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第1話「五人目」


---


学院の食堂は、相変わらず喧騒に満ちていた。


二年目の秋。夏の修行から帰還してから数日が経ち、生活のリズムも戻り始めていた。窓の外では、木々が緋色へ衣替えを始めている。冷え込みが強まるまで、あと数週間といったところか。


レインは、いつもの席に腰を下ろした。ノエルとリュカはすでに席についており、盆の上に積み上げた食事をせっせと平らげていた。


「おっしゃ、帰ってきたらやっぱり食堂飯が一番だ。修行先のメシは――」


リュカが口をもぐもぐさせながら喋っている。日焼けした顔が、いっそう生き生きして見える。夏の実戦で何かが変わったのだろう。吸収力が目に見えて向上していた。


「お前、口に食べ物を入れたまま話すな。行儀が悪い」


ノエルが不機嫌そうに言い放つ。手には白い包帯が巻かれている。鍛冶の日々で手を痛めたのだろう。複相術師としての歩みも着実に進んでいるようだ。


「いいじゃん。レインだって別に――」


「だからお前はいつまで経っても」


二人のやり取りは、すでに見慣れた光景である。レインは穏やかに食事を進めた。ここに来て、こうした「日常」がどれほど貴重であるかを改めて感じている。前世でも、気の置けない仲間との食事時間は限られていた。


そして――アリシアが、食卓に現れた。


彼女は相変わらず完璧な姿勢で席についたが、以前よりも柔らかい雰囲気を纏っている。夏の修行を通じて、何かが解放されたのだろう。眼差しに、わずかな温かみが増していた。


「お疲れ様です。食事は始まってますね」


アリシアが、静かに語りかける。


「ああ。ちょうどいい時間だ。飯もまだ温い」


レインは彼女に食器を勧めた。


そして、その背後に――人影があった。


一瞬の静寂が、食卓を包んだ。


「……失礼します」


低い、しかし丁寧な声。マルクスが、そっと席に近づいている。学院の制服に身を包み、銀髪はいつも通りに整えられているはずなのに、どこか見慣れない印象を与えていた。


その瞳に、何かが欠けていた。


前世で、レインが知っていた『恐怖』――その淵を見つめた者の眼差し。親に圧倒され、自らの選択肢を持たぬまま蹂躙された者の痕跡。彼の眼には、まだそれが残されていた。


「マルクス。ここ、空いてる」


リュカが明るく声をかけた。彼は、夏の修行で何か大切なものを得たのだろう。マルクスに対する抵抗感が、すっかり薄れている。むしろ歓迎さえしているように見える。


「ありがとう。では、失礼する」


マルクスは、リュカの横に腰を下ろした。


ノエルは眉をひそめたが、何も言わなかった。彼の警戒心は依然として強いだろうが、少なくとも公然とした敵意は示さないようになっている。相手を完全に信用はしていないが、同じ釜の飯を食う者として認める、そういう距離感だ。


アリシアは、マルクスの顔をじっと観察している。彼女は複雑な感情を内に秘めているのだろう。マルクスに対して何を感じているのか、外からは判断しがたい。


食卓に、静寂が落ちた。


のの字を描くように鳴る音。スプーンが食器に触れる音。水を飲む音。そうした生活音だけが、五人の間で響く。


会話がない。


本来であれば、ここは笑いと言葉に満ちた場所のはずだ。だが今、食卓の上には、目に見えない影が横たわっていた。それは解消されるべき緊張というよりも、むしろ『その存在を認める者たち』の沈黙であった。


レインは、マルクスの横顔を盗み見る。彼が食べ物をゆっくりと口に運ぶ。その仕草さえ、どこかぎこちなく見える。彼は、こうした『日常』に慣れていないのだ。侯爵家の嫡男として育てられた者にとって、同年代の人間と同じ盆の前で食べるという行為そのものが、なじみ薄いのかもしれない。


