第3章 3
「紗弓」
ホテルのレストランでバイキングの夕食を食べた後ふらふらと、ホテルのプライベートビーチに一人で散歩に出た紗弓は、声をかけられて振り返る。海からの向かい風に頬をなぶられて、少し目を細めた久城が一人でこちらを見ていた。
「一人歩きするなよ、危ないから」
「大丈夫」
「根拠のない大丈夫をそうやってまた言う……紗弓の大丈夫は、あてにならない」
人前では絶対に名前では呼ばないようにしていた久城だけれど、今もこうしている時には名前で呼ぶのか、と、変なところに感心しながら紗弓は少し困って笑う。どんな顔をすればいいのか分からなかった。ただ、普通にしていようと思うのだけれど、そんな風に思うながら振る舞う「普通」が普通であることはまず、ないだろうとも分かっている。
「牧村と結婚って本当だったんだ」
「うん。面白いよ」
くすくすと笑いながら答え、紗弓は海の方に顔を戻してしまう。その横に並びながら、久城は今さら言っても仕方のないことを、言うまいと思っていたことを結局言ってしまう。
「自分勝手で横暴で、俺様な奴だろう、牧村。それで、いいんだ」
「それがいいの。それに、自分勝手じゃないよ。我が侭はわたしだし。ああいう牧村君とだから、一緒にいられるし」
笑いながらそんな風に言う紗弓の目が自分の方には向けられないことに、少し苛立ちを感じながら久城はため息をつく。どれほど言葉を尽くしても、自分の方にはそういう意味では向き合ってくれなかった紗弓が、いとも簡単に、不誠実に傍目には映る奴と一緒にいるのだから。
「幸せなんだ」
「?わたしはずっと幸せだよ?」
不思議そうな顔をようやく久城に向けながら紗弓は答える。それに続いた久城の言葉は、その背後からの声と重なった。
「何で、だめだったんだ」
「紗弓!」
声にびくりとして振り返れない久城の横から、顔をその後ろに向けて紗弓は笑う。怒った顔を作った康介がこっちに歩いてきていた。
「答えは、分かってるんじゃないの?分からないとしても、分かりやすいところにあるよ」
言いながら紗弓はその横をすり抜けて康介の方に歩いていく。砂浜に足を取られて転びそうになりながら。
そのまま真っ暗な分だけ大きな星が満天に広がる下を、波の音を聞きながら康介は紗弓と並んで歩く。特に何を話すでもなく、何か見たものがどうだったと、言いたくなれば言うし、言うことが思い浮かばない時にはただ黙って並んで歩いているだけだ。
「……久城と何の話してたんだ?」
「ん?一人で歩くなって叱られてた。……何、珍しい。気になるの?」
「心配してるの。顔に出さないようにする面倒なのは誰だっけ? ……でもまあ、その点については久城に同感」
「平気なのに。ホテルの敷地内なんだし」
「そういう問題じゃないの、分かってるだろうが。こんなんで海外赴任に連れて行って平気なのかね」
「問題ないでしょ。置いてったら置いてったで、心配でしょ?」
「せいせいするよ」
憎まれ口と軽口をたたき合いながら、笑っている。
既に何度も転びかけている紗弓に手を出しながら、康介はため息をついて紗弓と手をつないだ。まずめったになかったこと。
紗弓は下を向いて嬉しそうな顔をする。暗くてどうせ見えないだろうと願いながら。意地っ張りでプライドが高くて天の邪鬼で、寂しがり屋で甘えたな紗弓の素の表情。康介は紗弓を見下ろして笑う。紗弓とつないでない方の手でその頭をぐしゃぐしゃとかき回した。
「まあ、無茶とか無理するなっていっても説得力ないんだけどな」
「そうゆうこと」
微笑って応じる紗弓の額をいい音をさせてはたく。新婚旅行代わりのようなものだった。友達も後輩も大好きな二人には、最高の。




