第26話「エスキナの入口」
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死域を三日間かけて越えた。
五人が深奥域エスキナの境界に到達したとき、その瘴気は肉体を直接的に襲った。
「何だ、これは」
ノエルが身体を折り曲げる。呼吸が浅くなる。周囲に満ちる——何か得体の知れない霧のような物質。それは目に見えないが、確かに存在している。皮膚に触れると、じりじりとした痛みがある。
星脈の枯れた死域とは逆の、超過度に充満された星脈。それが最も危険な形で具現化している。濃密な瘴気の壁だ。
「脈路に負荷がかかっている」
マルクスが分析する。彼の識相が周囲を感知した。その顔は厳しい。
「これは——自然のものではありません」
アリシアが続ける。識相の力で周囲の星脈構造を調べている。彼女の目が見開かれた。
「構造があります。自然の瘴気ではない。意図的に。誰かが、ここに壁を作っている」
古代から。だから侵触したままの、目に見えない障壁。
五人の前に立ちはだかるそれは、単なる瘴気ではなく、古代の術師が意図的に設置した結界だった。
「突破できるか」
レインが問う。
マルクスが首を振った。
「無理です。この構造を相手に力ずくでは——脈路が焼き切れます」
では、どうするか。
その時、アリシアが指差した。前方に、灰色の岩が立っている。そこに刻まれた文字——古代ファルネーゼ古語での碑文だ。
「読めます」
アリシアが近づき、碑に触れた。古代語を現代語へ翻訳する知識を持つ彼女は、ゆっくりと読み上げた。
「『星脈の七つなる相。五相以上を同時に捧げよ。さすれば門を開かん。成し遂げたる者たちよ、古の福音を受け入れよ』」
五相を同時に捧げる。
レインは五人の相を確認した。
リュカ——水相。だが同時に彼の才能は特異吸収にある。つまり他者の星脈を吸収する能力だ。
ノエル——地相と炎相。二つの相を持つ稀な術師。
アリシア——識相。星脈を感知する能力。
マルクス——識相と光相。彼も二つの相を持つ。
レイン——風相。
数えれば。風相、水相、地相、炎相、識相、光相。六つの相が揃っている。
唯一足りないのは——虚相だ。
「虚相が足りない」
ノエルが言う。
虚相。最も神秘的で、最も理解されていない属性。レインはこれまでに虚相を使う術師に出会ったことがない。虚相とは、存在と非存在の間に立つもの。無を操る相とも、あるいは全てを無にする相とも言われている。
だが五人のうち誰もそれを持たない。
「周囲に星脈が満ちている」
リュカが言った。この瘴気の壁の周辺に。確かに星脈が濃く存在している。
「吸収できるか」
レインの問いに、リュカは頷いた。
「試してみます」
リュカが歩き出した。瘴気の縁に立ち、両腕を広げる。その胸に星脈が集中する。水相の術師としての彼の能力——吸収の相。通常は他の術師の星脈を吸収する。だが訓練次第で、環境中の星脈も吸収できる。
リュカの身体が光った。
吸収される星脈。濃い青色の光が、彼に集約される。それは徐々に強くなる。周囲の瘴気が薄れていく。
「もっと」
レインが促す。
リュカの身体がより明るく光った。青色がより濃くなる。そして——黒い光が混ざった。
「何だ」
ノエルが声を上げた。その黒い光は——命相の光だ。生命力そのもの。周囲の生物の生命力を吸収している。草木のない死域の近くだから、その源は——
「森の方から」
アリシアが指差した。遠くの瘴気の壁の向こう側。そこには、かすかに緑が見える。エスキナの森から、生命力が流出している。その流れをリュカが吸収している。
リュカの吸収は止まった。
五人の周囲に集約した星脈は、六つの相の力を帯びていた。風、水、地、炎、識、光。そして——黒。命相だ。
「六相分です」
リュカが呼吸を乱しながら言う。その表情は疲弊していた。生命力の吸収は、術師の脈路に負担をかける。
だが六相揃った。
「いけ」
ノエルが叫んだ。
五人が一堂に瘴気の壁に向かって力を解放した。
六つの光が、結界に衝突した。
爆発する光。瘴気の壁が裂ける。古代から存在した障壁が、応答を示した。そして——
開いた。
門が現れた。光に満ちた出入口。古代の術師が仕掛けた仕組みが、六相の力を認めて応答した。
五人は駆け込んだ。
光が消える。振り返ると、瘴気の壁は再び閉じた。だが今度は、その向こうに何かが見える。
緑だ。
瘴気に遮られていた景色。それは——森だった。深い緑色。木々。生い茂った草。鮮やかな色彩。
「生きている」
アリシアが呟く。
レインも同じ感覚を持った。この空間は生きている。星脈が満ちている。枯れた死域とは全く逆の、溢れんばかりの星脈。