「……美味しいですか」


アリシアが、突然に声をかけた。対象はマルクスだ。


マルクスは、わずかに動きを止める。そして、彼女を見つめた。


「……ああ。美味しい」


簡潔な返答。だが、その中に偽りはないように聞こえた。


「そうですか。良かった」


アリシアは、またかつての無表情さに戻って、自分の食事に集中する。しかし、その一瞬の間に、彼女が何かを『確認』しようとしていたのが、レインには伝わってくる。


リュカが、また何かを言おうとしている雰囲気だ。だがノエルが足で彼を蹴った。かすかに悔しげな声が上がるが、それ以上の言葉は出ない。


五人の食卓は、静かに時を重ねる。


やがて、セドリックが通りかかった。上級生の姿を認めると、リュカが手を上げて声をかけようとしたが、ノエルの肘打ちで阻止される。


レインは、兄の後ろ姿を見つめた。彼も、この異変に気づいているだろう。だが、二年生の友人たちの食卓に介入することはない。セドリックは、自分たちの道を歩む。


そして、レインたちは、自分たちの道を歩む。


その道の先に、何があるのか。


マルクスが、ゆっくりと水を飲む。彼の瞳には、依然として恐怖の残滓が映っている。それは、朝日が差し込んでも、夕焼けに染まっても、決して消えることのない影のようだ。


前世で、レインが知る息子たちの中に、似た眼差しを持つ者がいた。親の期待に押しつぶされ、自分の選択肢を失い、ただ生きているだけの者たち。彼らの多くは、やがて人生を棒に振った。


だがマルクスは違う。彼は、この食卓に自分から歩み寄った。親の命に背いてでも、この四人と共にあることを選んだ。


その決意の重さが、沈黙の中に込められている。


食事が終わる。やがて五人は、食堂を後にした。


廊下で、マルクスが立ち止まった。


食堂の熱気から解放された廊下は、秋の冷たさに満ちていた。石造りの壁が、その冷気をさらに強調する。窓の外では、日暮れが近づき、影が伸びている。


「……君たちに、感謝しなければならないことが多くある」


彼の言葉は、まっすぐであった。だが、その声には、まだぎこちなさが残っていた。侯爵家の嫡男として育てられた訓練と、自分の感情の間に、何かの断裂を感じさせる。


「また始まった。堅いよ、マルクス」


リュカが笑う。しかし、その笑いは優しさを含んでいた。夏の修行の中で、彼は何かを学んだのだ。他者を受け入れるということが、決して簡単なことではなく、同時にそれ以上に価値のあることであることを。


「でも、本当だ。夏の件もそうだが、この食卓に加えてくれる。本来なら、俺はここに――」


マルクスが言葉を切る。彼の瞳が、一瞬、過去へ向けられた。その奥に映るのは、侯爵家の宮殿。厳格な父の瞳。そして、自分の価値を数値化する声音。


「いるべきだった」


ノエルが、静かに言った。


マルクスはノエルを見つめた。


「俺たちは四人で、お前は五人目。それだけだ」


ノエルのぶっきらぼうな言葉の中に、一種の覚悟が込められていた。彼も、マルクスの加入を『受け入れた』のである。単に許容するのではなく、仲間として扱うことに決めたのだ。その決断には、彼なりの葛藤があったに違いない。


アリシアが、静かに二人を見つめている。彼女の目には、なにかの理解の光が宿っている。人間関係の複雑さ、許しと受け入れの違い。彼女も、夏を通じて、そうしたことを学んだのだろう。


五人の沈黙が、新しい色に変わる。


すなわち、『確認』から『承認』へ。


その光景を見つめながら、レインは思う。


前世で、このような仲間たちに巡り会えたなら、人生は違ったものになったのだろうか。商社という巨大な機構の中で、競争と成功のみを求めて生きた自分。妻はいたが、信頼できる仲間というものは持たなかった。親友と呼べる者も。ただ上り詰めることだけを目指した、枯れた人間。


だが、その問いに答える必要はない。今、ここに、彼らはいるのだから。


食卓の影は、まだ完全には消えていない。だが、五人が共にあるという事実は、その影をゆっくりと薄めていくだろう。時間が、全てを癒すわけではない。だが、時間の中に『仲間』がいるということが、すべての違いを生むのだ。


廊下から、授業室への道を進む。秋風が、開かれた窓から吹き込む。石造りの廊下に、学院の香りが混ざる。古い本、燭灯の香り、そして若い生命の息吹。


五人は、肩を並べて歩く。


前の三人の話し声は明るい。マルクスとレインは、後ろを歩きながら、静かに時間を共有している。その沈黙は、もはや気まずいものではない。むしろ、言葉がなくても理解し合える関係への第一歩であった。


秋の影が、廊下に伸びる。だが、五人の足取りには、確かな力が込められていた。



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