第5話「灰色の髪の子供」
---
記憶が戻ってから、半年が過ぎた。
レインは自分に規律を課していた。目立ちすぎるな。賢すぎるな。三歳児として不自然でない範囲で、少しだけ「聡明な子供」を演じろ。
前世の経験が教えている。異常な存在は排除される。企業であれ社会であれ、突出した個体は周囲の不安を煽る。まして中世に近い封建社会で、幼児が大人並みの知性を見せれば、何が起きるか分からない。悪魔憑きと呼ばれるか、政治的に利用されるか。いずれにせよ、良い結果にはならない。
だから制御する。知識は小出しにし、言動は年齢相応の範囲に収める。
──そのはずだった。
問題は、制御しきれない瞬間があるということだ。
* * *
秋の終わり。収穫期を迎えたアルヴェス領は、例年にない不作に見舞われていた。
レインがそれを知ったのは、父グレンの執務室の前を通りかかった時だった。扉が開いていて、中から声が漏れていた。
「今年の麦は、例年の六割にも届きません」
低い声。領地の農務を取りまとめる老人──名前は確か、トマスと言った。白髪の小柄な男で、いつも背を丸めて歩いている。その声が、今日は一段と重かった。
「南の畑は特にひどい。用水路の水量が年々減っていて、このままでは来年はさらに落ちるでしょう」
グレンの声が返る。
「水源は変わっていないはずだが」
「はい。しかし土地が水を吸い込んでいるようで……。星脈の流れが変わったのかもしれませんが、我々にはその辺りの学は──」
トマスが言い淀む。グレンも黙った。
レインは廊下に立ったまま、二人の会話を聞いていた。聞くつもりはなかった。しかし耳に入った瞬間、頭が動き始めていた。
用水路の水量低下。水源は不変。しかし末端への到達量が減少している。
考えられる原因。水路の途中で漏水が起きている。あるいは、土壌の保水力が変化して地中への浸透量が増えている。いずれにしても──。
「水路の分岐点を確認すれば、分かると思います」
声が出ていた。
自分でも驚いた。口が、思考より先に動いていた。
執務室の中で、二つの視線がこちらに向いた。トマスが目を丸くしている。グレンの顔は──読めなかった。
「分岐点の先に、水が溜まっている場所があるはずです。そこで堰を作って流量を調整すれば、南の畑にも水が回る……」
言いながら、レインは自分の失態に気づいていた。止まれ。これは三歳児が言う言葉ではない。用水路の分岐、堰の設計、流量の調整──前世の商社時代に東南アジアの農業開発プロジェクトで学んだ知識だ。灌漑の基礎。しかし、この世界の三歳児にとっては。
言葉が途切れた。
沈黙が落ちた。
トマスが口をぽかんと開けている。グレンは椅子から腰を浮かしかけたまま、レインを見つめていた。
「……レイン」
父の声は、静かだった。怒っているのではない。しかし穏やかでもなかった。底の見えない、探るような声だった。
「お前、誰にそれを教わった?」
咄嗟に答えを組み立てる。前世の交渉術が働く。嘘は最小限に。完全な虚偽より、部分的な真実の方が疑われにくい。
「本で……読みました。書庫にあった、農事の本に」
グレンの目が細まった。
アルヴェス家の書庫に農事に関する書物があることは事実だ。しかし灌漑の技術的な詳細が子供向けに書かれた本があるとは思えない。グレンもそれは分かっているだろう。
「本に」
「はい」
父と息子の間に、薄い緊張が走った。トマスが居心地悪そうに視線を泳がせている。
グレンが、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
それ以上は追及しなかった。しかし、レインの背に向けられた視線には、温かさとは異なる何かが混じっていた。不安。畏れ。あるいは──戸惑い。
我が子を見る目ではなかった。得体の知れないものを見る目だった。
レインは背を向けたまま、唇を噛んだ。
──失策だ。
前世なら、こんな失敗はしない。情報を出すタイミングと量を、常にコントロールしていた。それが商社マンの基本だ。なぜ今、制御を失った。
理由は分かっていた。あの農夫トマスの声に、切迫した疲労が滲んでいたからだ。「来年はさらに落ちる」──その言葉の先にあるのは、領民の飢えだ。解決策を知っている自分が黙っていることに、耐えられなかった。
しかし、その「耐えられなさ」はどこから来ている?
