さよならBJ
The/1
確認用のメモは、汗にまみれた手の中でその役割をすでに失っていた。目的地へは殆ど一本道のはずだったのだが、どうやら僕は迷ってしまったらしい。
その場所は切り立った崖の上にある。高所を目指して歩いていけばいいはずだから、実際上の問題はない。
「それにしても暑い……」
ジャングル、熱帯林という言葉が想起される深い森林。視界を埋め尽くす緑色。
直射日光は当たっていない。それなのに、じっとりした湿気が一帯をドームのように閉鎖していて、まるでサウナの中を歩いているようだった。
服が体に張り付いて気持ちが悪い。さっき踏み込んでしまったドロ溜りのせいでスニーカーが重く、不快感を煽る。すでにジーンズの膝は泥と草の汁でぐちゃぐちゃ、こんなことならもっとちゃんとした服装で来るべきだったと強く思う。
そして歩く。
歩く。歩く。歩く。
ある程度の高地なんだから風のひとつでも吹いてよさそうなものだけれど、そんな気配は全くない。堪えようのない熱に僕の頭は沸騰寸前だった。
「しかし、こんなに歩き続けたのなんて、いつ振りだろうな……」
と。
オーバーヒート気味の頭の中を少しでも切り替えようと、想像に思考を逃がす。
「確か小学三年生ぐらいのとき……山の動物を探すという課外授業があった気が……」
しかし、あの時は夏が来る少し前で、今よりだいぶ歩きやすかったはずだ。
勿論当時はこんな獣道を歩きはしなかったし、何より一人じゃなかった。仲の良い友達とへらへら笑って何の気だるさも感じないまま、山の中を走り回っていた様子が蘇ってくる。
今考えると、あの頃の体力は底なしだったとしか思えない。今の僕では、トラック一周も全力疾走できないだろう。
「小学生――」
遠い記憶のようだけれど、実際そんなことはない。たった四、五年昔の話だ。『楽しかった』という感覚が漠然と夢のように残っているだけで、内実のある思い出なんてほとんどないけれど。
「あの頃、あの頃僕は……何を考えていたんだろう……」
――僕は、保健室が好きな子供だった。外で遊ぶのも好きだったけれど、休み時間にはそっちへ通うことがほとんどだった。
当時、僕の学校の保健室にはたくさんの漫画が置いてあって(それが先生の趣味なのか、そもそも全国の保健室がそうなっているのかは分からないけれど)少なくとも僕にとって「学校で漫画が公然的に読める場所」だった。僕は保健室に入り浸って、マンガを片っ端から読み漁った。
養護の先生はそんな僕をいたく気に入ったようだった。ずっと前から学校にいる、おばあちゃん先生。
彼女は色々なことを教えてくれた。怪我の治療法から備品に至るまであらゆることを。僕はそれらを全て吸収した。そのおかげで僕はおばあちゃん先生に次いで誰よりも保健室に詳しくなった。彼女が居ないときの手当ては僕が行っていたほどである。
「あの頃は……下級生にありがとうって言われるのが、嬉しかったんだよな……」
けれど。今はどうだ?
中学校は小学校の頃とは全てが違っていた。
保健室の養護教諭は僕にこう言った。「保健室はあなたのような健康な生徒が入り浸るところではありません。ましてや一生徒が他の生徒に治療を施すなんてとんでもない」と。
その言葉を聞いて、僕は保健室通いをしなくなった。
そう。
いくら治療に精通したところで、僕は『唯の生徒』でしかなかった。
そして思い知った。おばあちゃん先生は僕を必要として業務をさせてくれていたのではなく、ただお目こぼしをもらえていただけだということを。
唯一の取り得だと思っていた物を失った僕は、ただ呆然とした。漠然とした。
自分の存在意義が分からなくなった。何をするにも恐怖がそれを邪魔をした。「こんなことをしても何の意味もないのでは」という恐怖。
僕は全てを拒絶して。自分さえも否定して。
ついには、学校にも通わなくなった――。
と。
足が草を掻き分ける音の奥に、何か違う音が混じっていることに気付いた。それが波の音であることを、耳を澄まして感じ取る。ほのかに潮の香りもした。
昔のことを思い起こしているうちに、どうやらいつの間にか探していた場所のすぐそばまでたどり着いてしまっていたらしい。視線のすぐ先にこの森の終点らしき明るみが見える。
ぐちゃぐちゃと靴を鳴らしながら、僕は歩みを速めた。
The/2
「わぁ」
獣道を出たと同時に、長らく続いていた一辺倒な風景が開けた。瞬間、風が僕の体を吹く。
地球の丸みを確認できるほどに続いた水平線。見渡す限りのオーシャンビュー。テレビの中だけでしか見たことがなかった『絶景』は、実物として僕の心を振るわせた。
そしてその真ん中、探し求めたバラックはそこにあった。一面の青と相まって、それは海の上に浮かぶ小島のようにも見える。
「やっと、やっと着い「ぎゃぁあぁあぁあああぁぁぁああぁあぁぁぁぁ!」
!?
