第17話「裏の手」
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二回戦の前夜、異変は始まった。
朝礼の時間、何人かの貴族の子弟がリュカを避けるようになっていた。話しかけられても返答が遅く、視線を合わせない。まるで何か危険なものを見るように。
昼食時にはそれが明確になった。
「よ、何かあったのか」
リュカが声をかけても、普段なら一緒に飯を食べるはずの上級生たちが、席を立ってどこかへ行ってしまった。リュカの声は段々と弱くなる。
「何も言わずに」と呟くリュカ。
その夜、レインは情報を集めた。
星脈コースの二年生に訊くと、答えが返ってきた。「リュカ・シモン? あいつ、ソレイユ出身じゃん。漁村の息子。そんなやつがここにいるとか、ありえね。なんで学院に来てんだ。貴族との身分の違いを理解できてないんじゃねえ」
言葉は簡潔だが、意図は明確だ。
身分の低さを露骨に非難する。一度そうした風説が流れれば、貴族の子弟たちは本能的にそれに従う。権力の集団から外れることは、自分たちの地位を失うことになるからだ。
ハルヴェス家の手口だ。
レインはマルキスのことを思った。あの男は直接的な手段よりも、こうした間接的な支配を好む。雰囲気を操り、自分の手を汚さず、敵を追い詰める。母さんを殺したのも、こうした手法だ。政治工作を。周囲の人間を動かすことで。
「くそ」
ノエルが呟いた。
翌日、練習時にそれはさらに明確になった。四人が中庭で準備をしていると、数人の貴族の子弟が近づいてきた。先頭はマルクスの部下だと思われる上級生だ。その顔には、嘲笑が浮かんでいた。
「おい、リュカ」
その上級生が呼びかけた。声には毒がある。「お前、本当にこのチームでいいのか。完全に足手まといじゃん。平民がどうしてここにいるの。学院の品位が下がるぜ」
「何言ってんだ。俺は吸収特化型だ。足手まといじゃねえ」
リュカは反論したが、その声は弱かった。希望ではなく、確認のような。
「身分が足手まといなんだよ。バレンス家のお嬢さんや、アルヴェス家の坊ちゃんと一緒にいて、お前は恥ずかしくないのか。親のことも恥ずかしくないのか。貴族が平民と同じチームに入るとか、家族を騙すことと同じだ」
その言葉が、リュカに直撃した。
彼の顔から血の気が引いた。
ノエルが動きかけたが、レインが首を振った。ここで動いては、マルクスの思うつぼだ。
その夜、レインはリュカの部屋を訪ねた。
「ノックしていい」
返事がない。だが、中から声が聞こえた。「入れ」
リュカは窓から外を見ていた。顔は見えなかったが、その背中は——縮こまっていた。
「俺、邪魔者なんだな」
そう呟いた。それは事実ではなく、心からの問いかけだ。
「違う」
レインは言った。
「お前が邪魔になっているのではなく、マルクスがそう見させている。雰囲気を操り、周囲を支配することで。こういう策略は本来、学院の外の政治でしか見ないが、ハルヴェス家はここまで浸透している」
「でも、事実は事実じゃん。俺は平民だ。アリシアは貴族。ノエルは鍛冶屋の息子だが、腕は一流。親父も有名。俺は?」
「お前の吸収能力は S 級だ」
レインは靠り壁に身を寄せた。
「それは事実だ。だが今、お前がそれを発揮できていないのは、周囲の雰囲気に押し潰されているからだ。本当の価値を見せられていない。それはお前の責任ではなく、周囲の罪だ」
「どうしろっていうんだ。雰囲気なんて、どうしようもねえ」
「わかる」
レインが言った。「だから——」
彼は言葉を選んだ。自分が何を言うべきか、どう言うべきか。
「俺たちは、お前を見ている。お前が平民だからじゃなく、お前が俺たちのチームの一部だから。お前の吸収能力が必要だから。それはくだらない雰囲気より、重い。それは断定だ」