五人は森へ踏み込んだ。
瘴気に慣れた身体が、一転して濃密な星脈に満ちた空気を吸い込む。呼吸が楽になる。脈路が落ち着く。まるで帰郷したかのような安堵感。
「深奥域エスキナ」
マルクスが呟く。
古代の守護者たちが、星脈の種子を守るために作ったという奥地。七百年前の大崩壊でも失われなかった、星脈の聖地。
そこは確かに生きていた。
深奥域エスキナは、生きていた。
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レインが足を止め、周囲を見渡した。樹齢の長い古木が、無数に立っている。その幹は太く、何百年も生きている証だ。そして——それらすべてが、星脈に満ちている。
「星脈灯がなくても見える」
リュカが言う。本来、星脈の少ない地では夜間は星脈灯に頼る必要がある。だがここでは——周囲の木々から自ら光が発せられている。星脈が自然と光を放っている状態だ。
土には苔が生え、至るところに小さな花が咲いている。到底、死域とは同じ世界とは思えない。
「古代の結界の内側。星脈の環流が特別に設定されているのでしょう」
アリシアが分析する。
「外の世界と遮断されることで、大崩壊の影響から守られた。そういうことか」
ノエルが納得する。
五人は森の奥へ進むことにした。
星脈の種子は、更に深い場所にあるはずだ。記録の間で学んだ情報によれば、エスキナの最奥部に。その場所へ向かわねばならない。
森を進むに従い、古代の建造物が見え始めた。
壊れた石造の遺跡。風化した柱。かつて栄えた構造物の名残。そこには古代文字が刻まれており、アリシアがそれを読む。
「『守護者たちの里』」
彼女の声に力がなかった。ここは、かつて星脈を守る者たちが住んでいた場所。その面影さえも失われ、廃墟と化している。
五人は歩みを進める。
森はより深くなり、古木がより密になった。光が薄れ始める。だが星脈の光は増す。周囲の木々から放たれる光が、五人を導く。
やがて——
古い建造物が見えた。石で作られた、かなり規模の大きい施設。おそらく古代の中心的な建物だったのだろう。
「ここに何かある」
レインが感じた。虫の知らせではない。星脈の流れが、この建造物に集約されている。
五人は慎重に近づいた。
入口は広く開いており、内部は薄暗かった。星脈灯を灯す必要さえない。暗さの中で、何かが静かに光っている。
その光に導かれるように、五人は建造物の内部へ進んだ。
内部の通路は、迷路のように複雑だった。
だが不思議と迷わない。星脈の流れが道を示しているかのように。あるいは古代の守護者たちが、意図的に進むべき道を星脈の光で示しているのかもしれない。
アリシアが識相で感知した周囲の構造。その複雑さ。古代の術師たちの叡智が結集した、この建造物。それは単なる建物ではなく、星脈を制御するための装置全体なのだ。
「これほどの規模だと」
マルクスが呟く。
「完成するのに、数十年かかったでしょう。あるいは数百年」
古代の術師たちの長い歴史。その間に、彼らはこのエスキナを築いた。星脈の種子を守り、それを再生させる日まで。
通路の奥にはより大きな空間がある。そこで五人は足を止めた。
巨大な円形の空間。中央に、古い祭壇が立っている。その周囲には、無数の小さな結晶体。それらはすべて星脈を放射している。
「祈りの場所」
ノエルが言う。戦士の直感。ここは信仰の中心地。古代の人々が、星脈の再生を祈った場所。
壁には更に多くの碑文がある。同じ言葉の繰り返し。古代の誓い。
「『星脈よ、甦れ。世界よ、救われよ。我らの祈りは、その時まで止まらず』」
アリシアが読む。その声は静かだが、深い感動を秘めていた。
古代の人々の覚悟。それは七百年前から、この場所で祈られ続けている。
五人は、この空間を後にした。
目指すはさらに奥。星脈の流れが最も強い場所へ。
通路は下へと続いていた。階段が。古い石造の階段が。
五人は、それを下りた。
深く。深く。大地の奥へ。
やがて、空気が変わった。星脈の匂い。それは何か金属的で、甘く、澄んだ香り。
階段が終わり、広い空間に出た時、五人は息を飲んだ。
地下の大空洞。その広さは、学院の講堂の数倍。天井は高く、壁には幾つもの水路が刻まれている。その水路から、光が。
星脈の光。液化された星脈が、水路を流れている。
「すごい」
リュカが呟く。
「古代の技術。星脈を流動化させ、制御可能にしている。現代では、考えられない」
マルクスが分析する。
その水路は、すべてが一つの方向に流れている。その終点は——
奥の壁に。その壁の奥に。
「そこだ」
レインが指差した。
五人の目が、同じ方向を向いた。




