6 不自然、悪夢
「ちゃんと食べたんだ、エレン」
入ってきたアンディが、嬉しそうに頬を緩めて言った。純粋な笑顔を向けられて思わずうなずく。するとアンディはより一層嬉しそうに笑った。正直、悪い気はしなかった。笑顔の中には計算高さなど一切ない。だからこそ不思議でたまらなくなる。
食事は摂ることにした。食べなければ生きられない。見出した希望を失わないために、今は生きて戦わなければいけない。
そこまで考えたとき、大変なことに気がついた。
ナイフ、朝食の中からとったままだ。
「…………」
ドクンドクンと心臓が早鐘を打つ。なんてバカなんだろう! アンディが来てしまってはどうしようもない。
ああ、どうか気づかれませんように!
次の瞬間にも、彼がナイフのことを訊くのではないかと生きた心地がしない。鎖を切ろうとしていることがばれたら、もう望みはないだろう。
アンディが、空になった朝食の食器に何気無く目をやる。ある一箇所で確かに目線が止まった。心臓がひやりとする。
しかし、アンディは何も見なかったかのように目をそらした。
(……あれ?)
今のは、明らかに不自然だ。そう、まるで私がナイフをとったことに気づいてて見逃すような。
考えてみれば、昼に玉を落として行ったのも変だった。コロン、という音はベッドから離れたところにいた私にも聞こえたのだから、アンディに聞こえていないはずがない。わざと気づかないふりをしていたとしか思えない。
だとしたら、私を誘導した?
でも一体なんのために。わからない。
彼は、わからないことだらけだ。どうして私の名前をそんなに甘い声で呼ぶ? どうしてあんなに嬉しそうに笑う? どうして抱きしめた? どうして足枷を片一方しかはめなかった? どれもこれも、まるで、まるで……
「それ、着替えなくていいの? ものすごく似合ってるけどさ」
考えはアンディの声で断ち切られた。
「着替えてもいいの?」
てっきりこの白いドレスは着せられたままなのかと思っていた。いかにも花嫁という感じだから。もっとも嫁ぎ先はランズウィック家が崇拝する悪魔のもとだが。
「もちろんいいよ。あ、メイドに頼んで持ってこさせるから」
「……よかった」
着なれない豪華なドレスは、肩が凝った。やっと脱げると思うと気分が晴れやかになる。
「髪」
声が急に近くで聞こえて、びっくりして前を見る。いつのまにかアンディは目の前に来ていた。透き通った灰色の瞳にじっと見つめられて、何だか無性に落ち着かなくなった。
「おろしたらもっと良くなるかも」
「え、」
ゆるりと頭に回る手が髪飾りを外す。結われていた髪がふわっとほどけて、肘のあたりまで落ちる。
「うん、やっぱり可愛い」
「……本気で、言ってるの? それは」
「本気だけど?」
当たり前のことだろうという表情でアンディは答えた。嘘、本気なわけが、ない。いい気にさせようとしてるんだ。……多分。あんな表情なんて、いくらでも作れてしまうに決まってる。
「エレン」
また甘い声で名前を呼んできた。大きく温かい手が慈しむように髪を撫でる。今まで誰からもされた事のない仕草にどうしていいかわからなくなる。
「また明日。おやすみ」
「……おやすみなさい」
親しいもの同士のように挨拶を返してしまって後悔した。
『おやすみ』
耳に残る一言を忌々しく思って、だけど消すことができずに、私はまた作業を開始した。
ひとりきりの寒い部屋の中で、ギコギコと鉄と鉄をこすり合わせる音だけが響く。吐く息が白い。手が寒さで固まってあまり動かない。それでも作業を続ける。でないと頭がおかしくなってしまうにちがいないだろうから。
* * *
用意されたベッドなんて使いたくはなかったけれど、氷のように冷たい床の上ではさすがに寝ることはできない。おそるおそる潜り込んだ毛布はうっとりするほど柔らかくて暖かかったから、すぐに寝てしまった。
夢を見た。まさに悪夢そのものの夢を。蝋燭が燃える大きな部屋の中で私は黒いローブを着た人達から必死に逃げている。足がびっくりするほど遅い。動かしても動かしても前に進めない。右手に血がこびりついた祭壇がある。斧やらナイフやらを手にした仮面の男達があっというまに追い詰めてきて、壁に押さえつけられる。
もう無理だと思った時、向こうの方から十四、五歳くらいの少年が駆けてきた。こちらに向かって手を伸ばして何か叫んでいる。助けに来たんだ。
少年は誰かに似ている。淡い金髪、華奢な体ーー誰だろう。思い出せない。
「いやぁ!」
斧とナイフが同時に迫ってまさに殺されようとしたとき、夢から覚めた。
「はあっ、はあっ……」
汗びっしょりになっている。強い恐怖に襲われて半身を起こすことさえできない。少しでも動いたら、どこかから何かが出てきて殺されるのではないかーーそんな想像をしてしまう。
いつもは夢なんてすぐに忘れてしまうのに、ついさっきまでの映像はあまりに強烈でなかなか頭から消えてくれそうにない。
あれは、一ヶ月後に自分の身に降りかかることなんだ。
血で赤黒く変色した祭壇と黒いローブの人達。斧とナイフ、暗い部屋。かつてないほどの恐怖を覚えた。体が滑稽なほど震える。
「どうかした? エレン」
「!」
とっさにベッドの横のテーブルにあった水差しを扉に向かって投げつけた。
「痛っ」
「ア、アンディ!?」