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第7話「偏屈な老師」

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 その老人は、驢馬に乗ってやってきた。


 馬ではない。驢馬だ。痩せた灰色の驢馬の背に、古びたローブをまとった老人がゆらゆらと揺られている。白髪を無造作に伸ばし、髭も長い。猫背の細い体はローブに埋もれて、どこからが布でどこからが人なのか判然としない。


 アルヴェス家の門番が怪訝な顔で駆け寄ったのも無理はなかった。


 「何者だ。ここはアルヴェス家の──」


 「おお、すまんの。道が分かりにくくてな。グレン殿に呼ばれて来たのだが」


 老人は驢馬の背から降り──いや、ずり落ち、砂埃を立てて地面に着地した。膝を払い、何事もなかったように門番に笑いかけた。細い目が弧を描いている。


 「ヴァルター・クロイツと申す。息子御の教育係として参った」


 レインは二階の窓からそれを見ていた。


 ヴァルター・クロイツ。あの夜、廊下の向こうからグレンの声で聞いた名前。元宮廷の人間。「あの子を、見てもらおうと思う」──父がそう言った人物が、これか。


 ──驢馬に乗って、ずり落ちる老人。


 グレンがこの老人を探し出すまでの経緯は、断片的に聞いていた。灌漑の一件以来、グレンはレインの「異常な聡明さ」に対処する必要を感じていたらしい。通常の家庭教師ではこの子に足りない。かといって王都の学院に送るには幼すぎる。相談を重ねた末にたどり着いたのが、領地の外れに隠居していたこの元王宮術師だった。


 元・ファルネーゼ王宮術師団副団長。その肩書は書庫の記録にもあった。十五年前に辞任し、以来この辺境で隠遁生活を送っている。辞任の理由は公式には「健康上の問題」とされているが、実態は不明。


 ──王宮の副団長が、なぜ辺境に隠居しているのか。


 前世の蓮なら、こういう人物の背景調査は徹底した。しかし今は、それよりも興味を引くことがある。あの驢馬からのずり落ち方。あれは──計算されている。門番の警戒を解くための演技だ。


 商社時代に何度も見た手法だった。大物ほど、最初は小さく見せる。


 レインは窓を離れ、階下へ向かった。



    * * *



 応接間。


 グレンとエレナがヴァルターを迎えていた。レインが入ると、老人の細い目がこちらを向いた。


 一瞬だった。


 ほんの一瞬、老人の目の奥に鋭い光が走ったのをレインは見逃さなかった。しかしそれはすぐに消え、穏やかな笑みに戻った。


 「おお、この子がレイン君か。ほほ、母上に似て、綺麗な銀の髪じゃの」


 飄々とした老人の声。しかしレインの中で、警報が鳴っていた。


 この老人は──ただ者ではない。


 「さて、早速だが適性検査をさせてもらおうかの。星脈術を学ぶなら、まず器を知らねばならん」


 ヴァルターが懐から取り出したのは、掌に収まる大きさの透明な球体だった。内側にかすかな光の筋が走っている。


 「これを両手で包んでごらん。力は要らん。ただ手を当てるだけでよい」


 レインは球体を受け取り、両手で包んだ。


 球体が反応した。内部の光の筋が動き始め、色が変わっていく。最初は淡い白。それが徐々に──緑がかった青に落ち着いた。光量は、控えめだった。


 ヴァルターが球体を覗き込み、小さく頷いた。


 「風相に適性がある。副次的に識相も少々。脈路の広さは……中の上、というところかの」


 その声に、落胆はなかった。しかし感嘆もなかった。


 グレンが訊いた。「それは──良い結果なのか」


 「良くも悪くもない。脈路の素質としては、まあ平均よりやや上じゃ。突出した才能、というわけではないの」


 グレンの肩が微かに落ちた。エレナは表情を変えなかったが、レインの方をそっと見た。


 ヴァルターが球体をしまい、茶を一口すすった。


 「才能がすべてではないがの。とはいえ、脈路の広さは生まれ持ったもの。鍛錬で多少は拡げられるが、限界はある。──まあ、よくある結果じゃよ」


 「よくある結果」。その言葉が、老人の中で既にこの件を「終わらせかけている」ことを、レインは読み取った。ヴァルターはグレンの面子のために引き受けたが、突出した才能がないと分かれば、本腰を入れるつもりはないのだろう。


