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第30話「灰になる世界」

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 葬儀の日は、晴れていた。


 残酷なほど、晴れていた。空は青く、風は穏やかで、丘の上からはアルヴェス領の田園が一望できた。エレナが好きだった風景。エレナが好きだった空。


 墓地はアルヴェス家の敷地の東、小さな丘の麓にあった。歴代の領主とその家族が眠る場所。そこに、新しい墓標が一つ増えた。


 エレナ・アルヴェス。享年三十四。


 掘り返された土の香りが、レインの鼻腔をくすぐる。この季節の土は湿った香りがしている。春の息吹と腐植の匂い。生と死が同じ香りで織り交ぜられている。祭司の唱える祈りの言葉は、風に流されて、耳にはっきり届かない。意図的に聞き取ろうとしていないのかもしれない。


 領民たちが列をなしていた。エレナは領民に好かれていた。市場で買い物をし、子供たちに声をかけ、病人には自ら薬草を届けた。ベルタ婆さんが泣いていた。「あんないい奥方は、もう来ないよ」と。


 グレンは墓標の前に立っていた。


 動かなかった。泣きもしなかった。ただ——立っていた。石像のように。顔には何の表情もなかった。怒りも悲しみも、何も。手だけが——拳を握りしめていた。白くなるほど。


 「家族を守る」。それがグレンの生きる原理だった。ヴァルターがかつて語った通り、グレンの行動はすべて「家族を守る」に帰着する。しかし今——守れなかった。守るべき人を、最も近い場所で失った。


 あの不器用な父が、何を考えているのか——レインには分からなかった。分からないこと自体が、レインの限界を示していた。


 セドリックは泣いていた。声を殺して、しかし止められずに。十二歳の少年の肩が震えている。隣にいたブレイ教官が、包帯を巻いた腕でセドリックの肩に手を置いた。守れなかった者の手が、遺された子供を支えている。


 レインは——泣けなかった。


 涙が出ない。目は乾いている。心の中で、何かが凍りついたまま溶けない。


 分析が始まっていた。自動的に。止められない。


 ——襲撃者の装備から推測される出自。鎧の紋章は削り取られていたが、鍛造の特徴はカルドゥス式。鉄盟の傭兵市場で流通する規格品。カルドゥスの傭兵を雇えるのは、相当の資金力を持つ貴族に限られる。ハルヴェス侯爵家の関与はほぼ確実。しかし直接的な証拠がない。


 紋章を削るという手間をかけている。足がつかないよう、周到に準備している。つまり——偶発的な犯行ではない。計画された報復だ。


 証拠を得るには——カルロのソレイユ情報網を使うか。あるいはトーマス領主を通じて、カルドゥス鉄盟の傭兵登録記録を照会するか。


 思考が走る。走り続ける。


 分析している限り、向き合わずに済む。母が死んだという事実に。自分が殺したという事実に。


 自分のせいではない——という言い訳も、頭の中を流れた。しかしすぐに否定した。侯爵を交渉で追い詰めたのはレインだ。報復の可能性を計算に入れなかったのもレインだ。「保留」の裏にある殺意を読めなかったのもレインだ。


 「人間は合理的に動く」——前世からの信念が、致命的な盲点を作った。


 侯爵は合理的ではなかった。屈辱に駆られていた。十歳の子供に追い詰められた怒り。それは利害計算を超えた、感情の暴走だった。


 感情を読めなかった。


 人の心が分からなかった。交渉の場で相手の「利害」は読めた。しかし「怒り」は読めなかった。利害を超えた感情の動きを、レインの分析は捕捉できなかった。


 ヴァルターは警告していた。「追い詰められた獣は噛みつく」と。しかしレインは「合理的に考えれば撤退するはずだ」と判断した。合理性の外にある変数を、軽視した。


 二度目の人生でも、変わっていなかった。前世の妻が見せた涙の意味を「分析」しようとして、結局分からなかった。あの時も。今も。心が何を求めているのか。言葉にならない悲しみが、何を欲しているのか。四十七年の社会経験も、転生後の十年も、それを教えなかった。


