第32話「兄の涙」
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セドリックは、嘘をつかなかった。
「母上が死んだのは、お前のせいじゃない」——その言葉を、セドリックは言わなかった。言えなかった。レインの戦略と侯爵の報復の間に、因果関係があることは、十二歳のセドリックにも分かっていた。
だから——嘘はつかなかった。
代わりに、セドリックは話し始めた。暗い部屋の中で、弟の隣に座ったまま。
「母上はさ……俺が剣術で初めてブレイ教官に一本取った時、すごく喜んでくれたんだ。教官は『まぐれだ』って言ったけど、母上は『セドリックの努力の結果よ』って」
レインは黙って聞いていた。
「それから、お前が初めて古代語の碑文を翻訳した時——母上、本当に驚いてたぞ。『あの子はどこまで行くのかしら』って、父上に言ってた。心配そうだったけど……嬉しそうでもあった」
セドリックの声が——震え始めた。
「俺はな。あの日のこと、ずっと覚えてるんだ。いや、あの日だけじゃない。いっぱいあるんだ。小さい頃、俺が一本木で剣術の型を失敗して、悔しくて叩いてた日。母上は来て、『できなかったから明日があるんよ』って言ってくれた。その後、毎日付き合ってくれたんだ。朝日の中で。母上は剣術が下手だから、ただそばに立ってくれてただけなんだけど……」
セドリックの声が詰まった。
「お前が古代語で碑文を解いた時、母上は本当にすごい顔してた。感動してた。『セドリック。お前の弟の才、どこから来たんだろう。きっと遠いところから、来たんだわ』って言ってた。その時、俺はな……兄として、悔しかった。でも同時に誇らしかった。こんなに賢い弟がいるって。母上に『見守りなさい。賢い子には、別の形での強さが必要なのよ』って言われた。その言葉の意味は、後になってわかった」
「母上は——お前のこと、誇りに思ってた。俺のことも。二人のことを……いつも見てくれてた」
涙が——セドリックの頬を流れ落ちた。
「俺だって……辛いよ。母上がいないの。朝起きて、台所に母上がいないんだ。いつも歌ってたのに。上着を繕ってくれたのに。俺が怪我すると、怒りながら薬を塗ってくれたのに——」
セドリックの声が途切れた。泣いている。声を殺さず、隠さず。十二歳の少年が、母を失った悲しみをそのまま外に出している。
レインは——その涙を見ていた。
なぜ泣けるのか、分からなかった。涙を流しても母は戻らない。悲しみを口にしても状況は変わらない。非合理的だ。無意味だ。
しかし——セドリックは泣いている。
強いはずの兄が。稽古で負けても翌日には笑っていた兄が。剣を振り続ける兄が。今、弟の隣で泣いている。
セドリックの肩が上下する。呼吸さえも涙で満たされている。その姿を見ていると、何か冷たいものが、レインの心の奥に落ちてくる感覚がした。思考が追いつかない領域がある。感情というものが——数式では解けない何かがある。
前世の蓮は、泣くことを選ばなかった。泣く暇があれば動け、泣く感情があれば成果に変えろ。そう自分に言い聞かせてきた。四十七年間、涙腺を制御していた。その習慣は、転生後も変わらなかった。
でも。
セドリックは泣いている。自分の兄は、子供のように泣いている。母を失った、ただそれだけで。計算も企図もなく。純粋に、悲しいから泣いている。
「レイン」
泣きながら、セドリックが言った。
「一人で背負うなよ。——お前は、いつも一人で全部やろうとする。でもな……母上は、それを一番心配してたんだぞ」
エレナの言葉が蘇った。「賢いだけの人は、いつか一人になるわ」。
そして——もう一つの言葉。エレナの最後の言葉ではない。馬車の中で、レインの肩にもたれかかった時に母が言った言葉。「まだまだ軽いわよ。——もう少し食べなさいね」。何気ない言葉。日常の言葉。もう——聞けない言葉。
