第3話「ゼノンの警告」
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校舎の奥、高い塔の頂上――ゼノン・アルケイドの研究室へ、レインは呼ばれていた。
教科書にない、しかし確かに存在する『タワー』。その中で、あの飄々とした教授は、何を研究しているのか。
階段を上り続け、最上階に到達した時、扉は既に開かれていた。
「来たか。靴は脱いでくれ」
室内は、想像以上に秩序立っていた。壁一面の書架に、厳選された書籍が整列されている。机の上には、複雑な図表が散乱し、いくつもの仮説が並行して検討されている痕跡が見える。
ゼノンは、くわえ煙管を置き、レインを促した。
「夏の間、お前のヴァルター殿の仲介で、かなり興味深い論文を読む機会を得たのだ」
ゼノンが言及したのは、レインが夏の修行中に、星脈についての古代文献を調査していたことだ。
「その論文の中に、極めて不穏な記述が存在する。お前は、それに気づいているか」
ゼノンが、机の上の一冊の厚い本を指さした。それは、古代術師の『星脈論考』という学術書。表紙には、数百年前の印章が押されている。
「いいえ。僕は、星脈の理論や構造についての部分は読みましたが、その先の警告については――」
「だろうな。お前は、なかなかの読み手だが、古代術師たちが何を恐れていたのかまでは、想像していないだろう」
ゼノンは、問題の個所をめくり、レインに示した。
古い字で、丁寧に記述された文章。そこに書かれていたのは――
「星脈は、無限ではない。地殻に蓄積された魔力の量は、有限である。その枯渇の危機に際して、古代術師たちは何をしたのか」
レインは、本を読み進める。
古代術師たちは、『星脈保全の教義』を創設したという。一度に吸収する星脈の量を制限し、使用後は可能な限り効率的に利用し、無駄を減らす。そうした規律の下で、星脈の持続利用を模索していたと書かれている。
だが、その次の段には、別の警告が記されていた。
『現代、若しくは未来の術師たちが、この警告を無視するならば、央域の星脈が枯渇するのに、わずかな世代を要すまい』
「つまり、古代術師たちは、自分たちの世代では対応できないほどの危機を予見していたということですね」
レインが、ゆっくりと言葉を選んで答える。
「そうだ。そして、その『危機』というのが、いつ頃の想定だったのかを推測することが、重要だ」
ゼノンが、別の論文を示す。
それは、星脈の再生速度についての研究論文だった。古代術師たちの推算によれば、地殻から星脈が補充される速度は、非常に遅いという。およそ百年で、一つの地域の星脈が一割程度回復するレベルだという。
「では、逆算してみる」
ゼノンが、説明を続ける。
「現在、世界中で消費される星脈の量を推定してみよう。もちろん、完全な統計は存在しないが、各地の星脈灯の使用状況、術師の数、魔法の日常的な利用状況から、ある程度の推測は可能だ」
ゼノンが、自分の計算結果をまとめた紙をレインに渡した。
その数字を見たとき、レインの息が止まった。
「これは――」
「現在の消費速度が続けば、央域の星脈が著しく減少するのに、数十年しか要しない、という計算だ」
ゼノンの声は、飄々としていた。だが、その言葉の重みは、重力のように重かった。
「数十年ですか。そんな。学院の統計によれば、星脈灯の消費量は安定しているはずでは」
「ああ。統計上はな。だが、お前も知っているだろう。統計というのは、測定対象を限定したときの話だ。五大国家だけで完結している世界なら、その統計は有効かもしれない。だが、北方の小国家群、東方の遊牧民族、西方の商業都市国家。そうした『正式には統計対象外』の地域での星脈利用は、考慮されていない」
ゼノンは、大陸地図を示した。
確かに、世界中のあらゆる場所で、術師たちは星脈を利用している。学院の統計は、あくまで五大国家内の『記録された』利用量だけを対象にしている。
「その結果が、この推算だ」
ゼノンが、もう一度、計算結果を指さした。
「つまり、世界は既に、星脈枯渇の坂を転がり始めている、ということですね」
レインが、静かに言葉を紡ぐ。
「そう考えるのが、最も合理的だ。古代術師たちは、この危機を予見していた。そして、それを防ぐための『教義』を作った。だが、現代はどうか」
ゼノンは、煙管を再度くわえた。
