夢
月の宮は穏やかだった。
義心は、今日も維心の供をして、維月が里帰りしているこの月の宮へとやって来た。維心は維月が里帰りしていると、三日から一週間で必ず維月を追ってここへ来た。
理由は、十六夜が信じられないから。
月が維心の前に維月と婚姻を済ませていたのは、その間の子である蒼を見てもわかる。だが、月は維心に維月を許し、共に守って行くことを許した。それは維心にとって夢のようなことで、そのことに関してはとても感謝しているのだが、十六夜は月であるゆえ、維月を求める相手が不遇な環境にあったり、同情すべき生き方をしていたりしていたら、簡単に許してしまう時がある。
十六夜にしてみれば、維心も、他の神も、大差ないのだ。
維心はそれが心配だった。自分の知らぬ所で維月がどこかの誰かと過ごしているのではないかと思うと、居ても立っても居られないのだ。深く愛するがゆえに、それはとても強く維心を苦しめていた。
義心にはそれが分かっていた。ずっと傍に控えて、ずっと見て来たからだ。そして、十六夜のそんな性質もまた知っていた。なぜなら十六夜は、自分の事すら別に構わないと言ったからだ。義心がずっと維月を想っていることは、十六夜も知っていたらしい。それなのにそれを忍び、じっと黙って維心と維月を傍近くで見続けている義心を、十六夜は見ていたのだ。
月の宮へ到着すると、特に何もすることのない義心は、訓練場の方へ向かった。訓練場では月の宮の若い軍神達が毎日演習に明け暮れている。ここの軍神達は外へ出すことを蒼が禁じたため、皆内向きの任務のみに従事していた。鳥との戦の時に、多くの軍神が犠牲になって、まだ未熟であると知ったからだ。
ゆえに、皆必死に毎日、何とか神の世で認められるだけの力を付けようと精進していた。
義心は、ここに来るたびに皆に稽古を付けてやっていた。その日も、訓練場に向かうと、珍しく十六夜が皆の相手をしていた。
「よう、義心。」十六夜が言った。「また維心のヤツが来たんだな。あいつにも困ったもんだ。維月だってゆっくりしたいのによ…あいつが来たら、宮から出れないだろう。オレは維月を自由にさせてるからな。人だったのに、じっと宮から出れないなんて疲れるだろうが。それを息抜きさせるために、ここへ連れて帰ってるってのによ。」
義心は苦笑した。
「王のお心も察してほしい、十六夜よ。そのように自由にさせておることを知っておるから、ここへ来るのだ。維月様を望む神は多いであろうが…ここでそのような神に出逢って、また何かあっては困るとお考えなのだ。」
十六夜はフンと横を向いた。
「オレの結界の中で、何があるってんだ。お前も維心に対して理解があり過ぎるぞ。いくら王だって言っても、自分の望みも言えねぇ境遇を嘆きもしないのか。」
義心はため息を付いた。
確かに、辛い時もある。維月の姿を見て、それを抱き寄せることも叶わぬこの身がどれほどに恨めしいか。それでも、これほどに想う者が居るという事実は、何にもまして義心を満たしていた。誰も愛せないことを思えば、今は数段に幸福であるだろう。義心は答えた。
「我が王は我が生まれた時より王であった。我にとってあのかたは、それだけに大きな存在であるのだ。この先何があろうとも、あのかたが我の王であるのよ。生涯の。ならば、従わねばならぬであろう。」
今度は十六夜がため息を付いた。
「忠誠心ってやつか。まあ、いい。お前がそれでいいならオレは何も言わねぇよ。」と、刀を傍の軍神に渡した。「ちょっと付き合え、義心。お前に見せたい物がある。」
義心は何事かと思ったが、頷いた。
「では、しばし待て。我も甲冑を着替えて参るゆえ。このままでは重いしの。」
十六夜は頷いた。
「オレも着替えて来る。湖で落ち合おうや。」
十六夜はすぐに飛び立って行った。維心はそれを見送って、自分にあてがわれている軍宿舎の方へ飛んで行った。
湖に行くと、十六夜がもう浮いて待っていた。
「遅せぇぞ、義心。幸い維心は維月ばっかでオレのことなんか眼中にねぇし、今のうちだ。付いて来い。」
義心は何事だろうと十六夜に付いて飛んで行った。
