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第31話「閉ざされた扉」

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 葬儀から三日後、レインは自室に閉じこもった。


 食事を取らなかった。水は飲んだ。しかし食べ物は受け付けなかった。使用人が持ってくる食膳を、手もつけずに返した。窓は開きっぱなしで、晩冬の冷たい風が部屋に吹き込んでいた。放置された部屋は、次第に凍るような寒さに包まれていった。しかしレインはそれに気づかないのか、気づいても構わないのか、窓を閉じることはなかった。


 机の上には紙が散乱している。ハルヴェス侯爵家への告発文書の草案。証拠の整理。法的手続きの手順。傭兵の出自の分析。カルドゥス鉄盟の傭兵市場に関する考証。三日間、ほぼ眠らずに書き続けた。


 部屋の隅に、エレナが繕ったセドリックの上着があった。あの馬車の中で、母が縫っていたもの。襲撃の後、誰かが持ち帰ったのだろう。針が途中で止まっている。もう——続きを縫う人はいない。


 しかし——文字が歪んでいる。


 最初の一日目は整然としていた。いつものレインの、正確で端正な字。二日目から乱れ始めた。三日目には——読めない字が混じるようになった。


 レインは気づいていなかった。自分の手が震えていることに。


 頭の中で、分析が回り続けていた。


 ——侯爵の報復確率は。ハルヴェス家の傭兵雇用ルートは。カーラ家併呑時と同じ手口なのか。法的に立証するには何が必要か。トーマス領主に協力を仰ぐタイミングは。カルロに追加情報を依頼すべきか——


 分析が止まらない。止めてはいけない。止めたら——。


 止めたら、母の顔が来る。


 最後の表情。血。冷たくなっていく手。「優しい子よ」という声。あの声が——頭の中で反響する。何度も。何度も。


 だから分析を続ける。分析している限り、母の声は遠くなる。


 三日目の夜。


 レインは机に突っ伏していた。眠ったのか、意識が途切れたのか分からない。目を開けると、蝋燭が燃え尽きて部屋が暗かった。机の周りには無数の紙片が散乱している。推敲途中の文章、計算の跡、消された図表——自分がどれだけの時間をここで費やしたのかの証拠が、床を埋め尽くしていた。


 月明かりが窓から差し込んでいる。二つの月。大きな青白い月と、小さな赤みがかった月。その光が散乱した紙に反射し、部屋全体を薄紫色に染めていた。母が死んでも、月は変わらずそこにある。月光だけが、この三日間の執筆に付き添った唯一の証人だった。


 冷たい風が窓から流れ込み、床の紙をわずかに躍らせる。その音——紙と紙がこすれあう微かな音が、やけに大きく聞こえる。凍えるような部屋の中で、その音だけが、自分がまだ生きていることを告げていた。


 レインの唇が動いた。


 「——何が変数だった」


 闇の中で、自分の声がやけに大きく響いた。


 「侯爵の報復確率を過小評価した。屈辱という変数を計算に入れなかった。人間の感情は非合理的だ。利害だけでは——予測できない」


 独り言。分析の声。暗い部屋の中で、自分の声だけが反響する。


 分析している限り、正気を保てる。変数と論理の世界にいる限り、感情の洪水に飲まれない。これは前世で学んだ生存術だ。鷹司蓮が四十七年間かけて完成させた、心を守る方法。


 しかしその分析の奥で——別の声が叫んでいた。


 お前が殺した。


 お前が交渉しなければ。お前が侯爵を追い詰めなければ。お前が賢くなければ——母は死ななかった。


 「違う——」


 違わない。


 前世と同じだ。前世の妻が泣いた時、蓮は分析した。「何が問題か」を考えた。前世の子供が悩みを抱えた時、蓮は解決策を探した。別の学校に移すか、専門家の支援を入れるか。——しかし問題は「解決策」ではなかった。妻も子供も、求めていたのは、ただ「そばにいること」だった。温もりだけで十分だった。それなのに、蓮が与えたのは分析と計画と勝利ばかり。


