第3話「思い出の棘」
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二つの月がある世界で、二度目の春が来た。
頭の中の霧は、まだ完全には晴れていなかった。
しかし以前のように何もかもが曖昧な靄に包まれているわけではない。
日々の感覚は鮮明になり、周囲の言葉はほぼ聞き取れるようになり、自分が「普通の赤子ではない」という確信だけは、もう揺るがなくなっていた。
二歳。
この体の年齢を、暦と周囲の会話から逆算して把握していた。
歩けるようになったのは数ヶ月前だ。
足を踏み出す感覚は新鮮だった。
頭では「歩く」という動作を知っているのに、体がそれを覚えるまでに時間がかかる。
知識と身体の乖離。
この世界に来てから、何度もぶつかっている壁だった。
言葉はまだ片言しか出せない。
舌と喉の筋肉が追いついていない。
頭の中では完全な文章が組み立てられるのに、口から出るのは幼児の不明瞭な音ばかりだ。
もどかしい。
しかし焦りはなかった。
この体の成長に合わせて、できることは増えていく。
時間は──ある。
ここには、ゆっくりと流れる時間がある。
* * *
兄は、よく来た。
セドリック。四歳。
茶色い髪を短く刈り込んだ、日に焼けた少年。
──少年というには小さすぎるが、弟に対しては完全に「兄」の顔をしていた。
「レイン、見て!」
その日もセドリックは、部屋に駆け込んできた。
手に何かを握りしめている。
母に叱られないようにか、靴は脱いでいたが、泥のついた足跡が石の床に点々と残っていた。
セドリックが手のひらを開く。
そこにあったのは、小さな木彫りの馬だった。
不格好で、首が曲がっていて、脚の長さもばらばらだ。
しかし馬であることは分かる。
たてがみの部分だけ、妙に丁寧に彫り込まれていた。
「父上に教えてもらって、作ったんだ! レインにあげる!」
差し出された手。
歯の欠けた笑顔。
得意げに目を輝かせて、弟の反応を待っている。
──その笑顔を見た瞬間、頭の中で何かが弾けた。
霧が、裂けた。
裂け目の向こうに、映像が流れ込んできた。
鮮烈な色彩を持った、紛れもない「記憶」が。
* * *
リビングだった。
マンションの、広くはないリビング。
窓の外は夕暮れで、オレンジ色の光がフローリングに長い影を落としている。
テレビの横に、幼稚園の制服が掛かっていた。
小さな男の子が、こちらに向かって手を伸ばしていた。
翔太。五歳くらいの翔太だ。
丸い頬。まだ赤ん坊の名残が残る柔らかい顔。
その手に握られていたのは──粘土で作った、何かの動物。
犬か、猫か。
幼い手が捏ねた歪な形。
「パパ、見て! 幼稚園で作ったんだよ!」
同じだ。
あの笑顔と、この笑顔が同じだ。
何かを作って、誰かに見せたくて、認めてもらいたくて、全力で笑っている子供の顔。
あの時、俺は何をした。
記憶の中の自分──鷹司蓮は、書斎にいた。
ノートパソコンの画面を見つめ、電話を耳に当てていた。翔太の声が聞こえている。
しかし蓮はパソコンの画面から目を逸らさなかった。
「パパ、見てってば!」
翔太が袖を引っ張った。
粘土の動物を、蓮の視界に割り込ませるように掲げた。
蓮は電話口に「少し待ってくれ」と言い、翔太を見下ろした。
「翔太、今パパは仕事中だ。後にしてくれ」
「でも、見てほしいの!」
「後でな」
一言。それだけだった。
視線はすぐにパソコンに戻った。
電話の相手に「すまない、続けてくれ」と言った。
翔太の手が、ゆっくりと下がった。
粘土の動物が体の横に落ちる。
その時の翔太の顔を、蓮は見ていなかった。
見なかった。画面の数字の方が重要だった。
次の四半期の事業計画が、五歳の息子の粘土細工より重要だった。
後で見てやったのか?