辺りを見回す。悲鳴の正体はすぐに見つかった。
三歳くらいの女の子だ。すぐそこの小道からこちらを見ている。
頭に黄色のリボン。フリルの付いた可愛らしい服装。だが何故だろう、体中泥だらけだ。
「あっちょんぶりけ!へんしちゅしゃがいゆぅ!」
さすがに変質者呼ばわりはまずい。
「き、きみ、落ち着いて……」そろそろと、僕は少女に近寄る。
「い、ぃぎゃあ!あ、あなたられなのよさ!もりのかいぶつでちょ!きっとそう!ピノコ知ってるんやから!」
――ピノコ?
「え、君ピノコって言うの?」「ら、らったらやによ!」
舌足らずな喋り方。そしてこの風貌。僕は、彼女の名前を知っている。
「もしかして、きみ、ブラックジャック先生のお子さん?だよね?」
「ちやうわよ!あたしはちぇんちぇいのおよめさん!これれも18ちゃいらのよ!」
間違いない。この子がピノコだ。
「僕はブラックジャック先生に会いに着たんだ。森の怪物じゃない」
「えー?なんらそうらったのぉ?」途端に柔和な顔になる彼女。子供っていうのはみんなこういうものなのだろうか。
「それなやあんらいしたげゆ。こっちらよ」「っと」
なすがままに、ピノコに手を引っ張られて行く。彼女と僕の身長差でそれをされると、非常に歩きづらかった。
「とこよで、どうしてあなた、ちぇんちぇいのとこよにきたの?」
「あぁ僕?もちろん先生に手術してもらいに来たんだ」
「ふぅん。でもかんやちゃん、いないみらいらけど」きょろきょろと辺りを見回すピノコ。
「そりゃそうさ。だって、僕が患者だからね」
「なんだそうらっらの。ちょうよね、あなたどろらやけなんらもん」「でも、君だって僕と同じぐらい泥だらけだぜ?」「もぉ!レレィにそんなこといったやだめなんらからね!」
そんなことを話しているうちに、その小屋は目の前まで来ていた。
遠目ではそこまで気付かなかったがよくよく見るとすごく陳腐なバラックだ。いたるところに銃痕?らしき傷穴が開いていて、ここだけ西部劇の世界からタイムトリップしてきたようだ。小屋のすぐ側には黒のセンチュリーが停車してある。彼の愛車なのだろうか。
「思ってたより、その、風情のあるお宅だね……」「うんそうらの。ピノコ、らんかいもあたやしいいえにちようっていっれるのに、ちぇんちぇいらめらってゆうんやよ」「汚い家で悪かったな」
と。
小屋の扉がギィと開き、そこから一人の男性が現れた。
ピノコはパッと走り出し、彼の足にすがりつく。
「どうしたんだピノコ。お前泥だらけじゃないか」「うん。さっきこけちゃったの」「だから走る時は気をつけろといったのに……」
ピノコへと視線が向いたその隙に、僕は彼の顔を盗み見た。まず目に付くのは縦に走る生々しい亀裂。その傷を境に皮膚の色が左右で違う。そして鷹のような鋭い眼光――。
間違いない。彼がブラックジャックだ。
「この顔が気になるか?」
唐突な質問。彼はこちらの顔を一瞥もしない。
「え、いやそんなつもりは……」「ふん、簡単なことさ。私に初めて会った者は誰も私の顔を気にする」
「あのね、ちぇんちぇい、ころひと、ちぇんちぇいにしゅじゅちゅちてもらいにきらんらって」
「……ほう?」
彼の目が僕を射抜いた。
「ふん。まぁ入りたまえ」
さっと踵を返し部屋に入ってしまった彼を、追いかけるようにしてその小屋の中に入る。
家の中は外見とは違って、普通の応接間になっている。その真ん中、木造の質素な椅子にどっしりと腰掛け彼は言う。
