第6話「二つの月の下で」
---
四歳になった春、レインはアルヴェス家の日常を「観察する」ことに決めた。
前世の鷹司蓮は、新しいプロジェクトに着任した時、最初の一ヶ月は必ず現場の観察に充てた。いきなり改革案を出すのではなく、まず人と仕組みを知る。それが蓮のやり方だった。
転生先でも同じことをしている自分に、レインは苦笑した。結局、前世の習慣は骨の髄まで染みついている。
しかし、この「観察」がもたらしたのは、ビジネスの洞察ではなかった。
* * *
朝の食卓。
セドリックが、パンの端をちぎって頬張りながら話している。
「今日の稽古で、ブレイ先生に褒められたんだ。『構えが良くなった』って。父上、聞いた?」
グレンが頷く。「聞いた。だが、足の運びがまだ遅いと言っていたぞ」
セドリックの顔が一瞬曇る。しかしすぐに顎を上げた。「明日はもっと速くする」
エレナが微笑んでセドリックの皿にチーズを載せる。「たくさん食べなさいね。強くなるには体が資本よ」
何気ない朝のやり取り。前世のレインなら──いや、鷹司蓮なら、このやり取りの「意味」を問うただろう。剣術の上達速度、教師の評価基準、効率的な訓練メニュー。そういう分析的な視点で切り刻んでいたはずだ。
しかし今のレインは、別のことを見ていた。
セドリックが父に褒められたくて目を輝かせていること。グレンが指摘の後にわずかに口元を緩めていること。エレナがチーズを載せる手の動きに、息子への誇りが滲んでいること。
──以前より、人として大切なものが、ずっと多くのものが見えている。そんな気がする。
しかし、見えることと理解することは違う。レインはこの家族の感情の動きを「観察」することはできた。だが、それが自分にとって何を意味するのかは、まだ分からなかった。
* * *
午後。セドリックの剣術の稽古を、庭の木陰から眺めた。
教官はブレイという壮年の男で、アルヴェス家に長く仕える剣士だった。セドリックは木剣を握り、基本の型を繰り返している。六歳。まだ剣は体に馴染んでいないが、構える姿には兄なりの真剣さがあった。
「腰が浮いている。重心を落とせ」
ブレイの指示が飛ぶ。セドリックが歯を食いしばって腰を沈める。汗が顎から落ちる。
レインは木陰で膝を抱え、それを見ていた。
前世の自分は、こういう場面をどう見ただろうか。「非効率だ」と思っただろう。剣術の基本型の反復練習。同じ動作を百回繰り返す。データ分析もフィードバック設計もない旧態依然としたトレーニング。
しかし──セドリックの顔に浮かんでいるのは、苦痛ではなかった。苦しいはずなのに、その目は生き生きとしていた。強くなりたい。父に認められたい。弟を守れる兄になりたい。言葉にはしないが、そうした想いが、汗だくの六歳児の体から滲み出ている。
効率では測れないものが、ここにはある。
それを「非効率」と切り捨てるのは簡単だ。前世の蓮なら一秒でそうした。しかし今のレインには、切り捨てていいのか分からなかった。分からない、ということ自体が──前世にはなかった感覚だった。
* * *
夕刻。
エレナが、レインの手を引いて屋敷の裏手の丘を登った。
アルヴェス領の東にある、なだらかな丘。頂上には一本の樫の木が立っていて、その下から領地全体が見渡せる。麦畑が夕日に染まって金色に輝いている。遠くに小川の銀色の線。その向こうに、どこまでも続く平原と、低い山並みの影。
空が燃えていた。
赤と橙と紫が溶け合い、雲の縁が金に輝く。この世界の夕焼けは、地球のそれとは色が違った。空気に含まれる何か──星脈の影響かもしれない──のせいで、赤の中にかすかに青い光が混じる。現実離れした美しさだった。
エレナが、樫の木の根元に腰を下ろした。レインをその隣に座らせ、夕焼けを眺める。
「ここから見る夕焼けが、お母さんは一番好きよ」
風が吹いた。エレナの銀の髪が揺れる。夕日の中で、その髪が淡い金色に見えた。
「お父さんにね、初めてここに連れてきてもらったの。まだ結婚する前よ。不器用な人だから、何も言わないで、ただ二人で並んで座っていたわ」
エレナが笑う。懐かしそうに、少しだけ照れくさそうに。