リュカは振り返った。
目が赤い。泣いていたのだ。その涙は、恐怖と安堵が混ざったものだった。
「本当か」
「本当だ」
「知ってか?」
リュカが言った。「うれしい。それ聞きたかった。誰かに」
言葉は短かったが、その重さはある。
「明日の試合で、見せてやる。俺たちが何者か。俺がなぜここにいるのか」
翌日の朝、リュカは戻っていた。
あの快活さで、あの笑顔で。
だが、レインはそれが演技ではなく、本当の回復であることを知っていた。
なぜなら、彼自身も同じだからだ。
母さんが言っていたその言葉が、今、実感として理解できていた。
誰かに見られることの大切さを。認められることの意味を。それがない人生は、どれほど虚しいかを。
試合までの時間、レインはマルクスの動きを追っていた。
掲示板の前で。図書室の前で。食堂の隅で。
ハルヴェス家の息子は、何もしなかった。だが、何かをしていた。視線で。沈黙で。微かな笑いで。周囲の雰囲気を操っていた。
これは、星脈術ではない。魔法ではない。
だが、等しく危険だ。いや、それ以上に。
物理的な攻撃は防ぐことができる。だが、雰囲気の支配は。心の支配は。どうすればいい。
レインは、その答えを必死に探していた。
だが、アリシアの言葉を思い出した。
「敵を尊重しながら、自分たちの力を見せる」
つまり、完璧さを手放し、人間らしさを見せることだ。
完璧な計算ではなく、完璧な失敗。それが、唯一の勝利なのだろう。
試合当日、レインは観客席の中にマルクスの顔を見つけた。その顔には、軽蔑と期待が混在していた。軽蔑は自分たちを見下すものだ。だが、期待は何か。
おそらく、自分たちが失敗することを期待しているのだろう。完璧な計画を立てた主導者が、その計画通りに失敗することを。
だが、レインはもう完璧ではない。失敗を計画することはできないし、計画通りに失敗することもできない。
ただ、今ここで、自分たちが何者かを見せるだけだ。
試合が始まった。相手は選抜チーム。その力は本物だ。だが、レインたちは怖れない。失敗することを既に受け入れたから。
その試合の中で、リュカは全力を尽くした。ノエルは自分のできることを精一杯やった。アリシアは、彼女の本当の姿を見せた。
完璧さはなく、ただ人間らしい戦い。
その戦いの中で、観客たちは何かを感じたのだろう。完璧さではなく、人間の生き様を。
敗北の瞬間、リュカは涙を流していた。だが、その涙は敗北の涙ではなく、全力を尽くした者の涙だ。
ノエルは何も言わず、仲間たちを見た。その視線は、敗北を認めながらも、何か誇らしいものがある。
アリシアは笑っていた。その笑顔に、完璧さはなく、ただ人間らしさがあった。
そして、レインは——敵と握手を交わした。その握手の中に、尊重がある。敵を駒と見なさず、同じ戦い手として認める握手。
「よく戦った」
敵の大将がそう言った。その言葉に、レインは頷いた。
「ありがとう。お前たちの力は本物だ」
その瞬間、完璧さという檻は、完全に砕け散ったのだ。
マルクスは観客席で立ち上がった。その顔には、軽蔑と驚愕が混在していた。敵を駒と見なす戦い方が、敵と握手を交わす戦い方に敗北したことに。
だが、それは敗北ではない。それは進化だ。成長だ。
リュカはレインに抱きついた。その抱きつきの中に、全ての感謝がある。
「ありがとな。俺のために」
「俺たちのチームだ。お前が何かあれば、俺たちも何かある」
その言葉が、全てを物語っていた。
敗北しても、友人がいる。失敗しても、信頼がある。完璧さがなくても、人間らしさがある。
それが、これから彼らが歩む道なのだろう。
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