第8話「星脈の初動」
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ヴァルターの授業は、レインの予想をことごとく裏切った。
初日。
屋敷の裏庭に連れ出されたレインは、術式の講義が始まるものと思っていた。
理論の体系化。脈路のメカニズム。七相の属性分類。
そういった内容を、体系立てて教わるものだと。
しかしヴァルターは講義をしなかった。
「座れ」
ヴァルターは草の上にどかりと腰を下ろし、レインにも同じようにさせた。
それから──何もしなかった。
「……先生?」
「黙って座っておれ」
一時間。
レインは草の上に座り続けた。
風が吹く。
雲が動く。
虫が鳴く。
それだけだった。
五歳の体は意外に辛抱強く、頭の中で星脈術の理論を反芻しながら待つことはできた。
二時間目に、ヴァルターが口を開いた。
「何か感じたか」
「……風が吹いています。東からの風で、速度は——」
「そういうことではない」
ヴァルターが目を開けた。
細い目の奥の灰色の瞳が、真っ直ぐにレインを見ている。
「お前は風を観測した。だがな、感じてはおらん」
意味が分からなかった。
「風の速度と方向を分析するのは、頭の仕事じゃ。わしが訊いたのは、風に触れた時にお前の体が何を感じたか、ということじゃよ」
レインは黙った。
風に触れた時の体の感覚。
そんなものを、意識したことがなかった。
風は物理現象だ。
空気の移動。温度差による対流。
それ以上の何がある。
ヴァルターは深く嘆息した。
「やはりの。——まあ、ここからじゃ」
* * *
それから数ヶ月、ヴァルターの授業は「感じること」の訓練だった。
目を閉じて風を感じろ。
地面に手をつけて土の温度を感じろ。
川のそばに座って水の音を聞け。
理屈で考えるな。
体が何を受け取っているか、そのまま受け止めろ。
レインにとって、これは苦行だった。
風が吹けば、その速度や方向を推定してしまう。
雨が降れば、降水量を予測してしまう。
常に分析が先に来て、「心地よい」や「冷たい」という感覚を遠ざけていた。
だがヴァルターは、その感覚こそが星脈術の根幹だと言う。
「星脈は理屈で動かせるものではない。星脈は——この世界そのものの脈動じゃ。それを体で感じ、自分の脈路と同調させることが、すべての始まりになる」
理論的な説明も加えてくれた。
星脈術には三つの段階がある。
第一段階、「吸収」。地中を流れる星脈のエネルギーを、脈路を通じて体内に取り込む。
第二段階、「変換」。取り込んだエネルギーを、七つの属性——炎相、水相、地相、風相、命相、識相、虚相——のいずれかに変換する。
第三段階、「構築」。変換したエネルギーを術式という設計図に従って放出する。
「吸収」は、星脈との同調から始まる。
だからこそ「感じる」訓練が必要なのだ。
頭では理解できた。しかし——。
「できんか」
ヴァルターが訊いた。
レインは裏庭の草の上に座り、目を閉じている。
何度目かの試みだった。
「星脈の流れは……理論上、この辺りの地中を通っているはずです。しかし、何も感じません」
「理論上、ではない。感じろと言っておる」
「感じ方が分かりません」
正直な告白だった。
「感じる」には方法がない。
少なくとも、今のレインの中にはなかった。
ヴァルターが黙った。
長い沈黙の後、老人は言った。
「……ならば、別のやり方を試すか」
ヴァルターがレインの手を取り、掌を上に向けさせた。
そしてその上に、自分の手を重ねた。
「わしの脈路を通じて、少しだけ星脈を流す。お前の体がどう反応するか、見てみよう」
老人の手のひらから、何かが流れ込んできた。
——。
レインの目が見開かれた。
言葉にできない感覚だった。
体の中を、温かい川が流れている。
血液とは違う。
もっと深い場所を、もっと細い経路を通って、体の隅々に行き渡っていく。
指先が痺れるような、しかし不快ではない振動。
胸の奥で何かが共鳴している。
「——凄い」
