第9話「図書館の夜」
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学院の大図書館は、実技棟の東に建つ四階建ての石造りの建物だった。
一階は一般閲覧室。二階は学術文献。三階は古代文献と禁帯出資料。四階は教授陣の研究室。図書館の蔵書は大陸随一と言われ、ソレイユの商会記録からカルドゥスの鍛冶技術書、ヴェルデの口伝を文字に起こした民俗誌まで、あらゆる分野を網羅している。
レインは入学初日から、自習時間のほとんどを図書館で過ごしていた。
三階の古代文献区画は、通常は教授の許可がなければ入れない。しかしゼノン教授がレインに閲覧許可証を発行してくれた。「古代語が読める学生を遠ざけるのは、学問の損失ですからね」
その日の夜、レインは三階の閲覧机で古代語の碑文の写しを広げていた。ゼノンから預かった第三期文書の続き。星脈を用いた都市基盤の設計図。
図書館は深夜だった。他に閲覧室にいるのは、奥の研究机でゼノン自身と——おそらくは誰かの研究補助者。人気は少なく、蝋燭の灯だけが白い紙を照らす。
碑文を読むには、風紋読みの感覚を目に集中させる必要がある。星脈の残響が文字の形に刻まれており、通常の視力では見えない。しかしレインの感応力なら、かすかに浮かび上がる。その作業は——瞑想に近かった。世界を排除し、古代の文献との対話に没入する。
文書は——断片的だった。ページの半分以上が損傷し、残った部分も文脈が飛んでいる。しかし読み取れる範囲で、重大な記述があった。
「星脈を地中から汲み上げ、導管を通じて各区画に配分する。配分の制御は中枢の増幅装置が担う——」
増幅装置。星脈の流れを人工的に増幅し、制御する装置。古代文明がそのような技術を持っていたことは知られているが、詳細は不明だった。
レインはペンを取り、解読結果をノートに書き写した。文字の一つ一つを慎重に。ヴァルターの書庫で培った作業手順が、体に染み込んでいる。
「遅くまでお疲れさまです」
声がして、顔を上げた。ゼノン教授が閲覧室の入口に立っていた。手に蝋燭と茶碗を持っている。
「教授。お仕事ですか」
「ええ、四階の研究室にいたんですが、三階に明かりが見えたので。——お茶、飲みますか?」
ゼノンが向かいの席に座り、レインに茶碗を差し出した。温かい。薬草茶だ。ヴァルターが飲むのと似た香り。
「ヴァルター翁もこの茶が好きでしてね。宮廷にいた頃、一緒に夜を徹して古代語の解読をしたものです。——あの頃のヴァルター翁は、まだリーナ殿を亡くして間もなく、研究に没頭していた時期でした」
ゼノンの言葉に、レインはヴァルターの姿を重ね合わせた。妻を失い、絶望に沈んだはずの老師が、研究に没頭する——それは。逃避か、救済か。あるいは両方か。
「先生の——妻を亡くした後の話は、少し聞いています」
「そうですか。ヴァルター翁が弟子に語るとは珍しい。——よほど信頼されているのですね」
ゼノンが茶を啜った。
「私がヴァルター翁から学んだことは多い。古代語の基礎も、研究への姿勢も。しかし翁が宮廷を去った後、十五年間音沙汰がなかった。——辺境で子供に術を教えていると聞いた時は、耳を疑いましたよ」
ゼノンが笑った。穏やかな笑みだった。
「さて、レイン君。今読んでいるのは?」
「第三期の行政文書です。星脈の増幅装置に関する記述がありました」
ゼノンの表情が変わった。笑みが消え、学者の目になった。
「増幅装置……。見せていただけますか」
レインのノートを覗き込み、ゼノンの目が碑文の写しと解読メモの間を行き来した。
「これは——重要な発見かもしれない。増幅装置の具体的な構造に言及した文書は、これまで見つかっていません」
「教授。増幅装置と大崩壊は、関連があるのですか」
ゼノンが椅子の背に体を預けた。天井を見上げ、しばらく考え込んだ。
「……仮説です。証明されてはいない。しかし——古代文明が星脈を大規模に利用していたことは確実です。その利用規模が、星脈の均衡を崩した可能性がある。増幅装置がその中核にあったとすれば——」
「人災、ということですか」
「公式にはそう言えません。学院の歴史教科書では大崩壊は『原因不明の天災』とされています。——しかし、原因不明であるということは、天災とも人災とも確定していないということです」
ゼノンの声には、慎重さと興奮が混在していた。研究者としての真実への渇望と、その真実が持つ危険性への認識。
「レイン君。一つ、お願いがあります」
「はい」
「この文書の解読を続けてほしい。私一人では、第三期の感応読みができない。あなたの力が必要です。——ただし」
ゼノンが声を低くした。
「この研究のことは、他の生徒には話さないでください。増幅装置の情報は——政治的に敏感なものになり得ます。古代の技術を復元しようとする勢力がいないとは限らない」
レインは頷いた。政治的な危険性は理解できる。前世の経験が教えている。価値ある情報は、武器にも毒にもなる。
「教授。もう一つ質問があります」
「なんでしょう」
「この文書は、学院のどこから出てきたのですか」
ゼノンが一瞬、沈黙した。
「……学院の地下です。この学院の建つ場所は——古代の施設の跡地なのです。創設時に地下の遺構が発見されましたが、ほとんどは封鎖されています。この文書は、封鎖区画の入口付近から回収されたものです」
学院の地下に、古代の遺構がある。
レインの頭の中で、複数の情報が繋がり始めた。星脈の地図。増幅装置。大崩壊。学院の地下。
しかし今はまだ——断片だ。断片を繋ぐには、もっと多くの情報が必要だ。
「分かりました。解読を続けます」
ゼノンが微笑んだ。「ありがとう。——そろそろ消灯時間ですよ。寮に戻りなさい」
図書館を出ると、夜の空気が冷たかった。星が見える。アルヴェス領で見る星と同じ星。しかし王都の明かりが周囲にあるため、星の数は少なく見えた。
その星々の下で、古代文明は栄えていた。星脈を操り、都市を作り、文明を築いた。そして大崩壊で——すべてが失われた。七百年の沈黙。その沈黙の中に、何が眠っているのか。
レインは星空を見上げ、古代への思いを馳せた。未来はどこにあるのか。古代が教えてくれるのか。それとも——古代の轍を踏むだけなのか。
寮に戻ると、リュカはすでに寝ていた。寝返りを打ちながら何かを呟いている。「……もうちょい右……大漁……」夢の中で釣りをしているらしい。
レインはベッドに横になり、天井を見つめた。
古代文明の謎。増幅装置。大崩壊の原因。七百年前の文字が語る真実。
知的好奇心が——燃えている。ヴァルターの書庫で古代語を読み始めた時と同じ熱。それは前世の鷹司蓮も感じたことがない感覚だ。ビジネスは利益のためのもの。知識は金銭に換算される。その論理が支配していた。
しかし今は、一人ではない。ゼノンという同志がいる。知識を欲する者同士。真実を求める者同士。その共鳴がある。
そして——同志と呼べる人間がいること自体が、前世にはなかったことだ。友達と同じように。大事な存在だ。
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