第33話「老師の言葉」
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セドリックと泣いた翌朝、レインは部屋を出た。
四日ぶりの廊下は、やけに広く感じた。足元がふらついた。四日間ほとんど食べていないせいだ。壁に手をついて歩いた。
台所に行った。使用人のマルタが驚いた顔でレインを見て、すぐに温かいスープを出した。「坊ちゃん、お顔の色が……」。レインは「大丈夫です」と答えて、スープを口に運んだ。
味がした。塩と、野菜の甘さ。四日間、何の味もしなかった口に——味が戻っていた。
スープを飲み終えた後、レインはヴァルターの書庫に向かった。
廊下を進むたびに、体がはっきりしていく。台所の温かい空気から、書庫の冷たい石造りの空気へ。照度の変化。本の香りの濃度。すべてが、自分がこの領地で一番長く過ごした場所が書庫だったことを思い出させた。
老師はいつもの椅子にいた。机の上に本を開いていたが、読んでいる様子ではなかった。ただ、その本の上で両手を組み、窓の外を見ていた。何か遠いものを見つめるような眼差し。レインが入ると、ヴァルターはゆっくり顔を上げた。
「……出てきたか」
「はい」
「座れ。茶を淹れよう」
ヴァルターが茶を準備する間、レインは書庫を見回した。一年半以上通い続けた場所。左壁に古代語文献、右壁に法令と歴史書、奥にヴァルターの研究ノート。レインが整理した配置。すべて変わっていない。書籍の背の傷、机の上の細かい傷、床の擦り減り——すべてが同じだ。変わったのは——レインの方だった。
壁の一角には、今月の星図がピンで止められていた。最新の観測データを示す手書きの地図。ヴァルターは毎月、夜明け前に山に登り、星々を観測するのだという。そこまでして知ろうとするものが、世界にはあるのか。そんなことをレインは考えたことはなかった。
茶碗を受け取った。温かかった。
「先生」
「なんじゃ」
「先生は——大切な人を失った時、何をしましたか」
ヴァルターの手が止まった。茶碗を持つ指が、一瞬だけ強張った。
「……逃げた」
静かな声だった。ヴァルターの目が、窓の外を見つめている。春の庭園が広がっている。レインが毎年見る風景とは別のものが、老師の目には映っているのかもしれない。
「以前、リーナの話をしたじゃろう。あの時は『そばにいることが守ること』だと言うた。——しかしな、あの答えに辿り着くまでの二十年を、わしはまだ話しておらなんだ」
ヴァルターが茶碗を置いた。その手の震えは、ほんの微かだが、レインには見えた。
「リーナが死んだ後、わしは十五年間、人間と関わることを避け続けた。宮廷を辞め、研究だけに没頭した」
「リーナは病で死んだ。わしが治せぬ病。当時、わしは星脈術の最高位に達しようとしておった。力を求めておった。その力で、妻を救えると思い込んでおった。——だが、力では治せぬ死がある。それをわしに教えてくれたのが、リーナの死じゃった」
レインは黙って聞いた。あの日の書庫で聞いた断片が、今ようやく全体像を結ぼうとしている。
「研究に溺れていた間、わしは自分が正しいと思うておった。妻を失った悲しみを、術の探求で昇華しているのだと。しかし——昇華ではなかった。逃避じゃった」
ヴァルターが茶をすすった。
「この村に流れ着いた時、わしは六十を過ぎておった。グレン殿が『子供たちに術を教えてくれ』と頼んできた。最初は断った。人に教えるのは面倒じゃったからの。しかしグレン殿は引き下がらなかった。あの不器用な男が、三度も頭を下げに来よった」
ヴァルターの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「村の子供たちに術を教え始めて——初めて気づいたことがある。わしは十五年間、誰にも必要とされておらなんだ。研究は一人でできる。しかし——教えるには、相手がいる。必要としてくれる人間がいて初めて、わしは生きている実感を取り戻した」
レインの胸に、何かが響いた。
「お前にも、同じことが言えるとわしは思う。お前は賢い。一人で何でもできる。分析し、計画し、実行する——一人で完結できる。しかしな、レイン。一人で完結する人間は、一人で壊れるのじゃ」
「……」
「昨夜、セドリックと泣いたのじゃろう」
レインは顔を上げた。なぜ知っているのか。
書庫の壁沿いに本が積まれている。左壁の古代語文献は全て、ヴァルターの研究の痕跡だ。その中には、おそらくリーナに関する記述も隠されているのだろう。研究という名の逃避の中に、妻への思いが沈んでいる。