前世の鷹司蓮は、自分の部署以外の問題に首を突っ込むことはなかった。管轄外の案件は管轄の人間に任せるのが合理的だと考えていた。なぜ今、領民の不作に心が動く。
──役に立てる。ここなら、俺の知識が役に立つ。
その衝動の正体に、レインは気づいていなかった。「役に立つこと」が自分の存在意義だという、前世から引きずった確信。鷹司蓮にとって、人の役に立てない自分には価値がなかった。それは会社で評価される有能さであって、人間としての価値ではないのだが──その区別が、まだつかない。
* * *
夜。
レインが自室で本を読んでいると、扉を叩く音がした。
エレナだった。
寝巻き姿の母が、小さな燭台を手に入ってきた。炎の光が銀の髪に揺れる。いつもの穏やかな微笑みだが、目の奥に少しだけ真剣な色がある。
「まだ起きていたの。本の虫さん」
エレナがベッドの端に腰を下ろした。レインは本を閉じ、母を見上げた。
「お父さんの部屋での話、聞いたわ」
心臓が一つ、跳ねた。
「レイン。お父さんを驚かせちゃったわね」
叱責を覚悟した。前世の感覚だ。ミスをしたら叱られる。成果を出さなければ評価されない。それが鷹司蓮の世界のルールだった。
しかしエレナは、笑った。
「でもね、お母さんは嬉しかったわ」
「……嬉しい?」
「あなたが、誰かの役に立とうとしたこと」
レインは黙った。
「トマスさんたちが困っていたのを見て、何かできないかって思ったんでしょう? その気持ちが、お母さんは嬉しいの」
違う、と言いかけた。違う。俺は気持ちで動いたんじゃない。知識があったから、合理的に判断しただけだ。困っている人を見て心が動いたのではなく、解決可能な問題を放置する非効率に耐えられなかっただけだ。
──本当にそうか?
エレナの手が、レインの頭に置かれた。
「あなたが賢い子だって、お母さんは知っているわ。でもね、賢いだけじゃなくて、優しい子だって──お母さんは信じてる」
優しい。
その言葉が、胸の奥に沈んでいった。鷹司蓮は、一度も「優しい」と言われたことがなかった。「切れ者」「合理的」「冷徹」──それが四十七年間に与えられた形容詞のすべてだった。
「……お母さん」
「なあに?」
「僕は、優しくなんかない」
声が小さくなった。三歳児の声帯が、感情を乗せきれずに震えている。
エレナは何も言わなかった。ただ手を頭の上に置いたまま、静かに髪を梳いた。
否定しなかった。肯定もしなかった。ただ、そこにいた。
レインは思った。この人は、俺が「何ができるか」ではなく、「何をしようとしたか」を見ている。成果ではなく動機を。結果ではなく意志を。
前世には、なかった視線だ。
しかしその視線が何を意味するのか、まだ正しくは分からなかった。「役に立つから価値がある」──前世の方程式は、まだレインの中で健在だった。エレナが見ているものと、レインが見ているものは、同じ景色の中で微かにずれている。
そのずれに気づくまでに、レインにはまだ長い時間が必要だった。
* * *
翌日。
グレンは朝食の席で普段通りに振る舞っていた。レインに声をかけ、セドリックの剣術の話を聞き、エレナの淹れた茶を飲んだ。しかしレインは気づいていた。父の視線が、ほんの一瞬だけ長くこちらに留まる瞬間があることに。
グレンは不器用な男だ。感情を表に出さない。しかし隠すのも上手くはない。目の奥に浮かぶ戸惑いを、商社時代に何百人もの人間を観察してきたレインが見逃すはずがなかった。
この子は──普通ではない。
グレンがそう思い始めていることを、レインは確信した。
* * *
その夜。
自室に向かう廊下で、両親の寝室の扉の向こうから声が漏れた。
グレンの低い声。「……エレナ。あの子のことで、一つ相談がある」
エレナの返事は聞き取れなかった。しかし、グレンの次の言葉ははっきりと耳に届いた。
「ヴァルター・クロイツ。十五年前に宮廷を離れた老人だが──この近くに隠棲しているらしい。あの子を、見てもらおうと思う」
足音を殺して、レインはその場を離れた。
ヴァルター・クロイツ。元宮廷の人間。それが何者なのか、まだ分からない。しかし、「普通ではない」息子に対して、父が辺境の元宮廷人を頼ろうとしている──その判断の意味するところは、三歳児の外見を持つ鷹司蓮には十分に読み取れた。
──そうか。動き始めたか。
ベッドに入り、天井を見つめた。手のひらを開く。あの夜から時々感じる、指先の微かな熱。その熱は、魔力の流れとも異なる。まるで大地の奥底から、はるか昔に「植えられた」何かが、遠く静かに目覚めようとしているような感覚。眠りの中にあった何かが、レインという器を認識し始めているような。
それを「見てもらう」人間が来るのなら──少なくとも、一つだけ確かなことがある。
この世界には、俺がまだ知らないルールがある。
---