「それで、何の用かな」「さっき見た限りでは、どうやら君は体のどこにも問題を抱えていないようだが」
少なくとも私のところに来るような事情を抱えているようには見えない――彼はそう続けた。どうやらさっきの短い間に、すでに視診を済ませてしまったらしい。
「まぁいいさ。金さえ貰えれば、私は何だってする。用件を言いたまえ」
「はい。僕は貴方に僕を殺してもらいに来ました」
The/3
「僕を殺して欲しい」というその台詞を聞いた瞬間、彼の顔は苦々しく歪んだ。
「帰ってくれ。私は人を生かすために医者をしている。少なくともあんたのような馬鹿の相手は仕事の範疇じゃない。お断りだ」
「い、いえ違うんです」急いで訂正を加える。「僕は、『殺して欲しい』とは言いましたけれど実際に命を奪うとか、そういうんじゃないんです」「言っていることが理解できないが」「ですからつまり……」
「僕は貴方に『僕』という人格を消去して欲しいんです」
「人格を消去?」
腕組みの向こうから、彼は僕の目を射抜く。
「記憶を消す、つまり人工的に記憶喪失の状態にするということか?」
「はい。二度と過去のことを思い出せないようにして欲しいんです」
リセットしてやり直したい。少なくとも僕は、保健室の苦しみを忘れなければ生きていけない。
「ねぇちぇんちぇー」「キオクショーシチュってらあに?」
お茶を運んでいたピノコが、彼に尋ねる。
「記憶喪失は頭の、そして心の病だ。部分的な健忘から、自分が誰であるかも忘れてしまうケースまで病状はピンキリ。頭部外傷によって発生する場合もあるし、心的なストレスなんかで出てくる場合もある」「ふうん。こわいんらねー?」
彼女は良く分からないというような顔をした。
「しかし」
「あんたまだ学生だろう?どうしてそんな酔狂を」
「はい」「僕は、自分が生きている意味が分からないんです」
生きている意味――。
僕のこれまでに人生を、彼に語る。小学校のこと、保健室のこと、中学校のこと。
内側に、心の内側に溜めていた言葉は、思っていたよりもするすると口から出た。
「僕は誰の役にも立てていない。僕はただ昨日と同じ生活を繰り返しているだけで、何の展望も持たないただの子供だ。人を助けて全能感に浸っていただけなんです。保健室はそもそも僕の場所じゃなかったのに。他人のために何も出来ないなら、存在しないのと同じで。現実から目を逸らしているんです僕は誰からも必要とされていない。思い上がっていたんです。漫画の主人公にでもなったつもりで居たんです。でもそれは誰かのコピーでしかない。自分が立っている位置が分からないんです。社会での役割っていうものが自分というものが何処に居るべきなのか何処にあるべきなのかが分からないんです。今までの僕の人生をリセットする。僕は僕が分からないんです。だから駄目なんです。生きていても、このまま僕がただ今日を過ごしていても、そこに意味なんて欠片も存在しない。僕のこれまでは消去してしまったほうが良い。だから僕は」
「間違いでしかなかったこれまでの僕を――殺すんです」
鬱屈した感情の吐露。僕は冷静を装っているが、きっと彼は僕の本心なんてお見通しなんだろう。
「へえそうかい。私にはあんたの言ってることがさっぱり理解できんがね」
「そもそも記憶をどうこうするってのは外科じゃなくて、心療内科の領分だろう?思春期の学生の悩みなんかを持ち込まれても、そいつはお門違いと言わざるを得ないな」