ヴァルターが笑った。穏やかな笑みだった。しかしその奥には、三十年前の痛みが息づいている。
「お前の目が変わっておる。四日前とは違う。——泣けたか」
「……泣きました」
「そうか」
ヴァルターが深く頷いた。
「泣くことは弱さではない。——誰かと共に泣けるということは、その人間がそばにいてくれたということじゃ。お前は一人で泣けなんだ。しかしセドリックがそばにいて、初めて泣けた。それは——弱さではなく、人間としての当たり前のことなのじゃよ」
レインは茶碗を見つめた。湯気が立ち昇っている。温かい。
「先生。俺は……母さんを殺しました」
初めて口にした言葉だった。声が震えた。レインの手が、茶碗を握りしめている。磁器が割れそうなほど。
ヴァルターは否定しなかった。「お前のせいではない」とは言わなかった。セドリックと同じだ。嘘をつかない。老師は、歳を重ねることで学んだのだ——時に慰めよりも、正直さが人間を救うことを。
「お前の戦略が、侯爵の報復を引き起こした。——それは事実じゃ」
その言葉は、レインの胸に刺さった。だがヴァルターの声は、責めるのではなく、ただ淡々としていた。医者が患者の病状を述べるように。感情を入れず、ただ現実を示す。
レインの胸が痛んだ。
「しかしな、レイン。お前が動かなければ、アルヴェス家は脈点を失い、いずれ侯爵家に呑まれておった。エレナ殿も、グレン殿も、セドリックも——全員が危険に晒されておった。お前は家族を守ろうとした。その行動自体は——間違っておらん」
「でも——結果として——」
「結果は、お前の力だけでは制御できんものじゃった。お前が足りなかったのは力ではない。——人の心を読む力じゃ。侯爵の屈辱を。怒りを。合理性を超えた感情を」
ヴァルターの目が、真っ直ぐにレインを見た。
「お前は賢い。しかし——賢さだけでは人を守れん。人の心を分かる力がなければ、いつかまた同じことが起きる」
その言葉は——残酷だった。しかし、正しかった。
「先生。俺は……どうすれば、人の心が分かるようになりますか」
ヴァルターは長い沈黙の後、言った。その沈黙の間、老師は本当に遠くを見ていた。リーナのことを、研究に逃げた日々のことを、失われた二十年を。そして、グレンに三度も頭を下げさせた自分の頑固さを。
「わしには教えられん。——しかし、学ぶ場所はある。王都の星脈学院。そこには、お前と同じ年頃の人間が大勢おる。貴族の子も、商人の子も、辺境からやってきた者もいる。本ではなく、人間から学べ。それが——お前に最も必要なことじゃ」
レインは頷いた。学院は既に決まっていたが、ヴァルターの口からあらためて聞くと、その重さが違う。
「先生。学院では何を教わるのですか。星脈術だけですか」
「いや。政治、歴史、経済、心理学。あらゆることじゃ。だが——お前が学ぶべきは、術の理論ではない」
「では——」
「人との関わり方だ。同年代の人間との。先輩たちとの。敵対する者たちとの。そういう、頭では予測できない相互関係の中で、心を学ぶのじゃ」
ヴァルターが立ち上がった。書庫の奥に歩み、棚から一冊の本を引き出した。黄ばんだ装丁。何十年も読み継がれた跡がある。ページの端が折られ、多くの箇所に書き込みがある。
「この本をやろう。星脈学院の教科書の古い版じゃ。参考になるじゃろう」
それは口実だった。本当は、老師が自分の学院時代を、レインに託しているのだ。「人間関係の中で学べ」という言葉を、この古い本に込めて。
「先生。一つ質問があります」
「何じゃ」
「先生は……学院で何を学びましたか」
ヴァルターが口元に笑みを浮かべた。穏やかで、懐かしそうで、少し寂しい笑み。
「星を読むことを学んだ。術の理論をな。——しかし本当に学ぶべきだったのは、妻を失った時に、一人では生きられんということじゃった。それをな。わしは四十年後に、この村で、グレン殿の頼みを受け入れることで、初めて学んだ」
窓の外で、鳥が鳴いていた。春の鳥だ。季節は進んでいる。母が死んでも、世界は——進む。失った時間は戻らないが、残された時間はある。ヴァルターはそのことを、この老体で、この教室で、毎日実感していた。
「ありがとうございます、先生。本当に」
レインが深く頭を下げた。その時、ヴァルターが再びレインの頭に手を置いた。
「行けよ。お前は行かねばならん。——ここでの学びはここまでじゃ。次は、星脈学院で、人の中で、学ぶのじゃ」
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