第4話「三歳の覚醒」
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それは、嵐のように来た。
三歳の誕生日を迎えた夜のことだった。エレナが焼いた蜂蜜菓子の甘い匂いが、まだ部屋に残っている。セドリックは「弟の誕生日だから」と張り切って朝から花を摘んできた。父グレンは不器用に微笑んで、レインの頭に手を置いた。
穏やかな一日だった。
眠りについて、夢を見た──いや、夢ではなかった。
堤防が、決壊した。
頭の中に溜まり続けていた霧が一気に晴れたのではない。霧ごと、その向こう側にあったものが洪水のように押し寄せてきたのだ。
名前。鷹司蓮。
年齢。四十七歳。
職業。総合商社役員。海外事業部統括。
住所。東京都港区──マンションの番号まで、鮮明に浮かぶ。
記憶が奔流となって脳内を駆け巡った。小学校の教室。大学の講義棟。就職面接の緊張。初めて海外赴任した時の空港の匂い。中東の砂漠の乾いた風。会議室のホワイトボードに書いた事業戦略のフレームワーク。
名刺交換。握手。契約書のサイン。祝杯のシャンパン。
数字。為替レート。原油価格の推移。四半期決算報告。損益分岐点の計算式。
膨大な量の知識と経験が、三歳の脳に一気に流し込まれていく。頭が割れるように痛い。体が震えている。小さな手が、掛け布団を握りしめていた。
そして──痛みが来た。
知識の痛みではない。もっと深い場所にある、もっと鋭い痛み。
美咲の横顔。離婚届に印鑑を押す、あの音。カチリ、という小さな音が、今になって耳の奥で鳴る。あの時は何も感じなかった。効率的な判断だと思っていた。今、その音が胸を裂く。
翔太の背中。ファミリーレストランの自動ドア。「もう来なくていいよ、パパ」。あの声を聞いた時、俺は──何を感じた? 何も感じなかった。感じなかったのではない。感じることを拒否したのだ。
粘土の動物を掲げた、五歳の翔太の笑顔。「パパ、見て!」。俺はパソコンの画面から目を逸らさなかった。
部下の山根が病室で見せた、光の消えた目。「体調管理も仕事のうちだ」。あの言葉を、俺は正論だと思っていた。
救急車の天井。酸素マスクの冷たさ。意識が遠のいていく中で、最後に思ったこと。
──俺の四十七年は、何だったんだ。
目が覚めた時、涙で枕が濡れていた。
暗い部屋。暖炉の残り火。窓の向こうに、二つの月が浮かんでいる。
レインは──鷹司蓮は──天井を見つめたまま、長い間動けなかった。
* * *
夜明けまでの時間を、記憶の整理に充てた。
鷹司蓮。四十七年間の人生。日本という国。地球という惑星。そのすべてが、今は「前世」だ。
ここはアストレイア。超大陸ノルディス。央域ファルネーゼ。──二年半の断片的な記憶を辿れば、この程度の情報は得られる。母が読み聞かせてくれた本の中に出てきた地名だ。
ファルネーゼ連合王国。貴族制度。立憲君主制──に近い何か。自分はその国の中位貴族、アルヴェス家の次男として生まれた。長男は兄セドリック。父はグレン。母はエレナ。
転生。
この言葉が、前世の記憶の中から浮かび上がった。日本のフィクションで見かけた概念だ。異世界に生まれ変わる。荒唐無稽だと思っていた。しかし今、自分がまさにそれを体験している。
冷静に考えろ。
前世の習慣が戻る。状況を分析し、要素を分解し、優先順位をつける。商社マンの思考回路。
一つ。この世界は地球ではない。月が二つある。言語体系が異なる。歴史も文化も違う。
二つ。自分は前世の記憶と知識を保持している。これは圧倒的なアドバンテージだ。言語習得の速さ、論理的思考力、四十七年分の社会経験。
三つ。しかし、この体は三歳児だ。物理的な制約は大きい。
四つ。この世界には──。
ここで手が止まった。二年半の記憶を遡る。使用人の会話の断片。母が読んでくれた絵本の挿絵。父が領地の管理について話していた時に出てきた言葉。
──この世界には、地球にはないものがある。
まだ詳しくは分からない。しかし断片を繋ぎ合わせれば、この世界の人間は何らかの「力」を使えるらしい。超自然的な、科学では説明できない力。二年半の間に耳にした単語を記憶から引き出す。
「星脈」。この言葉が、最も頻繁に出てきた。
* * *
翌朝。
エレナが部屋に入ってきた時、レインは窓辺に座っていた。窓の向こうには、アルヴェス家の領地が広がっている。
緩やかな丘陵地帯。麦畑と牧草地が継ぎ合わさるように広がり、遠くに石造りの農家が点在している。領地を縦断する小川が、朝日を受けて銀色に光っていた。空は高く、雲が薄く棚引いて、どこまでも続いている。
美しい、と思った。
東京の空は、いつもビルに切り取られていた。見上げても四角い青しか見えなかった。ここには、地平線がある。
「あら、レイン。もう起きていたの」
エレナが微笑んで近づいてくる。銀の髪が朝の光に透けて、淡く輝いていた。
「お母さん」
レインは言った。はっきりと、明瞭な発音で。
エレナの足が止まった。
手に持っていた水差しが、ことり、と鳴った。指が震えたのだ。
「……レイン?」
「おはよう、お母さん」
二年半の蓄積が、前世の記憶と結びついて一気に開花していた。言語の構造は既に頭の中に入っている。文法規則も、語彙も、発音のパターンも。足りなかったのは喉と舌の筋肉だけだ。それも、三歳の体は二歳の頃より遥かに自由が利く。完璧とは言えないが、意味の通る文を組み立てることはできる。
エレナは動かなかった。
