第7話「リュカの星」
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入学から二週間が経った。
レインの日々は、授業と研究と——リュカへの勉強指導で埋まっていた。
リュカの理論の成績は壊滅的だった。星脈術理論の小テストでは毎回最下位圏。古代語に至っては白紙で提出し、ゼノン教授に苦笑された。「フェルミくん、せめて名前だけは書いてください」
しかし実技は違った。
その日の実技は、吸収と変換の統合訓練だった。訓練場の床に設置された星脈供給装置から星脈を吸収し、指定された属性に変換して的に当てる。
リュカの番が来た。
装置に手を置いた瞬間、訓練場の空気が変わった。レインの風紋読みが反応する。星脈の流れが——吸い寄せられている。装置からだけではない。地面の下を流れる星脈の本流からも、微量ながらリュカの体に流れ込んでいる。
通常の吸収とは、規模が違う。
リュカの体が淡く光った。脈路が可視化されるほどの星脈量。教官たちが身構える。前回の暴走があるからだ。
「フェルミ、制御しなさい。吸収量を絞って——」
イレーネ教官の声が飛ぶ。しかしリュカは——目を閉じていた。
「大丈夫っす。今回は——感じてるから」
リュカの手が動いた。吸収した星脈を変換する。炎相——リュカの変換適性は最も低い属性だ。にもかかわらず、リュカの掌に炎が灯った。不安定で、形は歪んでいるが——灯った。
そのまま的に向けて放った。炎は的をかすめて壁に当たり、石壁を焦がした。精度は低い。しかし——前回のような暴走はなかった。
イレーネ教官が眉を上げた。「……二週間で、ここまで制御を改善したのか」
訓練後、リュカがレインの所に駆け寄ってきた。
「レイン! 見たか? 暴走しなかったぞ!」
「見ていた。制御は改善している。しかし変換精度がまだ低い。炎相ではなく、まず水相か風相で——」
「うるせーな、褒めろよ!」
リュカが笑いながらレインの背中を叩いた。痛い。漁師の息子の手は重い。
「……よくやった」
「おー! レインに褒められた! 今日はいい日だ!」
リュカが両手を突き上げて喜んでいる。その姿を、何人かの生徒が白い目で見ていた。しかしリュカは気にしない。気にしないのではなく——本当に目に入っていない。この少年の視界には、自分と仲間しか映っていないのだ。
レインは、その純粋さに釘付けになった。ソレイユの漁師の子は——何の計算も、打算もなく、自分の成長を喜んでいる。前世の同僚たちなら、成績は競争相手の相対的地位を示す指標として捉えただろう。自分が上がれば他者は下がる。その論理で常に動いていた。
しかしリュカは違う。自分が強くなることは「いい日」なのだ。ただそれだけ。他者との比較など、眼中にない。
夜、寮の部屋で理論の復習を手伝った。
リュカの理解の仕方は独特だった。教科書の文章をそのまま読むと頭に入らない。しかし、レインが「星脈を川に例えると」と言い換えると、途端に目が輝く。ソレイユで育った少年にとって、川や海は身近な存在だ。抽象的な理論より、体験に根ざした比喩の方が、脳に深く染み込むのだろう。
「なるほどな! 吸収は川の水を汲み上げることで、変換は汲んだ水を沸かしたり凍らせたりすることか!」
「……大雑把だが、方向としては間違っていない」
「じゃあ構築は、その水で形を作ることだろ? 氷の彫刻みたいに」
「かなり雑だが——まあ、そうだ」
リュカが身を乗り出した。「なあレイン。お前、教えるの上手いな。先生より分かりやすい」
「先生の説明は正確だ。君の理解の仕方が特殊なだけだ」
「それって褒めてるのか?」
「事実を述べている」
リュカが首を傾げた。それから、にやりと笑った。
「なあ、取引しようぜ」
「取引?」