 それを——ヴァルターに教わった。エレナに教わった。セドリックに教わった。


 しかし教わっても——できなかった。結局、計画を立て、交渉し、勝つことしかできなかった。そしてその「勝ち」が——母を殺した。


 レインは頭を抱えた。


 机の上の紙を、一枚、また一枚と床に落とした。証拠の整理。告発文書。法的手続き。全部——紙切れだ。紙に何を書いても、母は戻らない。


 「関わった人間が、不幸になる」


 闇の中で呟いた。


 前世でもそうだった。妻も、息子も、部下たちも。そして今——エレナ。


 「俺が——関わらなければ」


 窓の外で、夜風が鳴った。東からの風。レインは風紋読みで、無意識にその風を解析した。星脈の流れに異常はない。気温は平年より低い。——何の意味もない情報だ。しかし頭は止まらない。止まれない。


 母が死んだ夜も、こうして風が鳴っていた。あの時も分析していた。敵の数、装備、配置——分析している間は、母の血の温度を忘れていられた。


 扉を叩く音がした。


 レインは答えなかった。


 「レイン。——俺だ」


 セドリックの声だった。


 レインは黙っていた。扉を開ける気力がなかった。いや——開けたくなかった。セドリックに顔を見せたくなかった。母を殺した弟の顔を。


 「レイン。三日も何も食べてないだろ。——開けてくれ」


 「……一人にしてください、セドリック兄さん」


 沈黙があった。


 「嫌だ」


 セドリックの声は——震えていた。しかし、退かなかった。


 「俺も母上がいなくなって……辛い。でも——お前まで閉じこもったら、俺はどうすればいい」


 レインの手が止まった。


 「父上は……もう三日、書斎から出てこない。ブレイ教官は自分を責めて口を利かない。ヴァルター先生は毎日来てくれるけど、お前に会えないって——」


 セドリックの声が詰まった。泣いている。扉の向こうで。


 「俺は——一人で母上を悼むのが、嫌なんだ。レイン。頼むから。——開けてくれ」


 レインは扉を見つめていた。


 十二歳の兄が、扉の向こうで泣いている。母を失った悲しみを、一人で背負えなくて。弟に——助けを求めている。


 強いはずの兄が。いつも真っ直ぐで、迷わないはずの兄が。


 レインの手が——扉の取っ手に伸びた。体が先に動いた。頭ではなく。


 扉を開けた。


 セドリックが立っていた。目が赤い。頬に涙の跡がある。しかし——弟の顔を見た瞬間、泣き顔の中に安堵が浮かんだ。


 「……入って」


 レインの声は、掠れていた。三日間、ほとんど声を出していなかった。


 セドリックが部屋に入った。散乱した紙を見て、何も言わなかった。椅子に座ることもせず、レインの隣で床に座った。


 二人きりの、暗い部屋。月明かりだけが窓から差し込んでいる。


 セドリックが——レインの肩に、そっと頭を預けた。


 「……何も言わなくていい。ただ——ここにいてくれ」


 それは——レインがかつてセドリックにしたことと、同じだった。あの夜、稽古で負けて落ち込んだ兄の隣に座った。ただ座っていただけだ。


 今、その兄が——弟のそばにいる。


 レインの目が——熱くなった。


 分析の壁に、罅が入った。ヴァルターの言葉の時と同じだ。しかし今度は——壁が修復されなかった。セドリックの体温が肩越しに伝わってくる。兄の震えが伝わってくる。悲しみが——共鳴する。


 自分一人では泣けなかった。しかし——隣に誰かがいると、壁が保てない。


 それは弱さだろうか。


 弱さだ、と前世の蓮なら答えただろう。しかし今のレインには——その答えが正しいとは思えなかった。


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