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第6話「教室の風景」

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 学院生活は、思いのほか規則的だった。


 朝六時に起床の鐘。洗面、朝食。七時半から午前の授業が三コマ。昼食を挟み、午後は実技が二コマ。夕食後は自習時間。消灯は十時。


 午前の授業は四科目が日替わりで入る。星脈術理論、古代語基礎、歴史、政治学。座学が中心で、レインにとっては得意な領域だった。


 星脈術理論では、吸収・変換・構築の各段階を体系的に学ぶ。ヴァルターの教え方が「なぜ」を問う方式だったのに対し、学院の教科書は「何を」「どのように」が中心だった。レインには物足りない。しかし教科書の体系性には学ぶべきところがある。ヴァルターが意図的に教えなかった——あるいは教える必要がないと判断した——基礎理論の「穴」が、いくつか見つかった。学問には階層がある。辺境では不要な知識も、王都では必須かもしれない。その視点の転換そのものが、レインの成長だった。


 歴史の授業では、五大国の成立と大崩壊後の文明再建が語られた。ヴァルターの書庫で独学した内容とおおむね一致したが、「公式の歴史観」と「ヴァルターの見解」の間には微妙な差異があった。公式見解では大崩壊は「天災」とされているが、ヴァルターは「人災の可能性」を示唆していた。


 政治学の授業が、レインにとっては最も馴染みがあった。貴族間の権力構造、法制度、外交の基礎。前世の商社マンとしての経験が、ほぼそのまま適用できる。教授の問いに対し、レインは的確に——しかし目立ちすぎないよう、控えめに答えた。マルクスの件がある。必要以上に注目を集めるのは得策ではない。


 古代語基礎の授業で、転機が訪れた。


 ゼノン教授が黒板に古代語の碑文を書き、その解読を生徒たちに試みさせた。


 「これは第二期書記体系の行政文書の断片です。読める人は?」


 ほとんどの生徒が手を上げない。古代語は学院でも専門性の高い分野で、新入生にとっては未知の領域だ。


 アリシアが手を上げた。「第三行目の記号列は、穀物備蓄に関する数量表記だと思います。しかし第一行目の動詞活用が読み取れません」


 ゼノンが頷いた。「いい線です。第一行目は——」


 「管理者の署名です」


 レインが口を挟んだ。言うつもりはなかったが、文字を見た瞬間に解読が走り、口が先に動いた。


 「第一行目は行政官の署名と日付。第二期の日付表記は星暦と季節名の組み合わせで、この場合は——収穫期の報告書です」


 教室が静まった。ゼノンがレインを見た。


 「……詳しいですね。ヴァルター翁から第二期の書記体系を?」


 「はい。対訳辞書と原典の照合を、一年半ほど続けました」


 ゼノンの目が光った。学者が同好の士を見つけた時の目。


 「授業の後、少し残っていただけますか」


 授業後、ゼノンとレインが教室に残った。他の生徒が出ていく中、アリシアだけが一瞬足を止め、レインの方を振り返った。その目には——興味と、わずかな競争心が見えた。


 ゼノンが椅子を引き、レインの向かいに座った。


 「率直に聞きます。第三期の書記体系には触れましたか」


 「断片的にですが。ヴァルター先生の書庫にあった儀式文書の写しをいくつか」


 「第三期は最も解読が難しい。文字そのものが星脈で書かれている——つまり、読むためにも星脈感応が必要です。あなたの変換精度Aなら、感応読みが可能かもしれない」


 ゼノンが鞄から革装の書物を取り出した。古い。ページが黄ばみ、端が擦り切れている。


 「これは学院が所蔵する第三期文書の中で、最も保存状態の良い断片です。——読んでみますか?」


 レインはページを開いた。文字の列が——光って見えた。通常の文字ではない。星脈の残響が文字の形に刻まれている。風紋読みの感覚を目に集中させると、文字が浮かび上がる。


 「……これは。都市の設計図——いや、星脈の配管図のようなものです。古代の都市は星脈を導管で引き回していた」


 ゼノンが身を乗り出した。


 「そこまで読めるとは。——レイン君。非公式ですが、私の研究を手伝ってくれませんか。古代文明の解読に、あなたのような感応読みができる人材は貴重です」


 レインは頷いた。古代文明への知的好奇心もあった。しかしそれ以上に——ゼノンの目に、ヴァルターと同じ「知りたい」という純粋な欲求を見たからだ。


 教室を出ると、廊下にリュカが待っていた。壁に寄りかかり、退屈そうに足をぶらぶらさせている。


 「おっせーよ。何話してたんだ?」


 「教授に研究の手伝いを頼まれた」


 「研究? 入学三日目で? お前、やっぱ変だよ」


 リュカが笑った。馬鹿にしているのではなく、面白がっている笑いだ。


 午後の実技では、基礎的な術式の構築訓練があった。風相の術式をレインが組み上げる。理論通り、正確に。しかし——アリシアの構築と比べると、速度が劣る。アリシアの術式は迷いがなく、一筆書きのように流れるように完成する。


 レインの構築は「正確だが遅い」。頭で理論を組み立ててから体に命令する。その一瞬のタイムラグが、速度を落としている。


 イレーネ教官が指摘した。「アルヴェス。理論は完璧だが、体が遅れている。考えてから動くな。考えながら動け」


 ——考えながら動く。


 ヴァルターにも言われた言葉だ。「頭に頼りすぎる」と。


 寮に戻る途中、窓の外の夕焼けを見た。赤い空。アルヴェス領の丘から見る夕焼けとは色合いが少し違う。王都の空は、建物の煤で少し霞んでいる。


 ——お母さんが好きだった夕焼けとは、違う色だ。


 胸の奥で、鈍い痛みが走った。しかし——痛みの質が変わっている気がした。以前は凍りつくような痛みだった。グレンが母を失った時の無言の悲しみのように、言葉にならない絶望。


 今は——じんわりと、温かい痛み。母を思い出す痛み。それは愛の証し。失ったものの大きさを示す痛み。


 その痛みは——悪くない。その痛みを感じていることが、生きていることの証明だった。


 部屋に戻ると、リュカが机に突っ伏して唸っていた。


 「レイン、理論の宿題がまじで分かんない。助けてくれ……」


 「見せろ」


 リュカの回答を見て、レインは溜息をついた。基礎の基礎が抜けている。しかし——直感的な記述の中に、教科書にはない「感覚の言語化」が混じっている。


 「ここは間違っている。しかしこの表現——『星脈が背骨を通って指先に溜まる感覚』——これは、教科書のどこにも書いていないが、吸収過程の実感としては正しい」


 「マジで? それ、授業で言ったら笑われたんだけど」


 「笑う方が間違っている。経験に基づく記述には、理論以上の情報が含まれることがある」


 リュカが目を丸くした。そして——嬉しそうに笑った。


 「お前に言われると、なんか救われるな」


 その笑顔を見て、レインは——何かを感じた。言葉にできない。分析もできない。ただ、悪くない感覚だった。リュカの成長を喜ぶ。そのシンプルな感情。誰かの幸せを、自分のことのように感じる。それは——友達の定義の一つかもしれない。


 レインはペンを取り、リュカの宿題の訂正を続けた。その傍らで、ゼノンとの研究、古代文献の解読、理論の学習——すべてが同時に流動している。学院での日常は、以前とは比べ物にならないほど濃密になっていた。


 そしてそれが——悪いはずがなかった。


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