「お前が理論を教えてくれる代わりに、俺が実技の感覚を教える。お前、構築が遅いのは"感じてない"からだろ? イレーネ教官も言ってたじゃん、『考えてから動くな』って」
レインは沈黙した。リュカの指摘は正しい。構築の速度は「感覚」の領域だ。理論で埋められない壁がある。
「……具体的に、どう教えるんだ」
「うーん。言葉で説明すんの苦手なんだよな。——あ、こうしよう。明日の放課後、訓練場で一緒に術を組もう。俺が吸収して、お前が変換と構築をやる。連携しながらだと、感覚が分かるかもしれねえ」
合理的な取引だ——とレインは思った。互いの欠点を補う。リュカに理論を教え、リュカから感覚を学ぶ。効率的な共学の提案だ。
しかし「取引」という言葉を使ったのは——リュカなりの気遣いかもしれない。「助けてくれ」と言うよりも、「取引しよう」と言う方がレインが受け入れやすいと、直感で分かっているのだ。
——この少年は、理論は壊滅的だが、人の心を読む感覚は鋭い。
「分かった。明日の放課後に」
「よっしゃ!」
リュカが拳を突き上げた。
翌日の放課後、約束通り訓練場で合同練習を行った。
リュカが星脈を吸収し、レインに「流す」。星脈が他者の脈路を通じて伝わる感覚は初めてだった。リュカの星脈は——荒い。川というより、奔流だ。しかしその奔流の中に、独特の「律動」がある。波のリズム。ソレイユの海で育った少年の、体に刻まれたリズム。
その波動がレインの脈路に注ぎ込まれた時、レインは驚いた。通常、他者から星脈を受け取ることはない。自分の吸収力で地脈から引き出すのが当たり前だ。しかしリュカの星脈はそんな常識を無視して、圧倒的な量で押し寄せてくる。制御できないはずだった。
——だが。
レインはそのリズムに合わせて変換を試みた。理論を一度手放し、リュカの波に乗る。リュカの暴力的な吸収力に対抗するのではなく、同じテンポで踊るように。
風が起きた。訓練場の空気が渦を巻く。レインの構築した風の術式が——いつもより速く、いつもより自然に形を成した。これまで試みたことのない速度だった。
「おお! すげー! 風が回ってる!」
リュカが歓声を上げた。レインは自分の手を見つめた。今の構築速度は、いつもの1.5倍は速かった。
——リュカの「感覚」が、俺の構築を引っ張った。
理論だけでは届かない場所に、感覚が手を伸ばす。それは——一人では到達できない速度だった。
取引のつもりだった。互いの利益のための、合理的な交換。
しかし練習を終えて訓練場を出る時、リュカが言った。
「なあレイン。取引って言ったけどさ——俺、取引じゃなくてもお前に教わりたいと思ってたよ。お前が友達だから」
その言葉を聞いた時、レインの中で何かが動いた。夕暮れの訓練場で、リュカの瞳がまっすぐにこちらを向いている。飾りのない目。計算のない目。セドリックが「友達を作れ」と言った時の、あの真っ直ぐな目と同じ光を持っている。
その一言が、レインの胸に引っかかった。
友達。リュカは——その言葉を、何の計算もなく使う。その言葉の重さ、軽さを測ることなく。ただ純粋に、自分と一緒にいる人間をそう呼ぶ。
レインは「ああ」とだけ答えた。それ以上の言葉が見つからなかった。返事をするまでの間、胸の奥で何かが動いた。温かいもの。冷たい論理では説明できない、得体の知れない感情。母を失った時の痛みとも違う。セドリックへの思いとも違う。新しい感覚だった。
しかし——返事ができたこと自体が、小さな変化だった。前の自分なら、友達という概念を受け入れようと「分析」をしていただろう。相互扶助の関係。相手との利益配分。そういったものを計算してから、返事をするか判断していただろう。
今は、そうしていない。ただ「ああ」と返った。理由は説明できない。だから——より本当だった。
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