第34話「丘の上で」
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エレナの丘に、レインは一人で登った。
葬儀から十日が経っていた。春の風が丘を吹き抜けていく。草が波のように揺れている。雪解けの後、新しい緑が一気に生い茂った季節。草の根元には小さな白い花が咲いている。生命が満ちている。死が埋もれている季節。
空は澄み、遠くにアルヴェス領の田園が広がっている。農民たちが春の耕作を始めたのか、遠い畑で人影が動いている。世界は、何事もなく進んでいる。
あの日と同じ風景だ。家族四人で夕焼けを見た、あの日と。エレナが歌を歌い、グレンが不器用に笑い、セドリックが肩を組んできた、あの日と。
しかし今、ここにいるのはレイン一人だった。風を受ける体も、一人ぶん。見渡す視線も、一人ぶん。
丘の頂上に座った。草の上に腰を下ろし、膝を抱えた。十歳の体は小さい。丘の上にぽつんと一つ、灰色の点。
時間が経つのが分からなかった。昼間だったのが、いつの間にか午後に変わっていた。光の角度が変わり、影の方向が変わり、風の温度が変わった。しかし、そこに座っているレインの心は、そうした自然な変化に応じていなかった。
空の色が、だんだんと深くなっていく。青から、黄色へ。黄色から、オレンジへ。その色の変化を、レインは感じていた。しかし——何も考えていなかった。母のことを考えながら、同時に、何も考えていない。矛盾した状態。呼吸はしているが、生きているという実感がない。
「……お母さん」
風に向かって呟いた。
返事はない。当たり前だ。しかし——風が応えた気がした。エレナが好きだった風。この丘を吹く風。
「俺は……前の人生でも、家族を壊しました」
初めて、口に出した。エレナの前で。
生きている母には言えなかった。転生者であることも、前世の記憶があることも、誰にも打ち明けていない。しかし今——死者に向かってなら、言える気がした。
「仕事が大事だと言い訳して……妻のそばにいなかった。息子が何を考えているか、分からなかった。分かろうとしなかった。——結局、一人で死にました」
風が強くなった。草がざわめく。
「この世界に来て……お母さんに出会えて。初めて『お母さん』と呼べる人ができた。歌を歌ってくれた。あの、鼻歌。台所で野菜を切りながら、いつも歌ってた。『あああー、あああー』って、言葉にならない歌。聞く度に、ああ、これが家族ってんだなって思った。髪を撫でてくれた。あの手の温度。真冬でも温かかった。雨の日も。どんな時でも。『優しい子』だと言ってくれた」
声が詰まった。胸の奥が、ズキズキと痛む。涙が出そうになった。セドリックと泣いて以来、涙腺が弱くなっている。以前なら抑えられた。しかし——もう抑える理由が分からなかった。むしろ、抑える方が息苦しい。
「最後、手を握れなかった。ヴァルター先生が『手を握れ』と言ったのに。その言葉の意味、わかりました。その時点では。でも体が動かなかった。父上と兄さんを守ることが先だった。母さんより、大事なことがあると、そう思ってた。愚かでした」
「でも俺は……お母さんが本当に何を望んでいたか、最後まで分からなかった」
エレナの言葉が蘇る。「賢いだけの人は、いつか一人になるわ」。あの夕食の席で。あれは警告だった。レインのことを案じて、母が発した警告。
しかしレインはその警告を——分析した。「なぜ母はそう言ったのか」「どう対処すべきか」と。心で受け止めるのではなく、頭で処理しようとした。
それが——レインの限界だった。
「手も握れなかった」
ヴァルターが教えてくれた「手を握れ」。あの言葉の意味を、レインは頭では理解していた。しかし——最後の瞬間、母の手を握っていたのは、レインではなかった。母が——レインの頬に手を伸ばしたのだ。最後まで、手を差し伸べたのは母の方だった。
「ヴァルター先生の言う通りです。俺には……人の心を分かる力がない。前世でも、この世界でも。頭で分かっても、体が動かない。感じても、表現できない」
涙が頬を伝い、顎から草の上に落ちた。拭わなかった。この丘で、この風の中で涙を落とすことが、何か儀式のように感じられた。
「でも——忘れません。お母さんが最後に言ってくれた言葉。『優しい子よ』って。俺が優しいかどうか……分からない。今は、そうじゃないと思う。優しくなんかない。計算ばっかり。人の気持ちが分からない。その結果が——」
この丘で、母は何を考えていたのか。この風景の中で。あの日、セドリックと笑ったあの瞬間、母は何を感じていたのか。自分の弟が、そんなに強く、そんなに冷たい顔をしているのを見て、不安を感じていたのか。それとも、「いつか分かる日が来るまで、見守ろう」と思っていたのか。
二度と聞けない。母の心の中は、すでに遠い。だが、その遠さが、今は痛かった。生きている間に、何百回も側にいたのに。何百回も話しかけたのに。一度たりとも、母の心の奥底を理解しなかった。
それが——レインの最大の後悔だった。
しかし、母はそんなレインを「優しい子」と呼んだ。最期の瞬間に。あの言葉が嘘でないなら——レインの中に、まだ見つけていない何かがある。母だけが見ていた何かが。
声が震えている。喉が痛い。でも、言わなければならない。母に、この丘に、自分の心に対して。
風が凪いだ。一瞬だけ、世界が静かになった。
「お母さんがそう信じてくれたなら……俺は、そうなりたい。なれるか分からない。方法も分からない。でも——強くなるだけじゃなくて。人の心が分かる人間に、なりたい」
丘の上から、アルヴェス領を見渡した。小さな領地。穏やかな土地。ここで十年間、育ててもらった。ヴァルターに術を学び、グレンに領地を見せてもらい、セドリックに兄弟の温もりを教わり、エレナに——母の愛を。
すべてが、レインの土台になっている。
「強くなります。でも——それだけじゃない。先生が言ってくれたように、人から学びます。頭じゃなく。心で。——時間がかかっても」
膝を立ち、ゆっくりと体を起こした。足元が少しふらつく。四日間の欠食の後遺症か、それとも泣き疲れたせいか。体がまだ、この悲しみに慣れていない。
夕焼けが始まっていた。空が赤く染まっていく。西の地平線が深いオレンジ色に変わる。その色の中に、黄金のような淡い光が混じっている。エレナの丘の夕焼け。あの日見た景色。あの日、母は「きれいね」と言った。その時の顔を、今、思い出す。少し微笑んで、少し悲しそうで。いつも複雑な表情だった。
しかし——隣に母はいない。父も兄もいない。
一人の夕焼けは——美しく、そして痛かった。心が裂けるような痛さ。二度と一緒に見ることはない景色。二度と母に「きれいね」と言ってもらうことはない。その事実が、色彩を深くしている。
背筋を伸ばした。まだ十歳だが、この時間が、彼を少し大人にした。
丘を下りる前に、もう一度だけ振り返った。夕焼けの丘。風に揺れる白い花。新しい季節の緑。エレナがいた場所。母の遺骨が埋められた地ではなく、笑顔が刻まれた場所。
「行ってきます、お母さん」
声が、小さかった。十歳の声。しかしその中に、四十七年分の決意が詰まっていた。
風が——吹いた。丘全体が揺らぐほどの、強い風。それは、応えるように。それは、見守るように。
レインは目を閉じた。最後に、その風を感じたいと思った。
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