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第10話「壁の向こう側」

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 入学から一ヶ月が過ぎた。


 レインの学院生活は、三つの領域で形を成しつつあった。座学では上位を維持し、ゼノン教授との古代文献研究が夜ごとに進む。実技ではリュカとの合同練習の成果で構築速度が改善し始めている。


 しかし、もう一つの領域——人間関係が、壁に突き当たっていた。


 きっかけは些細なことだった。


 昼食の食堂で、甲組の生徒たちが雑談をしていた。故郷の話、好きな食べ物の話、教官の物真似。レインはリュカの隣で黙って食事をしていた。テーブルの周囲には、他の生徒たちの笑い声が絶えない。その喧騒の中で、レインだけが孤立していた。いや、孤立しているのではなく、別の世界にいるような感覚。その世界と今の世界の間に、見えない壁があるような——。


 「なあアルヴェス、お前はどう思う?」


 ロートリッヒ家の三男——フェリクスという生徒が話を振ってきた。話題は「イレーネ教官の好みのタイプは誰か」という、どうでもいい内容だった。レインは一瞬、その質問の「意図」を探した。社交的なつながりを作るための話題振り。親睦を深めるための信号。分析の対象として。


 レインは一瞬、何と答えるべきか考えた。この質問に「正解」はない。情報収集の対象でもない。何の利益も生まない会話。実利的には完全に無駄だ。


 「……分からない」


 「分からないって、想像でいいんだよ。お前、頭いいんだからさ、推理してみろよ」


 フェリクスに悪意はなかった。純粋に会話に誘っている。しかしレインは——推理しようとしてしまう。イレーネ教官の言動パターンから好みを推測する。実利主義的な教官だから、能力の高い男を好むだろうか。しかし元探索者という経歴を考えると、自由を重んじる傾向が。さらに教官服の着こなしから見る美的価値観は。「最適な選択」とは何なのか——。


 「お前、本気で考えてるだろ」


 フェリクスが呆れたように笑った。周囲にも笑いが広がる。嘲笑ではない。しかし、その笑いの質をレインは感じた。レインが自分たちとは違う世界に住んでいることへの、驚きと、微かな訝しさ。


 ——場の空気からずれていることを、レインは自覚した。


 この種の会話は、分析の対象ではない。感覚の共有だ。面白いから話す。楽しいから笑う。利益も目的もない。ただの——人と人の間に流れる時間。


 前世の鷹司蓮にも、この壁はあった。社内の飲み会で、部下たちが馬鹿話をしている時、蓮は一人だけ浮いていた。「面白い話」の何が面白いのか、分からなかった。分かろうとしなかった。無駄だと思っていた。


 結果——孤立した。


 食堂を出た後、リュカが隣を歩きながら言った。


 「レイン。お前さ、もっと肩の力抜けよ。俺と話す時くらい、分析すんの止めたら?」


 「分析を止める——」


 「そう。全部の会話に意味がなきゃいけないと思ってるだろ。でもさ、くだらない話をするのが楽しいんだよ。中身がないから楽しいんだ。分かるか?」


 分からなかった。しかし——分からないということが分かる。それだけでも、前世よりは進歩している。


 「……努力する」


 「努力って。笑っちまうな」


 リュカが笑った。その笑いには——温かさがあった。レインの不器用さを、責めるのではなく、面白がっている。


 午後の実技の後、アリシアと廊下ですれ違った。


 「アルヴェスさん」


 「ヴァレンスさん」


 「今度の古代語の課題なのですが、第二期の書記体系における動詞活用の変遷について——」


 アリシアとの会話は、常に学術的だった。それがレインには楽だった。目的があり、情報の交換があり、結論がある。「意味のある会話」。


 しかし——アリシアもまた、「意味のない会話」ができない人間なのかもしれない。


 「ヴァレンスさん。一つ聞いていいか」


 「はい」


 「君は——友達はいるか」


 アリシアの足が止まった。青灰色の瞳が、わずかに揺れた。


 「……学友はいます」


 「学友ではなく、友達だ」


 沈黙が落ちた。アリシアは前を向いたまま、しばらく言葉を探していた。


 「私は——友達という概念を、よく理解していないかもしれません。ヴァレンス家の長女として、人間関係は常に家の利害と紐づいていました。純粋な友人関係というものを、経験したことがない」


 レインの胸に、痛みが走った。自分と似ている。あまりにも似ている。


 前世の蓮も——友達はいなかった。同僚、部下、取引先。すべてが利害関係の中にいた。純粋に「一緒にいたい」と思える人間は、一人もいなかった。


 「俺も——同じだ」


 声に出した。自分でも驚くほど自然に。


 アリシアがレインを見た。その目には——安堵のようなものが浮かんでいた。同じ孤独を抱える人間に出会った時の、微かな安堵。レインは、その表情の微細な変化を読み取った。青灰色の瞳が、ほんの一瞬、柔らかくなったのだ。


 「……そうですか」


 それだけ言って、アリシアは歩き始めた。しかしその歩調は、先ほどより少しだけゆっくりだった。その歩み方が——距離を保ちながらも、レインを完全に置き去りにはしていない、という意思表示に見えた。孤独な者同士の、微かな繋がりの承認。


 夜、寮の部屋で、レインは机に向かっていた。ゼノン教授の研究ノートではなく、白紙のノートにペンを走らせている。


 書いているのは——手紙の下書きだった。セドリックへの返事。


 「兄さん。学院は広いです」


 そこで止まった。何を書けばいいか分からない。日常の報告なら書ける。しかしセドリックが聞きたいのは、そうではないだろう。「友達はできたか」と手紙に書いてあった。


 友達。リュカは自分のことを「友達」と呼んだ。ノエルは呼んでいない。アリシアも呼んでいない。しかし——。


 鎧を脱ぐこと。分析を止めること。意味のない会話を楽しむこと。それが「友達」への入口だとすれば、レインはまだ入口の前に立っているだけだ。しかし、その入口がどこにあるのかは、もう見えている。もう迷わない。


 ——しかし立っている。以前は入口の存在すら知らなかった。アリシアの話を聞く前なら、友達という概念そのものを疑問視していただろう。効率的ではない。人間関係は計算で成り立つべきだ。そう信じていた。


 今は違う。立った上で、少しずつ進む。その勇気が生まれたのだから。


 ペンを取り直した。


 「兄さん。学院は広いです。同室の奴は、やかましいですが——悪い人間ではないと思います」


 リュカが寝息を立てている。穏やかな呼吸。その音が——不思議と邪魔ではなかった。


 「母さんが聞いたら、笑うかもしれません。俺が人付き合いに苦労しているなんて」


 ペンが止まった。「母さん」と書いてしまった。手紙に母の名を出すことが——まだ胸を締めつける。しかし書けた。書けたこと自体が、変化だった。


 封をして、手紙を机の端に置いた。明日、学院の郵便に出す。


 窓の外の月を見た。月は変わらない。あの月はアルヴェス領でも見える。セドリックも同じ月を見ているはずだ。ヴァルターも。父親も。


 しかし——月を見る自分は、少しずつ変わっている。


 一ヶ月前、この月を見た時は何を感じたか。覚えていない。記憶に残っていない。それは——心ここにあらずだったからだ。体だけがここにあり、心は故郷を彷徨っていた。


 今は違う。ここに立ち、ここの月を見ている。リュカの笑顔を思い出し、ノエルの言葉を噛み締め、アリシアの静かな優雅さを感じながら。


 ——壁はまだ高い。しかし、壁の向こう側に何があるのかが、かすかに見え始めている。見えるという行為は、希望だ。そう、レインは思った。


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