何かが——砕けた。
レインの胸の中で、三日間凍りついていたものが、音を立てて砕けた。分析の壁が崩壊した。変数も論理も、すべてが流れ去った。残ったのは——
「……セドリック兄さん」
声が震えた。四十七年分の重みを乗せた、十歳の声。
「俺が……俺が母さんを……」
「お母さん」ではなかった。初めて——「母さん」と呼んだ。敬語が剥がれた。前世の言葉遣いでもない。ただの子供の声だった。
涙が溢れた。
堰が決壊した。四日間、必死に堤防を作ってきた——その堤防が、セドリックの言葉で決壊した。
目から、鼻から、全てが溢れ出す。呼吸ができない。喉が痛い。涙の塩辛さが口に流れ込む。見たことのない感覚だ。前世での泣くことの定義は、この——この圧倒的な無秩序を指していたのか。
声が出た。叫びのような、嗚咽のような、何とも名づけようのない声。十歳の小さな体からは考えられない、深い悲鳴。十年分と四十七年分が混在した、人生の底からの叫び。
セドリックがレインを抱きしめた。十二歳の腕は、十歳の弟を包み込むには細い。しかし——その腕は、離さなかった。
セドリックの肩も揺れている。兄も泣いている。その涙がレインの髪に落ちてくる。その温度を感じながら、レインは泣き続けた。
「泣いていいよ」
セドリックの声も泣き声だった。
「泣いていいんだ、レイン」
二人は抱き合って泣いた。暗い部屋の中で。月明かりだけが差し込む部屋で。兄と弟が、母を失った悲しみを——分け合った。
どちらの泣き声が誰のものか、もはや分からなかった。混在する嗚咽。共鳴する悲鳴。一つの悲しみが、二つの身体を貫いている。
母の死という現実の前では、年齢も立場も関係ない。十二歳も十歳も、すべてが等しく小さい。すべてが等しく、無力だ。
泣くことは何も解決しない。涙で母は戻らない。論理的には無意味だ。
しかし——その無意味が、何かを変えていた。
しかし——泣いた後、胸の中の何かが変わっていた。重さが消えたのではない。重さは同じだ。いや、むしろ、より重くなった気さえする。涙を流し、声をあげた分、悲しみがより深く、より明確に、意識に刻み込まれた。
しかし——一人で持っていた重さを、二人で持っている。それだけで、重さの質が変わった。
一人で抱える母の死は、冷たく、硬く、逃げ場のない重さだった。しかし、セドリックと共に抱える母の死は、温かく、柔らかく、二つの心で支えられている。分かち合うことで、完全な解決ではなくても、少しだけ——息ができるようになった。
どれくらい泣いたか分からない。時間感覚が失われた。泣く行為に没頭する中で、世界の輪郭が曖昧になった。あるのは、セドリックの温もりと、涙の塩辛さと、共鳴する二つの嗚咽だけ。
気づいた時、セドリックは眠っていた。レインの肩に頭を預けたまま、子供の寝息を立てている。泣き疲れたのだろう。
レインは目を閉じた。涙の跡が頬にこびりついている。鼻が詰まっている。髪も湿っている。みっともない顔だろう。みっともない体だろう。しかし——拭く気力もなかった。いや、それ以上に、このままでいたかった。セドリックの重さを感じながら。共に泣いた痕跡を、体に刻み込むように。
胸の中の重さは、変わっていない。母の死という事実は、消えていない。しかし——その重さの形が、変わった気がした。一人で抱えていた時とは違う、何か柔らかい形に。
これが「共有する」ということなのか。
まだ分からない。しかし——分からないまま、体が先に動いた。泣くことを選んだのは、頭ではなかった。セドリックの隣にいたから、壁が壊れた。
理屈では——ない。
理屈ではないものが、世界には確かにある。それは、兄弟の温もり。それは、共に流した涙。それは、人間にしかできない、脆く、尊いもの。
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