4 屈辱、疑問
静寂が支配する寒い部屋で、膝を抱えて座っていた。眠れそうにない。
さっきの、胸を潰されるような感情が悔しさというものだとわかった。これまで悔しいだなんて思ったことはなかった。施設で小さい子にからかわれても、大人から嫌がらせを受けても、仕方がないと思ってきた。泣いてもわめいても味方はいない。いつも諦めの気持ちと一緒に生きてきた。
でも、命だけは誰もさわることはできなかった。自信や明るさなどとは違って、奪われなかったもの。たったひとつ、自由だったもの。
なのに、それを奪われるのだ。他の誰かにいいようにされてしまう。こんな部屋に閉じ込められて、なす術もなく。
ひどく屈辱的だった。
それなのに、アンディは私を抱きしめた。ものすごく馬鹿にされている気がして。神経を逆なでされたように感じて。
枯れたと思っていた涙がまた一滴、ぱたりとドレスに落ちた。薄い生地が幾重にも重ねられ、夢のようにふわりと流れるロングドレスは小花がふんだんに散らされている。もう、野原に咲いている花を見ることもないんだなと思うとまた涙がこぼれた。
「……っやだよ、死にたくない……」
足枷に描かれた金の獅子と蛇が嘲笑うように私を見てくる。
* * *
「おはよう、エレン」
ドアが開く音とともに、アンディが入ってきた。
朝が来たらしい。明かり取りのほんの小さな窓から日光が射し込んでいる。
結局一睡もできなかった。
体がだるく頭も重い。それでも弱みを見せたくなくて、必死に平静を装う。
入ってきたアンディは、湯気の立つ朝食を持っていた。食欲をそそるいい匂いがする。お腹は空いているが、彼が持ってきた食事を口にする気はない。昨日のこともあるし、何よりこの家から出されたもので命をつなぎたくない。
「食べないの?」
一緒に持ってきた小さなテーブルを部屋の中央に置いてアンディが訊く。私はそれを無視した。
「エレン」
「なんで私の名前を知ってるの?」
「なんでってーー着てた服にそう刺繍がしてあったらしいよ? メイドに教えてもらった」
「……」
そういえばそうだった。施設ではみんな同じような簡素なワンピースだったから、洗濯するときに誰のものかわかるように名前の刺繍をいれていたのだ。
「一ヶ月後に殺される人のこと、名前で呼ぶんだね」
これまで言ったこともない、意地悪な言葉を放った。言ってから後悔する。怒ったらどうしよう。乱暴されたら? 想像するだけで気弱な自分の心臓はうるさく鳴り出す。
でもアンディは怒らなかった。
かわりに、テーブルをはさんで立っていた私の方に近づいてきて、じっと見つめて言った。
「綺麗な名前だから呼んでみたくなるだけなんだよ。嫌だったら、やめてくれって言うんなら呼ばないけど」
穏やかに話しかけるその顔は微笑んでいて、整った顔にかかる金髪が、朝の光に照らされてきらきらと輝く。じっと見つめてくる瞳はやはり優しいものだ。
どうして。不思議でたまらない。どうしてこんな風に優しくするの。警戒心を弱めようとしてるから?
でも、それで説明してしまうには、あまりにもーー
「エレン」
再びアンディが甘い声で名前を呼んだ。ああ、だからどうして。
そして次の動作に、さらに動揺した。
アンディが手を伸ばしてきたかと思うと、私の髪を一房すくい取り、そっと口づけた。
「綺麗な髪」
驚きのあまり、彼の長い睫毛を凝視することしかできなかった。口はぱくぱくと動くだけで声を発せないし、手はちっとも動かなくて使い物にならない。力が抜けてしまったみたいだ。
「そんなの……」
少なくとも記憶の中で、髪を褒められたことはなかった。
施設では質素を一番重要なこととしており、自分の赤みがかった茶色の、くるくるとした巻き毛は華美だからと忌み嫌われた。切られかけたこともある。
だから、自分の髪はダメなものなんだと思っていた。綺麗だなんて言われるのは初めてだ。
「そんな嘘、言わないで」
「嘘じゃない。綺麗な色で、ふわふわしてて可愛い」
「……なんなの……」
もう、わけがわからない。からかって遊んでいるのか、本当にそう思って言っているのか判断できずにうつむく。
「エレン」
アンディがふいに髪を梳く手を止めて、私の頭を抱き寄せた。
「やめて!」
布越しに確かな体温が伝わってくる。感じ取った瞬間そう叫んでいた。
アンディはあっさりと手を放した。少しだけ名残惜しそうな声で囁く。
「昼にまた来る。何か必要なものは?」
「ないです、出て行って」
はっきりと拒絶を表す。アンディは振り返らずに出て行った。
扉が閉まり、階段を上がる足音が遠ざかると、張り詰めていた糸がぷっつりと切れたようにその場に膝をついた。
やっぱり、遊ばれているのだろうか。見張りの立場を利用して油断させ、隙を見て襲うつもりなのだろうか。
「……そうだよね」
そう考えるのが一番自然だろう。
なら、アンディとはなるべく距離を置くまでだ。
「逃げたいよ……」
そのつぶやきに、足枷がせせら笑う。逃げられる訳がないだろう、お前が歩けるのはドアの前までだ、と。
昨夜、ドアに辿り着けるかどうか試してみた。足枷の鎖が思いのほか長かったから、もしかしたらと思ったのだ。しかし、ドアの手前、いくら手を伸ばしてもドアノブに届かないぎりぎりの位置で鎖はぴんと張ってしまった。そのときの失望はたいへんなものだった。
窓の外で小鳥が鳴いた。いつもと同じ、平和な朝に暮らす人々が羨ましくてたまらない。