十六夜が行ったのは、森の奥の大銀杏の所だった。その横のポプラは、慎怜の息子、慎吾の妻なのだと聞いている。話しには聞いていたが、義心が見るのは初めてだった。
十六夜が、銀杏に話し掛けた。
「紫銀、すまねぇな。ちょっと足元入らせてくれ。」
銀杏が面倒そうに答えたので、義心はびっくりした。
《いい加減にせよ、月よ。大体あんなもの、何に使うのだ。我は知らぬぞ?大昔にここいらに住んでおった神達の物であったのに。》
義心は、それを知っていた。月の宮が出来る前、ここは北の領地と言われて維心がここの神が滅ぶ時に託されて管理していた地だった。ここは大きな地の亀裂の横にあり、地の揺れがあった際にここの神達は滅んだ。では、十六夜が見せたいと言っていたのは、その神の持ち物だったのという物か。
「こいつは龍の宮の筆頭軍神の義心だ。こいつになら、あれを預けていいと思ったんでな。」
紫銀という大銀杏は黙った。なんだか自分をじっと見られているような気がして、義心は落ち着かなかった。
《…いいだろう。》紫銀はしばらく黙ってから、言った。《この神の気は、真っ直ぐであるからの。だが、使い方を誤れば、それに溺れて己を見失うぞ。それは重々肝に銘じることぞ。》
義心はなんのことやらわからなかったが、十六夜が答えた。
「こいつに限って有りえねぇよ。じゃ、貰って行く。」
十六夜は大銀杏の根の辺りに手を突っ込むと、そこから手の平に乗るぐらいの大きさの、透き通った桜色の玉を取り出した。そしてそれを手に、義心を見た。
「これなんだが」十六夜は言った。「ここを統べていた神達は、思念や空間を使うことに長けていたらしくてな。この玉は、それの一部だ…こうして念じれば」十六夜は、目を閉じた。その玉は大きく光り輝いた。「難なくこんな空間に来れるって訳よ。」
義心は、ハッとして回りを見回した。さっきまで、大銀杏の前に十六夜と二人で座っていた義心は、今はどこかの宮の中に座っている。十六夜は笑った。
「ああ…ここは月の宮だ。維月、今寝てるな。どうせ維心のヤツが疲れさせたんだろうよ。」
義心には、何のことかわからない。十六夜は、また目を閉じた。
義心の気が付くと、そこはまた大銀杏の前だった。十六夜は言った。
「要は、これで他人の夢の中へ入ることが出来るのさ。だが、相手が起きるまでに出ないと、次に相手が眠るまで自分は出ることが出来なくなる。相手にとっては夢でも、自分にとっては完全に本物だったろうが?」
義心は頷いた。月の宮の中の、回廊も何もかもが、そのままだった。床の冷たさまで感触で覚えている。あれが、夢であるなんて。
「…確かにそうよ。だが、夢に入ってどうするというのだ?」
十六夜は呆れたようにため息を付いた。
「だから、お前は実際に維月と逢うなんてなかなか出来ないだろうが。だから、維月に会うために行くんだよ。これはな、想っているやつの所へしか行けない。オレが今維月の夢の中へ行ったんだから、分かるだろう。お前なら、誰の所へ行く?」
義心は、固唾を飲んでその玉を見つめた。我が、維月様の夢に入って会いに参る…。
「…だが、そのようなこと。維月様は、夢であっても我を受け入れてくれるはずは…。」
十六夜はフッと笑った。
「さあ、どうだかな。あいつはいつもお前を心配してたんだ。夢の中なら、きっとなんでも自由だから、大丈夫だとオレは思うぞ。だが、維月が起きる前に戻れ。でないと、帰れなくなるぞ。維月が次に眠れば戻れるが、その間お前の体は無人で、気を補充することもない。つまりあっちが居心地いいからってずっと居れば、死んじまう。わかったな。溺れちゃ駄目だってことは、そういうことだ。ちなみに眠ってない時に行こうとしたら、弾かれるからそっちは大丈夫だ。さ、これを受け取れよ、義心。」
義心は、おずおずとそれに手を伸ばした。十六夜からそれを受け取ると、じっと見た。維月様と、会う…。
十六夜は頷いて、立ち上がった。
「さ、戻ろう。それの事は、維心には言うな。あいつが知れば、間違いなく欲しがるからな。あいつは現実どころか夢の中まで追い掛けたがるはずだからよ。」
義心は頷きながら、まだ戸惑っていた。維月様…。
日は傾いて来ていた。