「でも、それが良かったの。何も言わなくても、一緒にいるだけで。──ここの夕焼けを見ていると、そういう気持ちになれるの」
レインは黙って聞いていた。
「いつか、あなたの大切な人にも見せてあげてね。この夕焼けを」
大切な人。
その言葉が、胸の中で反響した。
──大切な人。前の人生では、そんなものは作れなかった。
いや。作れなかったのではない。作らなかったのだ。美咲は大切にされたかっただろう。翔太は父親に大切にされたかっただろう。二人とも、最初から俺の「大切な人」だったはずだ。俺がそれを選ばなかっただけだ。
「……お母さん」
「なあに?」
「僕にも、できるかな」
言葉にしてから、自分でも驚いた。三歳児──いや、四十七年を生きた男が、母親にそんなことを訊いている。
エレナは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「できるわよ。レインなら」
夕焼けが、ゆっくりと暮れていく。空の赤が紫に変わり、最初の星が一つ、瞬き始めた。
* * *
夜。
家族が寝静まった後、レインは屋敷の書庫に忍び込んだ。
燭台の薄い光を頼りに、棚から本を引き抜く。子供向けの入門書は読み終えた。今夜の目当ては、もう少し踏み込んだ書物だ。
『ノルディス概史──大崩壊より現代まで』。分厚い革装丁の本で、埃を被っていた。おそらく長い間、誰も開いていない。
頁を繰る。前世の速読の技術が、この世界の文字にも応用できることは確認済みだ。
情報が流れ込んでくる。
星暦八一二年。
「大崩壊」。古代文明を滅ぼした原因不明の大災害。星脈が大規模に乱れ、大陸各地に「死域」が生まれた。文明は断絶し、数百年の暗黒時代が続いた。
現在は星暦一五二三年。
大崩壊から七百年以上が経過し、文明は再建されている。しかし古代文明の技術は大部分が失われたままだ。
五大国。
央域を治める自国ファルネーゼ。北の鉱山地帯を握るカルドゥス鉄盟。南の森を抱くヴェルデ諸部族連邦。西の海を制するソレイユ海洋共和国。そして東の荒野に孤立するアリダ守護領。
五つの国が大陸を分かち、資源と星脈を巡って互いを牽制し合っている。
──前世の中東情勢と、構図が似ている。
レインの脳が、自動的に動き始めた。各国の地理的な制約、資源の偏在、大崩壊という歴史的トラウマが政策に与える影響。
面白い。純粋に、知的好奇心が刺激されていた。この世界の構造は複雑だ。しかし複雑であればあるほど、分析のしがいがある。前世で感じたことのない──いや、新入社員の頃に感じた、あの原初的な「面白さ」に近いものが、胸の底で疼いている。
しかし、と本から顔を上げた。
窓の外を見る。二つの月が出ていた。大きな青白い月と、小さな赤みがかった月。
五大国の均衡は脆い。歴史書の記述から読み取れるのは、四十年前の「西方大戦」以降、表面的な平和が保たれているにすぎないという事実だ。アリダの孤立と不満。ファルネーゼ内部の貴族間抗争。ヴェルデとの森林開発を巡る対立。どこから火がついてもおかしくない。
ふと、数日前の光景が蘇った。グレンが執務室で、見慣れない紋章の封書を読んでいた。読み終えた後、父は珍しく眉間に深い皺を刻み、暖炉の火に封書を投げ入れた。炎が紋章を舐め、紙が黒く縮んで灰になった。
何が書いてあったのかは分からない。しかし、父があの表情をするのを見たのは初めてだった。
この世界は──前の世界より遥かに不安定だ。
本を閉じた。燭台の炎が揺れている。
しかし、とレインは思った。
今日の夕焼けを思い出す。エレナの横顔。セドリックの汗だくの笑顔。グレンの不器用な口元の緩み。四人で囲んだ朝の食卓。
この世界は──前の世界より、温かい。
月明かりが窓から差し込み、書庫の床に二つの影を落としていた。二つの月。二つの人生。かつての四十七年と、これからの時間。
燭台を吹き消し、暗くなった書庫を後にする。自室に戻る廊下の窓から、丘の上の樫の木のシルエットが見えた。エレナと一緒に夕焼けを見た、あの丘。
翌年、アルヴェス家に一人の老人が訪れる。
その時はまだ知らなかった。あの偏屈な老人が、レインの人生を変える教師になることを。
---