口元を笑顔に歪めるBJ。
「……っ」
一瞬この医者をぶん殴りそうになった。
性格が悪い。いや性悪というべきか。僕が爆発しそうな内情を、張りぼて一枚で隠していることを知った上で、こいつは僕を試している。
だったら。
「へぇ?出来ないんですか?」
僕も一石を投じてやる。
「世界最高の腕を持つ孤高の名医ブラック・ジャック――でしたっけ?」声は高ぶっている。
「思春期の学生のなやみごときを解決できないって」そして心は震え上がっている。
「よくそれで、医者なんてやってますねぇ?」
と、その瞬間。
「く、ふふ、ふは、あはっは」
ブラックジャックは。
「あはははっはははははっはは」
高らかに。
「あはははっはっははははあははははは!」
笑った。
「あっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!」
「……っ」
僕はその時悟った。
この医者の挑発に、挑発的な態度で返すなんて、最もやってはいけない間違いだったのだということを。
分かっていたはずだ。この男が名医だとは言え、世間から白い目で見られている理由を。
ブラックジャックは、僕らとは根本から違う。
自分の思考で理解できないものに対しての、並々ならぬ恐怖。
たったの笑い声一つに――
僕の言葉は――
殺された。
「あっははっははは!」
もしかしてあんた、俺に鎌を掛けてるのか?」
くふふ」
あぁ、出来る」
できるとも」
脳のメモリを破壊するだけだろう?」
それならイタリア、アフリカで二度ずつ成功させている」
簡単な手術だよ」
脳をぶっ壊してやるだけの、簡単な手術さ」
どれだけ自分が非現実的なことを言っているのか。彼は理解し、その上でそれを可能だという。
「ただし私は法外な金を要求するぜ。こいつは悪魔の契約だ」
これだけ簡単な手術だからな」
なぁに、安いもんさ。三億ほどで良い」
どうだ?私に依頼するというのなら――」
「お願いします」
僕の、最後の矜持。
「僕は、貴方に依頼します」僕は彼に、深く礼をした。
礼。頭を下げる。降伏。服従。それは完全な敗北を認めるということ。
僕の姿を見てブラックジャックは乾いた声で笑った。
「ふん。悪くない。ただし条件が一つ――」
「泥だらけの体でそのまま治療室に入れると思うな!風呂に入って体を綺麗にして来い!ピノコ、お前もだ!」
The/4
「ちぇんちぇいもひどいやよ。レレィにはじめてあったおよこのひととおふよにはいれなんて」「はは、そうだね」
思っていたより、風呂場は綺麗に整頓されていた。なんたって、ミリ単位で命を救う名医だ。几帳面な性格なのだろう。
シャワーでピノコの髪の泡を流しながら僕は言う。
「ねぇピノコちゃん」「らに?」「ブラックジャック先生って、いつもああなの?」「うーん?」
石鹸を泡立てて遊んでいるピノコ。「ちぇんちぇーはねー、いっつもくゆしんでるかなー。だってねー、いくやぎじゅちゅをたかめたって、すくえないひとたくさんいゆんだって。ひとをすくえゆのはかみさまやけらから、ちぇんちぇい、いっちゅもなやんでゆよ」「へぇ……」
医師免許も持たず世界中を飛び回り、あらゆる人間を治療する孤高の外科医。ブラックジャックにも苦悩はある――だとしたら。
だとしたら、何処に救いがあると言うんだろう?
