第16話「アリシアの仮面」
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二回戦までに三日間の余裕があった。
秋が深まり、学院の木々が赤や黄に色づいている。朝の空気は冷たく、息が白くなる日も出てきた。
その間、レインはノエルと共に鍛冶場を訪れ、アリシアと共に図書室で過ごした。だが、彼女の様子は前とは違っていた。笑顔も返事も、完璧だ。だが、その奥底に——何かが欠けている。一つの光が。
放課後、図書室の一角で、レインはアリシアに訊いた。
「なぜ感情を隠す」
アリシアは本から目を上げた。「隠してなどいません」
「隠している。理由は何だ」
彼女は本を閉じた。ゆっくりと。その動作さえも計算されたものに見える。
「あなたこそ、レイン。なぜ感情を表に出さないのですか」
問い返された。
「最も効率的だからだ」
「それは嘘です」
アリシアの声が張った。初めて、彼女から本当の感情が剥き出しになった。
「あなたは感情を表に出さないのではなく、表に出すことを怖れているのです。失敗を怖れ、拒絶を怖れ、自分を曝け出すことを怖れているのです。だから、論理と計算の中に、自分を閉じ込めるのです」
レインは反論しかけたが、言葉が出なかった。
その代わりに、アリシアは話し続けた。
「私はバレンス家の次女です。姉は身分相応の華麗さを備えている。聡敏さも、社交性も。ですから、私は『完璧』でなければならなかった。十年間です」
彼女の声は、初めてその礼儀的な完璧さを脱いでいた。振るえていた。
「十年間、一度たりとも失敗は許されません。成績も、作法も、そして——感情さえも、です。常に微笑み、常に正解を言い、常に完璧でなければならない」
アリシアは自分の手を見つめた。その手は、まるで誰かのものではないかのように。
「もし完璧でなくなれば、私は何の価値もない。親からも、周囲からも、期待されなくなる。つまり——」
「つまり、何もない」
レインが続けた。
「お前がお前である理由が、完璧さだけになる。失敗すれば、価値がない。そう信じているから」
「その通りです」
アリシアは目を上げた。その瞳には、雨が降っていた。
「だから、私は完璧でした。常に。逃げ場なく。完璧な笑顔。完璧な返事。完璧な成績。完璧な作法」
レインは、その言葉の重さを感じた。
前世の蓮は、常に成功を求めた。失敗は許されない。結果を出さねば価値がない。そう、ずっと信じていた。そしてその信念こそが、彼を——今のレインをこうさせたのだ。
孤立の中へ。
「母さんが言っていた」
レインは静かに言った。「完璧さばかりを求める人間は、いずれ誰もが去っていく、と。誰もそばに近づこうとしない。何故なら、完璧な人間には欠点がないから。欠点がなければ、手をつなぐ理由がない」
アリシアは泣いていた。完璧な少女が、完璧さを脱いで、泣いていた。
「……私は、成果ではなく、私自身を見てほしいのです」
その声は小さく、震えていた。完璧な少女の仮面の裏から漏れた、本音。
「完璧でなくても、ここにいていいと——そう思いたいのです」
「わかる」
レインは、彼女の手を取った。
「お前と俺は、鏡だ。同じものを見ていて、同じものに怯えている。完璧さという名の檻に、自分たちを閉じ込めている」
アリシアは頷いた。涙がこぼれていた。
「では、一緒に——」
「一緒に何をする」
「完璧でない自分を、見せてみませんか。星杯戦で」
レインは沈黙した。
それは、敗北する可能性を受け入れることだ。
それは、自分たちが失敗する可能性を認めることだ。
それは、自分が傷つく可能性を認めることだ。
だが——。
「いい」
レインは答えた。「次の戦いから、完璧さをやめる。お前たちと一緒に、失敗することを受け入れる。不完全さを受け入れる」
アリシアは泣きながら笑った。その笑顔は、初めて完璧ではなく、本当だった。
「ありがとうございます」
「感謝は不要だ。これは——」
「契約ですね」
彼女が言った。「不完全な人間たちの、新たな始まりの契約です」
その言葉が、レインの心に静かに降りた。
二人は図書室で、夜が訪れるまで座り続けていた。何も言わず。完璧さを脱いで。一人の孤立した少年と、一人の仮面を脱いだ少女として。
その時間の中で、レインは初めて理解した。
感情とは、効率とは相反する。だが、それでもなお、必要なものがある。人間であるためには。一人の人間として立ち続けるためには。
アリシアの泣く姿は、彼女が人間であることの証だ。完璧さを捨てたことの証だ。
そして、自分もまた、完璧さを捨てるべき時が来ているのだろう。
二回戦の朝、レインはアリシアに訊いた。「お前は明日、何をする」
「自分たちのできることを、精一杯やります」
その返答に、躊躇はなかった。完璧さはなく、ただ真摯だ。
「それでいい。では、俺たちは一緒に戦おう。完璧さを目指さずに」
アリシアは頷いた。その頷きの中に、決意がある。
一度、人間になると決めたなら、もう戻ることはない。完璧さという檻に戻ることはない。
たとえ、敗北することになっても。たとえ、失敗することになっても。
その道を選んだのだ。
レインも、同じだ。母さんの言葉を理解することは、完璧さを捨てることだった。孤立を捨てることだった。
二人は、その時点で既に、敗北を受け入れていた。だが、それでもなお、戦うことを選んだ。
なぜなら——人間であることの方が、勝利よりも大切だと、ようやく理解したから。
二回戦の朝、二人は同じ決意を抱いていた。
敗北することもあるだろう。失敗することもあるだろう。だが、それでいい。完璧でない自分たちを、世界に見せる。そして、その中で初めて、人間としての価値を見つけるのだ。
アリシアは言った。「では、私たちは完全なチームではなく、人間のチームになるのですね」
「そうだ」
「素敵です」
その言葉が、全てを表していた。
完璧さから解放された喜び。人間らしさを手に入れた安心感。そして、友人たちと共に立つ勇気。
レインは、その時間の中で、初めて自分が何であるかを理解した。一人の孤立した天才ではなく、四人の中の一人。誰かに見守られ、誰かを見守る存在。
それが、人間なのだろう。
試合へと向かう廊下で、リュカが歌っていた。何か知らない曲を。ノエルが「やかましい」と言いながら、その後ろについていった。アリシアは「素敵ですね」と笑っていた。
その笑顔こそが、全てを物語っていた。
図書室に戻ったとき、アリシアはレインに言った。
「ありがとうございます。本当に」
「何を」
「見てくれたから。私が人間であることに気づいてくれたから」
その言葉が、レインの心を揺らした。
完璧さを求める人間は、孤立する。だが、その孤立の中には、もう一人の孤立した人間がいるかもしれない。同じ檻の中で、同じように完璧さに苦しむ者が。
二人は、その検路の中で、初めて手をつなぐことができた。
そして、その手の温かさを知ったとき、完璧さという檻の扉は、もう開くことはないのだった。
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