「現代の術師たちは、星脈の有限性を認識していない。いや、正確には、高位の術師たちは認識しているはずだ。だが、それを一般には秘匿している。なぜなら、もしこの危機が明るみに出れば、社会は大混乱に陥るからだ。星脈に依存した現代文明は、一挙に衰退する」
「では、先生は。この情報を、いつ公開するおつもりで」
「それだ。その判断が、極めて難しい」
ゼノンが、机に身を預ける。
「論文として、正式に発表すれば、学術的な信用は得られるだろう。だが、それはまた、社会的なパニックをも招く。各国の指導者たちが、この情報をどう利用するかも、予測不可能だ」
ゼノンは、レインを見つめた。
「そこで、お前に預けたい。この情報を、誰に、いつ、どのような形で伝えるか。その判断は、相応の力を持つ者がなすべきだ」
「僕に、ですか」
「ああ。今のお前では足りんだろう。だが、お前はこれから成長する。今、この情報を知ることで、その成長の質が変わるはずだ。この危機を『認識したうえで』、術師として何ができるのかを考える者と、無知なまま学問を進める者では、その先の道が違うに違いない」
ゼノンが、本をレインに返した。
「この本は、お前に預ける。他言無用だ。マルクスにも、アリシアにも、誰にも言うな。この秘密は、今はお前とわたしの間に留めておく」
レインは、本を受け取った。その重さは、単なる物理的な重さではなく、知識と責任の重さであった。
「わかりました。僕だけが、この情報を知る。そして、その上でできることを考えます」
「そうしてくれ。だが、焦るな。十年単位での危機だ。数年の判断誤りが、全てを失うわけではない。慎重に、入念に、考えを深めるのだ」
ゼノンは、再度煙管の香りを堪能した。
「では、行ってもいい。だが、その本だけは、絶対に誰の目にも触れないようにしろ」
レインは、頭を深く下げた。
「ありがとうございました。責任は、受け止めます」
塔を下りる階段の中で、レインの心には、一種の枯れた感覚が降りていた。
石造りの塔の壁は、古い。その表面には、幾百年も前に施された術師たちの刻印が残されている。彼らも、同じ階段を上り下りしていたのだろう。同じ悩みを抱えていたのだろうか。いや。古代術師たちは、少なくともこの危機を『認識していた』。だが、それでも解決できなかった。ならば、現代の自分たちが解決できるはずがない。
ふと、レインの視界が揺らいだ。
階段の風景が、重なって見える。古い石造りの塔と、同時に、別の空間。オフィスビルの――内部?いや、それは違う。前世の記憶だ。だが、なぜこの瞬間に。前世と現世が、一瞬重なったかのような、不可思議な感覚。その瞬間は直ぐに消える。実際は何秒に過ぎなかったのか。それさえ不確かだ。
レインは階段に手をついた。目眩がしたのだろう。疲労か。心の疲れか。その双方か。本は重い。知識は重い。そして責任も。
世界は、本当は何も知らない。人々は、星脈が無限だと信じている。星脈灯の光が、いつまでも燃え続けると思っている。その信念の上に、現代の文明は成り立っている。
だが、その信念は幻である。
そして、その幻を知る者となった今、レインは一種の孤立を感じるのだ。
友人たちとの食卓で、彼らが星脈についての話をするとき、レインはその話題に完全には参加できない。知ってはいけない真実を知ってしまったから。
マルクスが「央域の星脈濃度は安定している」と言うとき、その言葉は無知から来るものではなく、『統計では』安定しているという事実を述べているのだ。だが、レインはもう、その統計の不完全さを知っている。
ノエルが複相術師として、より深い層の星脈を感知しようとしているとき、その探求は実はいずれ、枯渇した星脈にぶつかるのだ。
廊下の窓から、秋の景色が見える。
木々の葉は、今日も落ちている。新しい葉が芽生える春を待ちながら、確実に季節は進んでいく。それは自然の営みであり、その中に何の悪意もない。ただ、時間は流れていく。その流れの中で、世界は確実にその資源を消費していく。
世界も、そうなのだろう。確実に、その終わりへ向かって動いている。
「数十年」。その言葉がレインの脳裏に反復する。自分がいま十一歳。数十年後には、中年を迎えているだろう。その時代に、星脈はどの程度枯渇しているのか。央域の灯は、どれほどの明るさを保っているのか。
だが、その終わりが来るまでに、何ができるのか。
その問いが、レインの心に沈殿していく。
本の重さは、彼の腕の中で、重くなるばかりだ。




