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第9話「母の手、兄の背」

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 エレナが台所に立つ時、決まって歌を口ずさむ。


 旋律はアルヴェス領に伝わる古い子守唄だ。歌詞の意味は分からないが、エレナの声は高くも低くもない、ちょうど耳に留まる音域にある。前世の蓮なら「BGM」と分類して意識の外に追いやっただろう。しかし六歳の体は、その歌を妙に心地よく感じていた。


 「レイン、卵をここに割ってくれる?」


 エレナが陶器のボウルを差し出した。今日の朝食はファルネーゼ風の焼き菓子らしい。小麦粉に卵と蜂蜜、それから干した果実を混ぜ込んで焼く。素朴だが、セドリックの好物だ。


 レインは卵を受け取り、手際よく割った。殻が一片も入らないように、縁に軽く当てて均等に力を加える。前世で学んだわけではない。この体の手の大きさと握力を計算すれば、最適な力加減は自ずと分かる。


 「上手ね。じゃあ次は——」


 「蜂蜜は先に小麦粉と混ぜた方が効率的です。卵を加えてからだとダマになりやすい」


 レインが言うと、エレナはきょとんとした顔をした。それからくすくすと笑い出した。


 「あら、そうなの? お母さん、ずっと卵が先だったわ」


 「手順を変えれば、練る回数が三割ほど減ります」


 「そうかもしれないわね」


 エレナは笑ったまま、しかし手順を変えなかった。卵をボウルに落とし、いつも通りに木べらで練り始める。


 「……お母さん? 蜂蜜が先の方が——」


 「ねえ、レイン」


 エレナが木べらを動かしながら言った。


 「効率的に作ったお菓子と、一緒に作って楽しかったお菓子、味は同じかしら?」


 「……同じ材料なら、同じです」


 「お母さんはね、違うと思うの」


 エレナはレインの方を向いて、木べらを差し出した。生地がべったりとついている。


 「はい、味見。美味しい?」


 甘かった。蜂蜜の甘さと、小麦粉の素朴な香り。美味しいか不味いかで言えば、美味しい。


 「……美味しいです」


 「でしょう? 一緒に作ると、もっと美味しくなるのよ」


 論理的には意味が通らない。しかしエレナは本気でそう思っている。その確信に満ちた笑顔を見て、レインは反論を飲み込んだ。


 ——効率より「楽しさ」を優先する。前世の鷹司蓮には、最も縁遠い発想だった。



    * * *



 その週の休日、一家でフィルモスの町に出かけた。セドリックが子供向けの剣術大会に出場するためだ。


 セドリックは九歳になっていた。肩幅が広くなり、手足が伸び、子供の丸みが少しずつ抜け始めている。父グレンと同じ栗色の髪を短く刈り込み、朝から木剣を握って素振りをしていた。


 「見ててね、レイン。今日は勝つから」


 セドリックは出番前にそう言い残して、闘技場の砂地に飛び出して行った。


 観客席は領民たちで埋まっている。グレンは腕を組んで無言で見守り、エレナはレインの隣で手を握りしめていた。


 試合が始まった。


 セドリックの動きは悪くなかった。基礎に忠実で、足運びが丁寧だ。一歩踏み込み、木剣を振り下ろす。乾いた打撃音が闘技場に響いた。レインの目には、兄の剣筋が「正しい教科書通りの型」であることが分かる。


 しかし——対戦相手の少年は違った。背丈はセドリックより半頭分低い。だが踏み込みが深い。型を崩してでも間合いを詰める、荒削りだが大胆な剣だった。


 二合、三合。木剣がぶつかり合う度に、セドリックがわずかに後退する。足を踏み直す一瞬の隙を、相手は見逃さなかった。低い姿勢から跳ね上げるような一撃。


 セドリックの木剣が弾かれ、砂地に落ちた。


 負けた。


 セドリックは砂地に膝をつき、しばらく動かなかった。顔は見えないが、肩が震えている。


 グレンが立ち上がった。


 大股で砂地に降り、膝をついたままの長男の前に立った。レインは父の表情を読もうとした。失望か。叱責か。前世の蓮の上司は、結果を出せなかった部下にそのどちらかを向けた。


 しかしグレンは、セドリックの頭に大きな手を置いた。


 「よく頑張ったな、セドリック」


 低く、静かな声だった。


 セドリックが顔を上げた。目が赤い。


 「負けた……父上」


 「ああ、負けた。だが、最後まで逃げなかった。立派だった」


 グレンはそう言って、息子の肩を叩いた。セドリックの目から涙がこぼれた。泣きながら、しかし顔は笑っていた。


 レインはその光景を、観客席から見つめていた。


 ——負けたのに、なぜ褒めるんだ。


 結果がすべてではないのか。前世の鷹司蓮は、そういう世界で生きてきた。プレゼンが通らなければ準備が悪い。契約を逃せば分析が甘い。過程がどうであれ、結果が伴わなければ評価されない。それが蓮の知るルールだった。