 葬儀が終わり、人々が去った後も、レインは墓標の前に立っていた。


 夕暮れが来た。空が赤く染まっていく。エレナが好きだった夕焼け。あの丘で四人で見た夕焼け。もう——三人しかいない。


 グレンが近づいてきた。


 「レイン。中に入れ」


 「はい、父上」


 従順に答えた。声に感情がない。自分でも分かっている。しかし感情を出す方法が——分からない。


 部屋に戻り、机に向かった。何をすればいいか分からなかった。しかし何かをしていなければ、考えが止まる。考えが止まれば——母の顔が浮かぶ。最後の表情。血に塗れた白い服。冷たくなっていく手。


 部屋の中は静寂に包まれていた。外では領民が帰宅する足音がしていた。いつもと同じ日常。いつもと同じ夕暮れ。それなのに自分だけが、別の世界に取り残されているような感覚。


 ペンを取った。その感覚に手が走る。紙に文字を刻む。行為そのものが、自分をこの世界に繋ぎ止める綱だった。


 「ハルヴェス侯爵家との関連性の検証」


 紙の上に、見出しを書いた。


 書き始めた。襲撃者の特徴。装備の分析。侯爵家の動機と機会。法的に告発するために必要な証拠の一覧。


 書いている間は、考えずに済んだ。


 ヴァルターが部屋に来た。いつ来たのかは分からない。気づいた時には、老師が椅子に座っていた。


 「何を書いておる」


 「……証拠の整理です」


 ヴァルターは紙を一瞥し、深い溜息をついた。


 レインはペンを止めなかった。


 「犯人を特定すれば、国王裁定に持ち込めます。侯爵家の——」


 「レイン」


 ヴァルターの声が、静かに響いた。老師の声は——悲しみに満ちていた。レインに対する悲しみ。


 「お前は——泣けんのか」


 「……泣いて何になりますか」


 声が——冷たかった。自分の声だと思えなかった。しかしそれ以外の言葉が出てこなかった。


 泣いて母が戻るなら泣く。しかし涙は何も変えない。ならば——次の一手を考えるべきだ。


 それが、鷹司蓮の四十七年間が教えた処世術だった。感情を殺し、分析し、行動する。どんな状況でも。


 ヴァルターは長い間、レインを見ていた。


 「……お前は、まだ泣き方を知らんのじゃな」


 老師の声が震えていた。二十年前に妻を失った男の声。そしてその悲しみから二十年間逃げ続けた男の声。


 ヴァルターは何も言わず、しばらく椅子に座っていた。レインはペンを動かし続けた。紙の上に、整然とした文字が並んでいく。証拠。分析。計画。


 「——エレナ殿は、お前のことを誇りに思っておった」


 ヴァルターの声が、不意に聞こえた。


 レインのペンが——止まった。


 「あの方は、お前の賢さを心配しておった。しかし同時に——お前の中にある温もりを、誰よりも信じておった。わしにそう言うたことがある」


 レインの手が震え始めた。ペンが紙の上で引っ掻き傷のような線を描く。


 「『あの子は大丈夫。温かい心がある。まだ気づいていないだけ』——あの方の、言葉じゃ」


 ペンが落ちた。


 レインは——何も言えなかった。何も考えられなかった。分析の壁が、一瞬だけ罅入った。しかしすぐに——壁は修復された。


 ペンを拾い上げ、書き続けた。


 ヴァルターは静かに立ち上がり、部屋を出た。


 窓の外で、最後の夕光が消えていく。部屋が暗くなる。蝋燭を灯さなければ。しかし——体が動かなかった。


 暗闇に目が慣れ始めた時、紙の上の文字は見えなくなっていた。ペンの先端が何を引いているのか。証拠なのか、単なる傷跡なのか。判別ができない。


 ペンを持つ手だけが、機械のように動き続けていた。暗闇の中で。もう何を書いているのか、自分でも見えないまま。その手だけが、一人の少年を人間として保ち続けていた。分析を。論理を。行為を。すべてを失うことから、かろうじて守っていた。


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