数秒──いや、もっと長い沈黙だったかもしれない。朝日が窓から差し込み、エレナの銀髪を透かしている。その顔に浮かんでいたのは、喜びではなかった。驚愕だった。目が大きく見開かれ、唇がわずかに開いたまま、言葉を探しあぐねている。
そしてその奥に、一瞬だけ──怯えに似た何かが過ぎった。
この世界には星脈術がある。超常的な力が存在する。「普通ではない」ことが、必ずしも祝福を意味するとは限らないのだ。我が子の身に何かが起きたのではないか。そんな不安が、母の胸を突いたのだろう。
レインは黙って母を見つめ返した。何も取り繕わなかった。下手な言い訳を重ねれば、余計に怖がらせる。
エレナが、ゆっくりと膝をついた。目線をレインに合わせ、その顔を──まるで初めて見るかのように──じっと見つめた。
長い沈黙。
やがて、エレナの手が伸びてきた。レインの頬に触れた。頬から額へ。額から髪へ。自分と同じ灰がかった銀の髪を、指でそっと梳いた。
その目から、怯えの色が消えていくのが分かった。代わりに浮かんだのは、レインには名前のつけられない、複雑な光だった。安堵と困惑と、それから──覚悟のようなもの。
「あなた……いつの間にそんなに、話せるようになったの?」
声がかすかに震えていた。しかし逃げてはいなかった。
レインは少し迷い、それから答えた。
「たくさん、聞いていたから」
嘘ではない。二年半、この家族の言葉を聞き続けてきた。ただ、それだけでこの流暢さを説明できないことは、大人なら分かるはずだ。
エレナは黙ったまま、レインの目を見つめていた。長い、長い時間。何かを探しているようだった。息子の目の奥に、自分の知らない何かがあることに気づいている。しかし問い詰めはしなかった。
やがて──笑った。
目の端に、光るものがあった。
「そう。レインは……お耳が良いのね」
その声に込められたものを、レインはすべて読み取ることはできなかった。しかし、これだけは分かった。この人は、怖かったのだ。自分の子供に何が起きたのか分からなくて怖かった。それでも、息子の目を見て──受け入れた。理由も分からないまま、ただ受け入れた。
前世の鷹司蓮には、この感覚が理解できなかっただろう。理屈に合わない。情報が不足している状態で判断を下すのは、ビジネスでは致命的だ。
しかしエレナは、判断をしたのではない。選んだのだ。我が子を信じることを。
エレナが立ち上がり、いつものように手を差し伸べる。
「さあ、朝ご飯にしましょう。セドリックがもう待ちきれないって、下で騒いでいるわ」
レインはその手を取った。
小さな手が、母の手に包まれる。温かい。この温かさの意味を、前世の鷹司蓮は知らなかった。今のレインも、まだ正しく理解できていない。
しかし一つだけ、昨夜の嵐の中で見つけたものがある。
前世の最期に浮かんだ問い。「俺の四十七年は、何だったんだ」。その問いには、まだ答えられない。代わりに、新しい問いが生まれていた。
──今度は、何のために生きる?
答えは見つからない。しかし問いを持っているということは、探し始めることができるということだ。
エレナに手を引かれ、食堂へ向かう。石の廊下を歩きながら、窓から差し込む朝日を浴びた。
アルヴェス家の館は大きすぎず、小さすぎなかった。王都の大貴族の屋敷と比べれば質素だろうが、石壁は分厚く、床は磨かれ、窓には色付きガラスがはめ込まれている。裕福だが華美ではない。中位貴族の矜持が、この建物の隅々に宿っていた。
食堂に入ると、セドリックが椅子の上で身を乗り出していた。
「レイン! 遅いぞ!」
五歳の兄は、もう「大人の男」のつもりらしい。背筋を伸ばして座っているが、テーブルの上のパンを我慢できずにちぎっている。その隣に、父グレンが無言で座っていた。大きな体。不器用な眼差し。しかし家族が揃うとどこか安堵した顔になる。
四人で食卓を囲む。パン、チーズ、干し肉、昨日の残りの野菜のスープ。質素だが温かい朝食。
前世では、朝食はコンビニのサンドイッチだった。デスクで書類を読みながら、片手で頬張る。何を食べたか覚えていない朝が、何千回あったことか。
「レイン、スープ熱いから気をつけてね」
エレナが言う。レインは頷き、木の匙を手に取った。
この食卓には、四人分の椅子がある。そして四人が、座っている。空席はない。
──前世の食卓には、いつも空席があった。俺の席だ。
スープを口に運ぶ。温かい。野菜の甘みが舌に広がる。前世では味わったことのない、素朴で確かな味だった。
食事の後、レインは書庫に向かった。アルヴェス家の書庫は小さいが、この世界の基礎知識を得るには十分だった。子供向けの絵本から歴史書まで。前世の速読の技術を使えば、一日でかなりの量を読み込める。
二年半の断片的な情報では足りない。この世界のルールを、体系的に把握する必要がある。
棚から一冊を引き抜く。『ファルネーゼの子どもたちへ──星脈のおはなし』。子供向けの入門書だ。色褪せた表紙に、夜空に走る光の筋の絵が描かれている。
頁を開く。
「むかしむかし、世界の下には大きな川が流れていました。それは星の力で満ちた、目には見えない川──」
星脈。やはり、この世界の根幹に関わる概念らしい。地中を流れるエネルギーの川。それを人間が利用する技術。
頁をめくる手が止まった。挿絵があった。人の体の中に光る線が描かれ、その線が手のひらから放射状に広がっている。その下に、一つの単語が書かれていた。
星脈術。
──この世界には「魔法」がある。いや、「星脈術」と呼ぶらしい。
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