 ──ここで終わらせるわけにはいかない。


 前世の交渉術が、反射的に動いた。相手の関心を引くには、相手が想定していないものを提示する。


 「ヴァルター先生」


 レインは口を開いた。


 「一つ、質問してもいいですか」


 老人が目を向ける。「なんじゃ」


 「この球体の検査は、何を測っているんですか」


 ヴァルターの眉が動いた。わずかに。


 「脈路の適性と容量じゃ。今説明した通り──」


 「それは結果の話です。僕が聞いているのは、仕組みの方です」


 場の空気が変わった。


 グレンが目を瞬いた。エレナの手が、膝の上で小さく握られた。


 レインは続けた。


 「球体が光るのは、僕の体内の脈路を通った星脈が球体に流れ込むからだと推測しています。光の色が属性を示し、光の量が脈路の容量を示す。──でも、この検査で測れるのは脈路の『断面積』ですよね。星脈への感応速度や、変換効率は測れていない」


 沈黙が落ちた。


 ヴァルターは茶碗を持ったまま、動きを止めていた。細い目が──初めて、しっかりと開いた。その奥にある瞳は、予想していたよりもずっと鋭かった。灰色の、深い色をした瞳。


 「……ほう」


 老人の声から、飄々とした響きが消えていた。


 「面白い質問をする子供だ」


 ヴァルターは茶碗を置いた。背筋が──わずかに伸びた。猫背がほんの少し解け、座っている人間の輪郭が変わった。


 「お前の言う通りじゃ。この検査で測れるのは脈路の物理的な容量だけ。感応速度──星脈に同調する速さ──は、この球体では測れん。変換効率もまた然り。そしてな──」


 ヴァルターがレインを見据えた。


 「星脈術の実力を決めるのは、脈路の太さだけではない。むしろ、太さ以外の要素の方が遥かに重要じゃ。──それを、五歳の子供が指摘したわけか」


 レインは黙って頷いた。言い過ぎた。しかし、もう引き返せない。


 ヴァルターが立ち上がった。老人の動きとは思えない滑らかさで、レインの前に歩み寄り、しゃがみ込んだ。目線を合わせる。


 近くで見ると、細い目の奥の灰色の瞳が、笑っていた。しかし今度の笑いは、門番に見せた愛想笑いとは違う。獲物を見つけた猟師の──いや、面白い問題に出会った学者の、目だった。


 「グレン殿」


 ヴァルターは立ち上がりながら、背後のグレンに言った。


 「この子、預からせてもらうぞ。存外に、面白い」


 グレンが安堵と困惑の入り混じった顔をしている。エレナは微笑んでいたが、その目はレインから離れなかった。


 ヴァルターがレインに向き直った。


 「レイン。明日から、わしの下で学んでもらう。──ただし、術を教えるのはまだ先じゃ」


 「先?」


 「術の前に、まずお前に教えることがある」


 老人が窓の外を示した。丘の向こうに広がる平原。遠くに見える山並み。雲の切れ間から降り注ぐ午後の光。


 「──世界の見方だ」


 レインは窓の外を見た。何度も見た風景だ。しかしヴァルターに促されて改めて見ると、どこか違って見えた。なぜだろう。同じ風景のはずなのに。


 背後で、ヴァルターが小さく呟いた。レインには聞こえないほどの、老人の独り言。


 「頭の出来は申し分ない。……だが、この子には何かが欠けておる」


 老人は窓の外に目を向けた。丘の上の樫の木が、風に揺れている。


 「あの目。何もかもを分析し、理解し、把握しようとする目じゃ。──しかし、見えておるのに触れようとしない。まるで、世界をガラスの向こうから眺めておる子供のようじゃの」


 独り言は、廊下を歩み去る靴音に紛れて消えた。


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