彼女の背中を洗いながら僕は、そんなことを考えた。
「だかやね、ピノコができゆことなら、なんれもやってあげゆの。だってピノコちぇんちぇいのおくさんやからね」「ふうんそうなんだ。偉いんだね」
「でもピノコいちゅもしっぱいしちゃうし、ちぇんちぇいにめいわくかけちゃうんやー」
ピノコ、あんまいうまくかやだがうごからいんやよと、ピノコは鏡の中の自分を見つめて言う。
「キケーノーチュっていうんらって。ちぇんちぇいはピノコにかやだをつくってくえたの」「でも、このかやだらとできないこともたくさんあゆよ。おふよのなかにもつかえないし、あんまりうまくはしっらいできないの。だからピノコさっきこけちゃって、ドロだやけになっちゃっらんやー」
奇形膿腫。水子。産まれるべきではなかった命。
他人事と言ってしまえばそれまでだが、しかし重過ぎる過去。
苦しみは、何故こんな幼けな少女にも降りかかろうとするのか。
僕は思う。重すぎる荷をその小さな背中に抱え、そうまでしてなんでこの子は――。
勿論それは聞くべきではない問いだろう。踏み込むべきではないプライベート。ハイエナのごときその行為は、誰にとっても忌むべきものだろう。
だけれど。
だけれども僕には、今の僕には、自分の心を感情を、抑え切ることは不可能だった。
シャワーで彼女の体を洗い流し終え――僕はその問いを彼女にぶつける。
「ねぇピノコちゃん」
「んーなにぃ?」
「君は、そんな体で生まれて」
限定された人生で。
「苦しみを背負って」
欠陥を抱えて。
「だとしたら君は」
だとしたら人間は。
「何のために、生きているんだ?」
「んー?」
鏡の向こうから僕を映す瞳には一点の曇りもない。シャワーの音だけが連続して、この場の沈黙を埋める。
簡単に答えられるはずのないその問いに。
しかし彼女は即答した。
「うーん、わかんない」
The/4
シャワーを済ませ、検査着を着て応接間へ戻る。ドアを開けるとそこはすでに手術室になっていた。しかしそこに手術台はなく、ただポツンと対面で二つ椅子が置いてあるだけの簡素なセッティング。
そもそもが狭いバラックだ。装いを変えることで、一部屋を使いまわしているのだろう。
実際、ほとんどさっきの応接間と変わったところはないように思う。
それでもここを手術室だと僕が思ったのは、白衣の男が目の前にいるからだった。
「座りたまえ」
位置構成はさっきの応接間とまったく同じ。木造のチェアに鎮座する彼の対面に、簡易的な椅子が置いてあるだけだ。
そこに座れと言う彼の指示に、僕は素直に従った。
彼は職業着を身に付けているだけだ。それなのに、彼の荘厳さは桁違いに跳ね上がっている。
心の萎縮を理性が抑えきれない。すでにこの場は彼によって支配されていた。
「では、オペを始めよう」
「ところで」
「あんたは『世界五分前仮説』っていうのを知ってるか?」
彼の手術は、意図しない質問から始まった。
The/5
世界五分前仮説。
文字通り、世界が五分前に生み出されたと言う仮説。
十六歳の僕は十六歳の状態で、『五分前』に生み出された。この小屋も椅子も、あらゆるもの全てがそれまでの記憶を持って『五分前』に生み出されたという、否定不可能な思考実験。
「そうだ。それが『世界五分前仮説』」
しかし、それがなんだ?
僕の疑問に触れないまま、彼は話を続ける。
「あんたとピノコが風呂に入ってる間、私は考えていた。あんたをどう治療するかを」
私はそもそも今回のケースを、手術ではなく精神療法からのアプローチで解決しようとしていた」
天邪鬼は私の十八番でね。できればメスを入れることなく、あんたを治してやろうと考えていたんだ」
だからここには手術台がないのだと僕は直感した。
「私は、あんたに精神療法を試そうとした」
しかし」
それは出来なかった」
出来なかった?
「勿論外科医であるとはいえ、大体の医療は心得ている。精神関連もきっちりと」
しかし、あんたのケースに関しては、まったく治療法が思い浮かばなかった」
仕方なく、今度は外科的な手段を考えた」
しかりやはり思い浮かばない」
他のヤブ医者じゃともかく、この私がだ。こいつは異常と言って良い」
断言的な口調。しかし彼の場合、それは確信でしかない。
「そこで私は考えた」
「私が、本物のブラックジャックではないのではないか、とね」
彼が、本当ではない?彼が何を言っているのか、僕には全く分からない。
「そこで登場するのが『世界五分前仮説』だ。私は五分前に生み出されたのではという仮定――」
ここでネックになってくるのは、私が誰に生み出されたのかということだ」
それは『神』であったり、この世界が漫画や小説の世界であったなら『作者』であったりその推定は無限」
だがこの場合私を生み出したのが誰かははっきりしている――」
彼は言う。
「他でもない、あんただよ」
耳を疑う。
BJを生み出したのが僕だって?