 隣でエレナが、涙を拭いていた。


 「お母さん、なぜ泣いているの。セドリック兄さんは負けたのに」


 エレナはレインを見下ろし、少し困ったように微笑んだ。


 「セドリックはね、お父さんに褒めてもらいたくて一生懸命だったの。結果じゃないのよ、レイン。その気持ちが——嬉しいの」


 理屈では分かる。


 だが、実感がない。


 「褒めてもらいたくて頑張る」という動機が、レインには掴めなかった。前世の蓮は誰かに褒められるために仕事をしたことはない。評価は結果に付随するものであり、感情ではなく実績が基準だ。


 セドリックが観客席に戻ってきた。まだ目が赤い。しかし、晴れやかな顔をしていた。


 「レイン、次は勝つ。絶対に」


 兄の背中は、負けた直後とは思えないほど真っ直ぐだった。


 ——結果ではなく、気持ち。


 言葉としては理解できる。しかし、胸の中で何かが噛み合わない。それが何なのか、レインにはまだ分からなかった。



    * * *



 秋の終わりに、エレナが熱を出した。


 医者は「季節の変わり目の風邪」と言った。大事ではない。安静にしていれば数日で治る。


 レインは即座に動いた。


 まず、町の薬師から解熱の薬草を手配した。次に、エレナの看病のスケジュールを組んだ。朝はメイドのクラーラが食事と水を運び、昼はレインが薬を飲ませ、夕方にもう一度医者に診せる。夜の容態確認は自分が担当する。


 完璧な手配だった。前世の蓮が部署の危機管理で鍛えた段取り力は、こういう場面で発揮される。


 二日目の昼、レインは薬湯を持ってエレナの部屋を訪れた。


 「お母さん、薬です。今朝より熱は引いているはずです」


 エレナはベッドの上で身を起こし、薬湯を受け取った。顔色は悪いが、目に力はある。大事には至らない。


 「ありがとう、レイン。あなたが全部手配してくれたんですってね。クラーラが感心していたわ」


 「必要なことをしただけです」


 「そうね」


 エレナは薬湯を一口飲み、小さく顔をしかめた。苦いのだろう。しかし文句を言わず飲み干した。


 空になった器を受け取ろうとしたレインの手を、エレナが両手で包んだ。


 「レイン」


 「……はい」


 「ありがとう。でもね——」


 エレナは微笑んだ。頬がまだ熱で赤い。


 「そばにいてくれるだけで、いいのよ」


 レインの手を握るエレナの掌は、熱のせいで普段より温かかった。


 「……そばにいるだけでは、熱は下がりません」


 「下がらないわね」


 エレナは笑った。


 「でも、元気にはなるの」


 意味が分からなかった。論理的に筋が通らない。そばにいるだけで何が変わる。薬を飲み、安静にし、栄養を摂る。回復に必要な要素はそれだけのはずだ。


 前世でも同じだった。妻の美咲が体調を崩した時、蓮は最高の医者を手配し、家事代行を頼み、高級な果物を届けさせた。完璧な対応だと思っていた。なのに美咲は「あなたは来てくれないのね」と電話口で言った。蓮には、その言葉の意味がずっと分からなかった。


 ——今も、分からない。


 エレナの手を握り返すべきなのだろう。しかし体が動かない。何を言えばいいのかも分からない。「お大事に」? 「早く良くなってください」? どれも——正しいが、足りない気がする。


 レインは結局、空の器を持って部屋を出た。


 廊下で、ヴァルターと行き合った。


 老人は壁に背を預けて立っていた。いつからそこにいたのか分からない。レインが薬湯を運んでいく時には、いなかったはずだ。


 「先生」


 「ちゃんと薬を飲ませたか」


 「はい。スケジュール通りです」


 「そうか」


 ヴァルターが目を細めた。いつもの、何かを見透かすような目だ。


 「レイン。一つ訊いてもよいかの」


 「何でしょう」


 ヴァルターは答えなかった。廊下の窓から差し込む夕陽が、老人の白髪を橙に染めている。しわだらけの手が袖の中に隠れ、灰色の瞳だけがレインを見ていた。長い沈黙。まるで、次の言葉の重みを計っているかのようだった。


 「お前——母親の手を、握ったことはあるか?」


 レインは答えられなかった。


 握っていない。先ほど、エレナがレインの手を握った。しかしレインの方から握り返したことは——一度もない。


 「……それが、何の役に立つのですか」


 声が、思ったより小さかった。


 ヴァルターは答えなかった。ただ一度だけ、レインの頭にそっと手を置いて、去って行った。


 廊下に一人取り残される。手のひらに、エレナの熱がまだ残っている。


 ——握ればいいだけだ。たったそれだけのことが、なぜできない。


 前世の四十七年間で、鷹司蓮は誰の手も握らなかった。妻の手も、息子の手も。握ることに意味を見出せなかった。手を握って、何が解決する。何が変わる。


 しかし今、エレナの掌の残り熱を感じながら、レインは初めて思った。


 ——変わらなくても、いいのかもしれない。


 その考えは一瞬で消えた。頭が否定する。根拠のない直感は信用できない。合理的な判断だけが、正しい行動を導く。


 レインは薬湯の器を台所に戻し、次の薬の準備に取りかかった。


 手は動く。段取りは組める。やるべきことなら、いくらでもある。


 ——握るだけでいい。たった、それだけのことなのに。


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