声が漏れた。
「体の中に、川が流れている」
ヴァルターが手を離した。
感覚が薄れていく。
しかし、残滓がまだ体の中にあった。
かすかな温もりと、脈路の経路を辿るように走る微弱な振動。
だが、その瞬間——レインは奇妙なことに気づいた。
ヴァルターが流し込んだエネルギーが、すでに自分の体の中に存在していた経路をまるで「思い出す」かのように流れている。
抵抗がない。
むしろ、川の枯れた流路に水が戻ってくるような、深い応答性を感じた。
何かが、長い眠りから覚めるような——。
「それが星脈じゃ。お前の体の中を通った、ほんの一滴分の」
レインは自分の手のひらを見つめた。
何も変わっていない。
しかし——今の感覚は、初めてのものだった。
科学で説明できない。しかし確かに「ある」。
「これは……物理法則に近い。エネルギーの変換と保存則が——」
「まだ分析しようとしておるか」
ヴァルターが呆れたように笑った。
「お前は感じた。それでよい。まずはそこからじゃ。——さて、次は自力で吸収してみよ」
* * *
それから更に数週間。
レインは自力での吸収に成功した。
一度体験した感覚を手がかりに、脈路の「通り道」を意識し、地中の星脈に同調する。
ヴァルターに流してもらった時の感覚をデータとして記憶し、それを再現するために必要な体の状態を逆算する。
「感じる」ことが苦手なら、一度感じたものを「分析して再現する」。
邪道だが、結果は出た。
「風相」への変換も、理屈の上ではすぐに理解できた。
吸収した星脈を、風——運動と振動のエネルギーに変換する。
指先に集めた風が、微かに空気を揺らす。
「筋は悪くない」とヴァルターは言った。「吸収と変換は、お前のやり方でも形になる。——問題は次じゃ」
構築。
変換したエネルギーを「術式」という形に組み上げる段階。
これが——できなかった。
理論は完璧に理解している。
風の刃を生み出す基礎術式。
そのエネルギーの流路、放出のタイミング、力の配分。
すべて頭の中に設計図がある。
しかし、設計図通りに体が動かない。
変換したエネルギーが、指先から放出される直前に霧散する。
形を保てない。
何度試みても、風が「術」にならず、ただの突風として散ってしまう。
「……なぜだ」
レインは地面に座り込み、自分の手を見つめた。
三段階の理論は完全に把握している。
吸収も変換もできる。
なのに、最後の構築だけができない。
もう一度、試みた。
風相のエネルギーを指先に集め、術式の設計図通りに放出する。
イメージは完璧だ。
しかし指先から飛び出したのは制御を失った突風で、目の前の草をめちゃくちゃに散らしただけだった。
拳を握った。爪が掌に食い込む。
「分かっているのに、できない」
その言葉が、自分の口から出た瞬間——新しい感情が、胸の底に湧いた。
悔しい。
理解すれば実行できた。
分析すれば解決できた。
それが当たり前だと思っていた。
だがこの体は、そのルールが通用しない世界にいる。
ヴァルターが隣に座った。
「知識と技術は別物だ」
老人の声は、穏やかだった。
「頭で分かっていても、体が覚えなければ術にはならん。構築は——設計図を描くことではない。体が設計図そのものになることじゃ。——お前は少し、頭に頼りすぎるの」
レインは答えなかった。
頭に頼りすぎる。
その指摘は正しい。
しかし、頭以外の何に頼ればいいのか分からなかった。
感覚か。直感か。
それらはレインの中で、最も信用してこなかったものだ。
——頭では分かっている。でも、体がついてこない。
帰り道、屋敷の廊下を歩いていると、台所から歌声が聞こえた。
エレナの子守唄だ。
高くも低くもない、穏やかな旋律。
セドリックの笑い声がそれに重なっている。
レインは足を止めた。
——あの声を聞いている時、俺の体は何を感じている?
問いだけが残り、答えは出なかった。
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