初めて富士山に登った
富士の嶺に潜むのは、高度による絶望か、それとも語られざる怪異か。
登山初体験の主人公が踏み入れたのは、一度登れば二度と「自分」へは戻れない、異形の領域だった。恐怖の山頂を目指す、短編怪異譚。
今日、初めて富士山に登った。富士山に、というより登山自体も初めてなのであったけれど。最初は、
━━こんなのなんてことはない。すいすい登れるぞ。日本一高い山も大したことはないのどな。
などと鼻歌混じりに思っていたのだが、五合目を越え、さらに七合目辺に到達した頃に、たちまちにして状況は一変した。
呼吸が浅くなり、視界が歪む。高山病か。激しい眩暈の中で見たものは、岩肌を登る無数の「人影」だった。
彼らは異様な速さで四つん這いになり、こちらへ向かってくる。よく見ると、服こそ登山服だが、顔がない。いや、滑らかな皮膚の上に、目も鼻も口もなく、ただ「のっぺらぼう」なのだ。
パニックになり逃げ出そうとしたが、足がすくんで動かない。先頭の「影」が目の前に迫り、冷たい手で私の顔を掴んだ。
指先が私の目、鼻、口をなぞる。まるで、そこにあるパーツを削ぎ落とすかのように。
激痛と暗転。
……気がつくと、私はすいすいと岩場を登っていた。体は軽い。息も苦しくない。上から下りてくる登山客が、私を見て悲鳴を上げながら逃げ出していく。
不思議に思い、自分の顔に触れた。
そこには、何もなかった。
私は満足し、鼻歌を口ずさもうとした。だが、音を鳴らすための穴すら、もうどこにも存在しなかった。
【了】
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
日常の延長にある日本一の山を舞台に、人間が人ではない「何か」へすり替わっていく恐怖を描いてみました。
登山中のふとした違和感や、顔を奪われる静かな絶望を楽しんでいただけたなら幸いです。
また別の怪異でお会いしましょう。




