第2話「王都セレスティア」
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正門をくぐった先に広がっていたのは、アルヴェス領とは別の世界だった。
緑の芝生が手入れされた広場の中央に、三階建ての石造りの本館がそびえている。壁面は蔦に覆われ、窓は高く細い。築百年は超えているだろう。しかし古びた印象ではなく、歳月が重みを加えている。本館の左右に翼棟が伸び、さらにその奥に実技棟、寮棟、大図書館が並ぶ。敷地の外周を高い石塀が囲み、塀の内側に等間隔で星脈灯が立っていた。
レインは歩きながら、建物の配置を頭の中で地図に落とし込んでいた。本館が中心。北に寮、南に実技場、東に大図書館。西に教官棟と研究棟。合理的な配置だ。動線に無駄がない。
——また分析している。
自覚はある。しかし分析を止めると、不安が来る。知らない場所。知らない人間。十年間暮らした領地の、あの匂いも音もない。
入学事務室は本館の一階にあった。書記官が入学許可書を確認し、寮の部屋番号と時間割を記した紙を渡した。「寮は北棟の三階、302号室です。同室の生徒はすでに到着しています」
北棟に向かう廊下で、何人かの生徒とすれ違った。レインより年上に見える者が多い。学院は十歳から十八歳まで在籍でき、八年制の教育機関だ。レインは最年少層に入る。
視線を感じた。好奇の目。辺境から来た小さな貴族の次男——そんな評価だろう。あるいは、灰色の髪が珍しいのか。央域ではあまり見ない髪の色だとヴァルターが言っていた。
三階の302号室の前に立った。木製の扉。鉄の取っ手。
扉を開けた。
部屋は思ったより狭かった。ベッドが二つ、机が二つ、窓が一つ。壁に小さな棚。それだけ。アルヴェス家の自室よりずっと質素だ。
片方のベッドにはすでに荷物が散乱していた。服、本、何かの道具が雑然と放り出されている。そしてベッドの上に——少年が一人、仰向けに寝転がっていた。
「お」
少年が起き上がった。日に焼けた肌。短く刈り込んだ栗色の髪。目は大きく、琥珀色で、どこか猫を思わせる。体格はレインより一回り大きい。年上だろうか。
「お前も新入り? 俺、リュカ! リュカ・フェルミ。ソレイユから来たんだ。海、知ってるか?」
一息に喋った。レインが返事をする間もなく、リュカはベッドから跳ね下り、レインの手を掴んで握った。
「よろしくな、同室! お前、名前は?」
「……レイン。レイン・アルヴェス」
「レインか。いい名前じゃん。雨って意味か? ソレイユじゃ雨は恵みだぜ。漁が終わった後に降る雨が一番気持ちいいんだ」
レインは握られた手を見下ろした。この距離感の近さ。前世でも転生後でも、初対面でこれほど親しげに接してくる人間は記憶にない。商談の握手は何千回としたが、あれは形式だ。この少年の手は——違う。力が強く、掌が硬い。肉体労働をしてきた手だ。
「お前、どこから来たんだ? 央域?」
「辺境です。アルヴェス領」
「辺境か! 俺もだぜ。ソレイユは南の端っこだから、ここまで船と馬車で十日かかった。長かったぁ」
リュカが大きく伸びをした。そのまま窓の外を指差す。
「なあ、あそこ見ろよ。塔のてっぺんに光ってるやつ。あれ、星脈結晶だってさ。すげえよな。あんなでかい結晶、ソレイユでも見たことねえ」
レインは窓の外を見た。王城の塔の頂に据えられた結晶が、午後の陽光を受けて七色に光を散らしている。あの結晶一つで、おそらくアルヴェス領の全世帯が一年暮らせるだけの価値がある。
「……確かに大きいですね」
「"ですね"って。堅いなあ。俺たち同い年だろ? タメ口でいいじゃん」
「……同い年なのか」
「十一歳。お前は?」
「十歳」
「じゃあ俺が兄貴だな!」
リュカが満面の笑みを浮かべた。その笑顔に——レインは一瞬、セドリックを重ねた。まっすぐで、裏がない。しかしセドリックの笑顔が「兄の優しさ」だとすれば、リュカの笑顔は「太陽」だった。無差別に照らす。相手が誰であろうと。
荷物を整理した。着替えを棚にしまい、ヴァルターの対訳辞書と星脈の地図は机の引き出しに鍵をかけて収めた。エレナの繕いかけの上着は——枕の下に入れた。
リュカが話し続けていた。ソレイユの海のこと。父親が漁師であること。星脈の才能を偶然発見されたこと。奨学金で学院に来たこと。
「親父はさ、俺が学院に行くって言ったら泣いたんだぜ。嬉しくて。漁師の家から学院に行く奴なんて、村で初めてだって。母ちゃんは泣きながら干し魚を三十本持たせてくれた。三十本だぜ? 馬車の中が魚臭くてたまんなかった」
レインは黙って聞いていた。この少年の家族は——温かいのだろう。声の調子でわかる。家族の話をする時、リュカの声は少し高くなる。
「お前んちはどうなんだ? 家族いるのか?」
「……父と、兄が一人」
母のことは言わなかった。言えなかった。
「そうか。兄貴いるのか。俺は一人っ子だから、兄弟って羨ましいな」
リュカは深く聞かなかった。レインの声のトーンが変わったことに気づいたのか、ただの無頓着なのか。どちらにせよ——助かった。触れてほしくない場所を避けてくれる人間は、稀だ。
夕食は食堂で取った。寮棟から本館を経由して食堂に向かう途中、石畳の回廊を歩いた。壁に掛けられた星脈灯が薄い橙色の光を灯し、夕暮れの影を追い払っている。食堂は広く、長テーブルが並び、数百人の生徒が食事をしている。喧騒。笑い声。怒鳴り声。食器の音。ソレイユ風の魚料理からカルドゥス風の根菜スープまで、各地方の料理が並ぶ。
リュカは魚料理に飛びついた。「おお、ソレイユの味だ! ……ちょっと違うけど」
レインはパンとスープを選び、隅の席に座った。リュカが隣に座る。他の新入生たちが近くにいたが、まだ誰も話しかけてこない。
食堂の空気を、レインは分析していた。テーブルの配置。座る位置の法則性。上級生は奥の窓際。新入生は手前の通路側。貴族の子弟は互いに近い席を選んでいる。平民出身者は——散らばっている。
視線の流れ。誰が誰を見ているか。権力の地図。前世の会社の食堂と、構造は同じだった。
——ここでも同じか。
しかしリュカは、そんな空気を一切気にせず、隣の席の生徒に話しかけていた。「なあ、お前もどこから来たんだ? この魚うまいよな?」
相手の少年は最初戸惑った表情を浮かべていたが、リュカの屈託のない笑顔に釣られて、やがて笑い返した。
レインはその光景を見ていた。リュカは——分析しない。計算しない。ただ目の前の人間に、まっすぐに手を伸ばす。
それが自分にできないことだと、レインは知っていた。
部屋に戻り、ベッドに横になった。リュカはまだ喋っていたが、やがて唐突に黙り、数秒後に寝息を立て始めた。切り替えが早い。
窓の外に、二つの月が浮かんでいた。白い月と青い月。アルヴェス領で見るのと同じ月。しかし周囲の景色が違う。石壁と屋根の間から覗く月は、故郷の丘の上で見る月より小さく見えた。
明日から、適性試験が始まる。自分が何者であるかを問われる日が。
レインは目を閉じた。エレナの上着の感触が、枕の下にかすかにあった。
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