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第1話「五日間の道」

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 街道は、アルヴェス領を出てすぐに景色が変わった。


 見慣れた丘陵と麦畑が遠ざかり、広大な平原が左右に開けていく。央域ファルネーゼの大地は、どこまでも平らだった。地平線に向かって真っ直ぐに伸びる街道。その両側に、菜の花に似た黄色い花が風に揺れている。五月の風は乾いて温かく、馬車の幌をはためかせていた。


 レインは窓の縁に頬杖をつき、流れていく景色を眺めていた。


 隣の御者台で、ブレイ教官が手綱を引いている。左腕はまだ完全には治っていない。時折、手綱を握り直す動作にかすかな硬さが残る。しかしブレイの目は油断なく街道の先を見据えていた。


 初日は宿場町ミレーヌで一泊した。街道沿いの小さな町で、商隊が休息する拠点だった。石造りの宿屋。一階の食堂には旅人や商人がひしめいていた。ソレイユ訛りの商人が大声で値段を叫んでいる。カルドゥスの鍛冶職人らしき男が黙々と麦酒を飲んでいる。多様な人間が交差する場所。アルヴェス領の静かな村とは、空気の密度が違った。


 「坊ちゃん。飯ができました」


 ブレイが素焼きの皿を置いた。煮込んだ豆と干し肉のスープ。パンは固い。しかし——味がする。四日前に台所でマルタが出してくれたスープの味を、レインは思い出した。あの時、四日ぶりに味が戻った。今は——味がすることに、いちいち安堵する自分がいる。


 「ブレイ教官」


 「はい」


 「王都まで、あと何日ですか」


 「このまま順調に進めば、四日後の昼には着くでしょう。天候が崩れなければ」


 二日目の街道で、大型の商隊とすれ違った。荷馬車が十台以上連なり、護衛の傭兵が脇を固めている。荷の紋章はソレイユ海洋共和国の商会のもの——七つの波をかたどった意匠。カルロの所属する商会とは別系統だが、同じ様式だ。


 レインは商隊の規模と護衛の数から、積荷の価値と輸送ルートを推測している自分に気づき、やめた。分析はいつでもできる。今は——景色を見ていたかった。


 しかし景色を見ていると、考えが浮かぶ。考えが浮かぶと、分析が始まる。分析を止めるには——何かを感じなければならない。


 ヴァルターが言った。「人を学べ」。


 しかし学院に着く前から学ぶべき人間は、隣にいた。


 「ブレイ教官。一つ聞いてもいいですか」


 「何でしょう」


 「教官は——軍を辞めた後、なぜうちに来たんですか」


 ブレイの手が、わずかに手綱を引き締めた。しかしすぐに緩めた。


 「……グレン様に恩があったからです」


 「恩?」


 「三十年前、北部の砦で戦っていた時のことです。わしが敵に囲まれて膝をついた時、まだ若かったグレン様が飛び込んできて、わしを引きずり出してくれた。理由を聞いたら、『お前が死んだら、お前の家族が悲しむだろう』と」


 ブレイが小さく笑った。皺だらけの顔に、柔らかい線が浮かぶ。


 「あの方は、いつもそうです。理屈じゃない。目の前の人間を放っておけない。——政治は下手ですが、そういう方なのです」


 レインの胸に、何かが沁みた。父グレンの話を聞くたびに、同じ感覚がある。嘘をつかない人間。理屈ではなく人を動かす人間。自分とは正反対の人間。


 三日目の夕暮れ、街道脇の丘に登った。野営地を探すためだ。丘の上からは街道が蛇のように平原を横切っているのが見えた。その先に、遠くの街の灯りがあった。中継都市ベルグラン。央域で三番目に大きい都市だと、ヴァルターの書物で読んだ。城壁の内側に多くの建物が詰め込まれ、夜でも明るい。星脈灯と呼ばれる街灯が通りを照らしているのだろう。


 レインが見つめる灯りの向こうに、さらに大きな都市があるはずだ。王都セレスティア。大陸最大の都市。


 四日目の朝、馬車に揺られながら、レインはエレナの繕いかけの上着を膝の上に広げた。セドリックのために繕っていた上着。針が刺さったまま止まっている。途中で止まった縫い目。その先を続ける人は、もういない。


 指で縫い目をなぞった。母の指が、ここに触れていた。糸を通し、布を合わせ、息子のために一針一針を刻んでいた。


 ——お母さん。俺は今から、先生が言った「人を学ぶ場所」に行きます。


 声にはしなかった。心の中で呟いただけだ。


 五日目の正午。


 馬車が丘を越えた時、レインは息を呑んだ。


 王都セレスティアが、平原の只中に広がっていた。


 巨大だった。アルヴェス領の館が百あっても足りないだろう。白い城壁が三重に都市を囲み、最も内側の壁の向こうに王城の塔が天を突いている。塔の頂に据えられた結晶が、陽光を受けて虹色に輝いていた。星脈灯の柱が城壁の上に並び、昼間でも淡い光を放っている。


 城壁の外にも街が広がっていた。外郭市と呼ばれる区域。商人の店、旅人の宿、職人の工房が軒を連ねている。人の流れが、川のように街道から都市に吸い込まれていく。


 「ブレイ教官」


 「はい」


 「……大きいですね」


 「ええ。わしも久しぶりですが——やはり圧倒されます」


 馬車が外郭市の門を通過する。門番が入学許可書を確認し、通行証を渡した。「学院は第二城壁の北側です。道なりに進んでください」


 街の中は騒がしかった。売り声、荷車の軋み、子供の笑い声、どこかから流れる楽器の音。あらゆる音が混ざり合い、一つの大きな唸りになっている。空気は香辛料と焼きたてのパンと、下水の匂いが入り混じっていた。


 第二城壁の門を抜け、北に向かう通りを進むと、やがて高い塀に囲まれた広大な敷地が現れた。正門の上にアーチ状の門標。古い石に刻まれた文字。


 ——王立星脈学院。


 ブレイが馬車を止めた。


 「坊ちゃん。ここまでです」


 レインは馬車を降りた。荷物を肩にかけ、正門を見上げた。門の向こうに、緑の芝生と石造りの校舎が見える。生徒たちの姿がちらほら。レインと同じくらいの年頃の子供たちもいれば、十代後半に見える若者もいる。


 「ブレイ教官」


 振り返ると、ブレイは御者台に座ったまま、レインを見下ろしていた。


 「坊ちゃん。——いえ、レイン様」


 改まった呼び方に、レインは驚いた。


 「学院は、戦場と同じです。味方を見極めてください。——しかし、味方とは強い者のことではありません。信じられる者のことです」


 ブレイの目は、三十年の軍務を経た老兵のものだった。その目が、少しだけ潤んでいる。


 「エレナ様も、そう仰ったでしょう。嘘をつかない人間を見つけろ、と」


 ——母は、そう言っていた。直接その言葉ではなかったが、意味は同じだ。


 「ありがとうございます、ブレイ教官。——お体に気をつけて」


 「お気をつけて、レイン様。次にお会いする時は、もう少し背が伸びていることを期待しています」


 ブレイが笑った。不器用な、しかし温かい笑みだった。グレンに似ている、とレインは思った。


 馬車が去っていく。レインは一人、正門の前に立っていた。


 風が吹いた。五月の風。アルヴェス領の丘を吹き抜ける風とは違う。多くの人間の息遣いを含んだ、温かく雑多な風。


 レインは深く息を吸い、一歩を踏み出した。門をくぐり、新しい世界に足を踏み入れた。背中にブレイの言葉の余韻を感じながら。


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