもいい、夢ででも、妻と出来たなら…。
気配のない月を見上げてから、義心は悩んだ末、維月の夢の中へと旅立った。
義心は、そこが見たこともない屋敷であることに驚いた。小さくまとまり、二階がある。これは、人の家だと気が付いた。
維月を探して二階へ上がり、1つの部屋の戸を開けると、狭い部屋の中で、維月が人のなりをして寝台らしきものの上に座っていた。そして義心を見ると、見るからに驚いたように言った。
「まあ、義心!こんな夢にまで出て来るなんて…私は、どれほどあなたを気にしているのかしら。」
義心は維月に歩み寄った。
「ここは…?」
維月は、窓の外の月を見上げて言った。
「人として生きていた頃、蒼達と暮らしていた家よ。あの子達を育てたのもここ。この部屋は、私の部屋なの。隣が蒼の。でも、もう誰も居ないわ…現実には、この家はもうないの。人の夫は死んで、蒼はここを処分した。そして建て直されて、誰か別の人が住んでいるから…。」
維月は、少し寂しそうに言った。義心は維月を見た。
「…人に、未練がおありか?」
維月は首を振った。
「今さらそんな…どうしようもないじゃない。人である私は死んで、生きているのは月になったから。もう人としてはこの世に居ないのよ。」と、義心を見た。「私はもう、戻れないわ。いいの…こうして生きると決めたから。」
そう言った途端、辺りの景色は月の宮の部屋になり、維月は見慣れた着物姿になっていた。
「これが私。ただ、懐かしんでお別れしたかっただけよ。」
義心は、維月を引き寄せた。
「今夜こそ、我の想いを告げたくて参りました。維月様、我はあなたの夢に、こうして入る術を得ました。そして会いに参った事で、王に気取られてご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ありせぬ。」
維月は驚いて絶句した。では…本当に義心なの?
「義心…本当にあなたなの?」
義心は頷いた。
「はい。もう、王が共に居られる時には参りませぬゆえ、ご安心を。維月様…例え夢でも良かった。ただあなたにお会いしたかった。愛しておりまする。我が生涯懸けて。想うだけで、現実では満足であったのです。ですが時に苦しくて…あなたが欲しいと眠れぬ夜も過ごし、我は…。」
義心は、言葉に詰まった。維月はただ戸惑いながら、それを聞いていた。
「義心…。」
「…愛している。」義心は、何かを思いきったように維月を抱き締めた。「どうか、我に情けをお掛けください。この夢の中で…!」
義心は、寝台に維月を押し倒して唇を塞いだ。維月はびっくりしてじたばたとした。
「…義心!夢でも…でも…!」
義心の手は、驚くほど力強かった。義心はこれが最後でもいいと、そのまま拒む維月を押さえ付けて、思いのたけを込めて体を重ねたのだった。




