第35話「旅立ち」
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王立星脈学院への入学許可書が届いたのは、エレナの死から一ヶ月後のことだった。
ヴァルターの推薦状に、トーマス領主の副署が添えられていた。辺境の中位貴族の次男が学院に入るには、相応の後ろ盾が必要だ。ヴァルターの元宮廷術師としての名声と、トーマス領主の政治的な支援。その二つが、レインに王都への道を開いた。
出発の日は、五月の末だった。
朝早く、レインは荷物をまとめた。着替えが三着。ヴァルターから借りた古代語の対訳辞書。星脈の地図の写し——原本はヴァルターの書庫の鍵のかかった引き出しの中にある。そして——エレナが繕いかけていた、セドリックの上着。
最後の品は、持っていくべきか迷った。しかし——置いていけなかった。
館の前に、馬車が用意されていた。王都まで五日の旅。ブレイ教官が護衛として同行する。老兵の左腕の傷は完治していないが、ブレイは「この腕でも、坊ちゃんくらいは守れる」と言った。
セドリックが門の前で待っていた。
十二歳の兄は——泣いていなかった。あの夜、二人で散々泣いた。今日は笑って送り出す、と決めたのだろう。
「レイン」
「セドリック兄さん」
セドリックがレインの肩を掴んだ。真っ直ぐな目。
「行け。お前の場所は、ここだけじゃない」
「……」
「でもな。帰ってこいよ。ここはお前の家だ。——それだけは忘れるな」
レインは頷いた。声が出なかった。セドリックの手の温もりが、肩越しに伝わってくる。
「兄さんも——体に気をつけて。無茶な稽古はしないでください」
「無茶はお前の専売特許だろ」
セドリックが笑った。その笑顔の奥に、別れの寂しさが隠れている。しかし——隠しきれていない。レインには、それが見えた。以前なら気づかなかったかもしれない。しかし今は——少しだけ、人の表情の裏にあるものが見える気がした。
少しだけ。まだ——ほんの少しだけだが。
グレンが来た。
父は——言葉が少なかった。いつものことだ。しかし今日は特に。エレナを失ってから、グレンは寡黙になった。朝の廊下で壁に手をついて立ち尽くしているのを、レインは何度も見た。以前の不器用な温もりは変わらないが、その周りに悲しみの殻ができている。
「レイン」
「はい、父上」
グレンがレインの前に立った。大きな体。がっしりとした手。その手が——不器用に、レインの頭に置かれた。
置かれて、すぐには離さなかった。その手は、少し震えていた。
「……体に気をつけろ」
それだけだった。しかしその手の重さに、言葉にならないものが詰まっていた。五月の陽光の中で、父は息子に最後の言葉をかけている。妻の死を経験した男が、別れの時を迎えている。
グレンの目が潤んでいた。涙は流れていない。しかし目の奥が、揺らいでいた。泣くまいとしている。この不器用な父は、息子の前では泣かないと決めているのだろう。己の悲しみよりも、息子を送り出すことを優先させている。
その姿が、レインには痛かった。母の死と同じくらい、父のその様子が痛かった。
「父上。領地のことは——」
「心配するな。お前が整えてくれた外交の土台がある。トーマス領との連携は、わしが引き継ぐ。——お前の方が賢いが、な」
グレンが——笑った。ぎこちない笑みだったが、確かに笑った。その笑顔の中に、息子を信じる気持ちと、妻を失った悲しみが混在していた。
「お前のおかげで、わしにもできることが増えた。エレナが……」
グレンは言葉を止めた。妻の名前を口にすることさえ、今はまだ難しいのだろう。
「——ありがとう、レイン」
父から礼を言われたのは、初めてだった。レインの胸に、温かいものが広がった。同時に、切ないものも。父もまた、人間なのだ。何の力も持たず、ただ息子の成長を見守ることしかできない、不器用な人間なのだ。
ヴァルターの書庫に、最後の挨拶に行った。
老師はいつもの椅子にいた。本は開いていない。レインを待っていたのだろう。
「先生。——二年間、ありがとうございました」
「二年と三ヶ月じゃ。正確に言えの」
「……すみません」
ヴァルターが立ち上がった。机の引き出しから、何かを取り出した。
星脈の地図。レインが八歳の時に作り、ヴァルターが鍵をかけて保管していたあの地図。原本。
「持っていけ」
「先生——これは——」
「お前が作ったものじゃ。お前が持つのが筋というもの。——ただし、むやみに人に見せるでないぞ。この地図の価値を分かる人間は、味方にも敵にもなる」
レインは地図を受け取った。丁寧に折り畳み、懐に仕舞った。
「先生。学院で何を学べばいいですか」
ヴァルターが笑った。いつもの飄々とした笑み。しかしその奥に——弟子を送り出す師の、複雑な感情が見えた。
「術は学べ。お前の才なら、学院の術師を超えるのに三年もかからんじゃろう。——しかし、それよりも大事なことがある」
「人を学べ、ですか」
「分かっておるなら訊くな」
ヴァルターが歩み寄り、レインの頭を一度だけ撫でた。ぞんざいな手つき。しかし——その手には、二年分の師弟の時間が込められていた。
「お前に足りないものは——まあ、行けば分かるわい」
門の前。馬車に乗り込む。ブレイ教官が手綱を取る。彼の左腕はまだ完全には治っていないが、右腕だけで手綱を操る。老兵の経験が、その体に刻まれている。
セドリックが手を振った。まっすぐな腕。兄の腕。グレンが腕を組んで立っている。その腕も組まれたままで、揺らがない。ヴァルターが書庫の窓から、こちらを見ていた。小さな窓の中の、小さな人影。二年以上の師弟の時間が、その姿に詰まっている。
馬車が動き始めた。ゆっくりと。石畳を離れ、領地の道へ。
レインは振り返った。小さくなっていくアルヴェス家の館。白い壁。赤い屋根。その中で、四人は多くの時間を過ごした。幼い日。兄の稽古。母の歌。父の不器用な笑い。すべてが、この建物に詰まっている。
その向こうに——エレナの丘が見えた。春の陽光に照らされた、小さな丘。草は揺れている。母の姿はない。しかし——風が吹いていた。丘を越え、街道を走り、馬車の中に入り込んでくる風。五月の風。春から初夏へ変わる季節の風。
レインは目を閉じた。
前の人生では、何のために生きているか分からなかった。妻と子供がいても、その意味が分からなかった。金も地位も、何ももたらさなかった答えを。この人生でも——まだ分からない。しかし、それでいいのだと、今は思える。
分からないまま、進むしかない。分からないまま、人に会い、話し、笑い、泣く。その過程の中で、ゆっくりと、何かが見えるのかもしれない。
母が信じてくれた「優しさ」を、自分の手で掴むために。父が不器用に示してくれた「愛」を、理解するために。セドリックと共に流した「涙」の意味を、知るために。
目を開けた。
窓の外に、街道が広がっている。アルヴェス領の田園。農民たちが畑を耕している。その風景が、ゆっくりと流れていく。
前方に、街道が伸びている。その先に——遠く、霞の中に、王都の輪郭がかすかに見えた。高い城壁。多くの建物。陽光に輝く塔。人間の営みが集中した場所。
新しい世界が、待っている。
レインはその方向に目を向けた。心の中で、小さく呟いた。
「進みます。お母さん」
馬車は、王都へ向かって走り続けた。
── 第一部『初哭の灰』了 ──
── 第二部『星を読む者たち』へ続く ──
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