「そう。私は『外科的医療法をコンプリートした最高の医者』として、あんたに生み出された」
明確に言えばあんたの無意識って奴にな」
あんたは自分の苦しみを解決してくれる『絶対的な救世主』を求めたんだ」
手塚治虫がタブーとした夢オチって奴を、こともあろうにあんたは私で実践したんだ」
「大方、保健室に手塚治虫全集でも置いてあったんだろう?」
救世主に選ばれたのは『ブラックジャック』だった」
『あらゆる病を治す医者』お誂え向きの役割だよ」
保健室。手塚治虫全集。彼の言ったことは、全て紛れもない事実で。
「あんたに生み出された私だ。『絶対的名医』としての設定はしっかり付与されている。
だが、私の頭には『外科手術の作法』は入っていなかった」
当たり前だ。あんた自身が医学博士なわけじゃないんだから」
せいぜい保健室で下級生の手当てが出来る程度さ」
僕の頭の中を把握していて、それが逃れようのない事実であるということを、彼は諭すように僕に語る。
「私の存在は『医学は知らないが、どんなケースでも治せる医者』という、自家撞着したものになった」
あんたが生み出した、あんたの処方箋だ」
わたしはあんたの操り人形でしかなかったわけだ」
もしくは仮想マシンか?プログラムの上で走るコードなんだよ」
そう。私はあんたに生み出された」
そして僕は心のどこかで彼が何を言っているのかを理解しはじめている。
そんな自分に、気付きつつある。
「自己存在性の欠落を、そもそも自己のない私に解決させようとしていたんだ」
皮肉なんてもんじゃない」
失敗して当たり前なんだよ」
「あんたは自分を殺すことさえ、出来なかったんだ」
「うるさい!」でも僕は。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!」
彼の言葉を受け入れられない。
「だったら!」
「だったら僕は、僕は永遠に救われないのか!?この苦しみを、痛みを!一生背負って生き続けなきゃ駄目なのか!?」自分がないままのうのうと生きて、誰かのコピーを繰り返して!なんの存在意義を感じないままに生きるのか!?」助けてくれよ!あんた名医なんだろ!?」いいじゃないか!その手腕で僕を救えよ!殺してくれよ!なかったことにしてくれよ!」これ以上苦しみたくなんかないんだよ!苦悩を与えられるために生きる人生なんて何のためにあるんだ!まったく理解できない!そんなの受け入れられわけないだろ!?」
「それでも!」
ブラックジャックは。
「それがあんたの選択なんだよ!」
声を荒げて叫んだ。
「無意識とはいえあんたが選んだことだ!」
分かってるはずだぞ!」
『自分が生み出した偶像に頼り切って良いのか?』そういう無意識があんたの中に残っていたから!」
あんたが自分で自分を律したから!あんたが選択したから!」
「そうじゃなければ端末であるはずの私が!自分を『偽者だ』と認識出来るはずないだろうが!」
「これからもこうして苦しみを抱えて生きていくことを!あんたは自分で選択したんだ!」
彼の言葉を聴いた瞬間。
意識が。
意識がそれを理解する。
僕の。
それが僕の選択なのだと。
心のどこかで救世主を否定したのは。
それは僕の意思なのだと。
僕は理解する。
「そうだ」
「あんたは苦悩を背負って生きることを選んだ。やりどころのない苦しみを抱えながらやっていくことを選択したんだ」
「これからもずっと存在意義を探し続けて生きることを」
「手術は既に、終わっていたんだよ」
彼の声は、優しく心に響く。
そう僕は――。
「分かったろう?」
彼が何を言っているのか。
「あんたにもう私という逃げ道は必要ない」
僕が何を言っているのか。
「これからはあんたが、あんたを生きるんだ」
きっと。
「苦しみながら」
心の底で理解している。
「もがきながら」
間違いだと思っていた僕の存在は。
「それでも自分で生きていくんだ」
これからの積み重ねで。
「その中で」
いくらでも価値あるものになる。
「あんたの『これまで』はあんたを肯定する」
今はまだ成長している最中で。
「あんたが自分を否定できなかったように」
自分を肯定できないかもしれないけれど。
「昔のあんたも、あんたを否定しない」
それが僕だ。
「これまでの経験が、そのまま人格になるんだから」
それがアイデンティティだ。
「それがアイデンティティだ」
僕が何を言っているのか。
「生きろ。僕」
僕は心の中で、理解している。
「さよなら、BJ」
The/END
小学校の頃。
あの頃僕は。
誰かを助ける医者になりたいと。
そう思っていたんだ。
The story doesn't end. Life is still going on.
愛してくれて。ありがとう。