──覚えていない。
おそらく、見なかった。
翌日も仕事が忙しかったはずだ。翌々日も。
いつの間にか翔太は粘土細工を見せに来なくなった。
見せに来なくなったことに、蓮は気づかなかった。
* * *
記憶が途切れた時、世界が歪んでいた。
涙が出ていた。
赤子の──いや、幼児の体が、勝手に泣いていた。
制御できない。感情が体を突き抜けて、泣き声になって溢れ出ている。
視界の端で、セドリックが立ち尽くしていた。
木彫りの馬を握ったまま、目を丸くしている。
自分が何か悪いことをしたのだと思ったのだろう、唇が震えている。
「レ、レイン? ごめんね、怖かった?」
違う。お前のせいじゃない。
言いたかった。しかし口が動かない。
泣き声が喉を塞いでいて、言葉にならない。
幼児の体は、感情の奔流を制御する術を持っていなかった。
足音が響いた。
母が来た。
エレナが膝をつき、泣いているレインを抱き上げた。
温かい腕が体を包む。
銀の髪が頬に触れた。花のような──いつもの、あの香りがした。
「どうしたの、レイン? 大丈夫よ。お母さんがいるわ」
穏やかな声。
叱るでもなく、問い詰めるでもなく、ただ「ここにいる」と告げる声だった。
その声に、記憶の断片が重なった。
──美咲は、泣いている翔太をどうしていたのだろう。
俺が書斎から出てこなかった夜。
翔太が粘土細工を見てもらえなかった日。
運動会に俺が来なかった午後。泣いている翔太を抱き上げて、「大丈夫よ」と言っていたのは──いつだって美咲だった。
美咲は、今この腕がしていることを、毎日やっていたのだ。
泣いている子供を抱き上げる。
そばにいると伝える。
それだけのことが、どれだけ大きな意味を持つのか。
俺は知らなかった。
知ろうとしなかった。
「甘やかすな」「泣いても仕方がない」──そう言って、書斎のドアを閉めた。
何度も、何度も。
エレナの腕の中で、泣き声が少しずつ収まっていく。
心臓の鼓動が耳に届く。規則正しく、温かい音だ。
──この声は、前世の妻の声ではない。
だが──温かい。
この温かさを、前の俺は知らなかった。
美咲が息子に与えていた同じ温かさが、すぐ隣にあったのに。
あの頃の俺には、それが見えなかった。
泣き止んだ後も、エレナはしばらくレインを抱いたままだった。
揺らすでもなく、何か言うでもなく、ただ抱いていた。
視線を動かすと、セドリックがまだ立っていた。
木彫りの馬を両手で握りしめて、心配そうにこちらを見ている。
泣きそうな顔をしていた。
弟を泣かせてしまったと思っているのだろう。
レインは小さな手を伸ばした。
声はまだうまく出ない。
代わりに、セドリックが持っている馬に指先を触れさせた。
セドリックが顔を上げた。
「……ほしい?」
頷いた。小さく、ぎこちなく。
セドリックの顔に、さっきと同じ笑顔が戻った。
歯の欠けた、全力の笑顔。木彫りの馬を、レインの手にそっと載せた。
「あげる! 僕が作ったの!」
不格好な馬は、幼児の手のひらに丁度よく収まった。
軽い。木の匂いがする。たてがみの部分だけが妙に丁寧で、そこにだけ、四歳の少年の精一杯が詰まっていた。
──翔太の粘土細工も、こんなふうに軽くて、不格好で、精一杯だったのだろうか。
見なかった。
確かめようがない。
あの粘土細工がどうなったのか、俺は知らない。
捨てられたのか。美咲が取っておいたのか。
翔太がいつまで覚えていたのか。
何も知らない。
小さな指が木の馬を握る。
痛みがあった。胸の奥に、鋭い棘が刺さったような痛みが。
泣きたいのか、怒りたいのか、自分でも分からない。
ただ痛い。
この痛みが何を意味するのか、まだ答えはなかった。
しかし一つだけ、はっきりと分かることがあった。
この不格好な馬を、俺は──受け取れた。
翔太の粘土細工を見なかった俺が、セドリックの木彫りの馬を受け取ることができた。
それが正しいことなのか。
救いなのか、罰なのか。
分からない。
エレナの腕の中で、木の馬を握りしめたまま、レインは目を閉じた。
まぶたの裏に、二つの笑顔が重なっている。
木彫りの馬を差し出すセドリックと、粘土の動物を掲げる翔太。
四歳の兄と、五歳の息子。
──ふと、手のひらが温かくなった。
木の馬を握っている手。
指先に、微かな熱がある。木の温もりとは違う。
あの夜──二つの月を見た夜に、空を走る光に胸の奥が脈打ったのと、似ている気がした。
気のせいかもしれない。二歳の体は疲れていて、感覚が曖昧だ。
しかし、手のひらの熱は消えなかった。
この子たちは──俺の「家族」なのか。
そして、この体の中で目覚めかけている「何か」は──一体、なんだ。
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