第29話「母の盾」
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二度目の襲撃は、最初のものとは違っていた。
森の中で最初の襲撃者たちを退けてから三日後。護衛兵二人は最初の襲撃で一人が死に、もう一人が重傷で馬車に横たわっている。ブレイ教官は左腕の傷を包帯で固定しながら、帰路を急がせていた。「ここで留まれば、次が来る。動き続ける方がまだ安全です」。老兵の判断だった。最寄りの町に伝令を出す案もあったが、敵がこの街道を監視している以上、伝令が途中で捕まる危険がある。アルヴェス領の境界まであと半日。たどり着けば、領地の巡回兵と合流できる。御者は肩の傷で操縦が覚束なくなり、ブレイ自身が手綱を取った。
レインは馬車の中でエレナの隣に座っていた。母は平静を保っていたが、レインの手を握る指の力が強かった。その力は——恐れから来ているのか、レインを離すまいとする意志から来ているのか。
街道は森を抜け、開けた丘陵地帯に入ろうとしていた。アルヴェス領の境界まであと半日という地点。安全圏はもう近い——はずだった。
馬車が止まった。
街道の両側に、人影があった。
今度は八人ではない。十五人以上。そしてその中に——鎧を纏った者がいた。傭兵ではない。正規の訓練を受けた兵士の動きだ。
ブレイ教官が馬車から降りた。左腕の傷はまだ完全には癒えていない。包帯の下で傷口が開いたのか、布に赤い染みが広がっている。しかし老兵は剣を構え、盾を持ち上げた。その目に迷いはなかった。
レインは風紋読みで敵の位置を探った。左に七つの気配。右に八つ。そして——後方にも二つ。退路が断たれている。前回の襲撃から学んでいる。逃がさない布陣。
「奥方。坊ちゃん。馬車から降りるな。何があっても」
「ブレイ」エレナの声が、馬車の中から響いた。「あなたに全てを任せます」
「承知」
ブレイが動いた。
レインは馬車の隙間から外を見ていた。風紋読みで、敵の配置を感じ取ろうとする。しかし——数が多すぎる。左右に七人ずつ。後方にも回り込んでいる。完全な包囲。
前回とは規模が違う。前回は「脅し」だったのかもしれない。今回は——本気だ。
ブレイが最初の二人を斬り伏せた。老兵の剣は速い。三十年の軍務で磨き上げた刃は、躊躇なく敵を穿つ。しかし三人目を斬った時、別の方向から矢が飛んだ。ブレイの太腿に矢が刺さった。
「——っ!」
老兵が膝をついた。しかしすぐに立ち上がり、剣を構え直す。
次の瞬間、左から三人、右から二人が一気に襲いかかった。ブレイは盾で一人を抑えながら、剣で次の敵を払うが——後ろから別の兵士が接近している。太腿の矢がブレイの動きを制限する。左腕の傷も響いている。包帯越しに血が滲み出ていく。
「来るな——」ブレイが馬車に向かって声を張った。自分の防御がもう精一杯だと分かっていた。
四人が重なるようにブレイに殺到する。盾に一人を背負い、剣で左右の敵を受け流し、しかし後ろから——もう一人。ブレイはその敵の刃を間一髪で受け止める。老兵の腕が悲鳴を上げている。五本の敵の刃が、自分の盾と剣に同時に重くのしかかっている。
このまま——押される。
レインの手が震えていた。星脈を吸収しようとする。しかし恐怖で集中が乱れる。吸収の第一段階すら安定しない。
——落ち着け。落ち着け。変数を整理しろ。
しかし頭の中の声は、体の震えを止められなかった。
四人目がブレイの防御を抜け、馬車に向かってきた。
エレナが動いた。
馬車の扉を開け、外に出た。
「お母さん!」
レインが叫んだ。しかしエレナはレインを馬車の奥に押し戻した。
「出ないで、レイン」
エレナの目は——真っ直ぐだった。恐怖がないわけではない。手が震えている。しかし目だけは——揺れていなかった。
母が、馬車の前に立った。
両手を広げ、扉を背にして。武器はない。術も使えない。ただの人間が、剣を持った男たちの前に立っている。
「この子に手を出さないで」
エレナの声は静かだった。しかし——その静けさの中に、何かがあった。交渉でも、懇願でもない。宣言。この子は渡さないという、絶対的な宣言。
男が剣を振り上げた。
レインは叫んだ。星脈を——。しかし間に合わない。脈路に力が戻るまでの数秒が。指先がしびれている。構築が——。
刃がエレナの体を貫いた。
音が消えた。
世界が——止まった。
レインの目が、すべてを捉えていた。刃の軌道。エレナの体がわずかに揺れる瞬間。銀の髪が風に舞う。血が——赤い血が、白い服に広がっていく。
刀身が抜かれた時、空気が音を取り戻した。その瞬間——全てが同時に襲いかかった。金属が肉を断ち切る音。母の息が引き込まれる音。敵の兵士が別の敵に倒される音。ブレイの剣がまだ戦っている。なのにレインの視界に映るのは、母だけ。母の貫かれた体だけ。
エレナの膝が折れた。ゆっくりと。スロー再生のように。親指ほどの穴が開いた白い布。その穴の周りに、じわじわと血が——いや、血が噴き出すのではなく、内側から溢れ出すような。服を滲ませ、広がっていく。血の色は、最初は明るい赤だった。それが、より深い赤に変わっていく。
「お母さん!」
レインは馬車から飛び出した。
エレナの体を受け止めた。しかし十歳の体では支えきれず、二人とも地面に崩れ落ちた。
血が——レインの手を濡らした。
温かい。母の血は、温かかった。
「お母さん! お母さん!」
叫んでいた。レインは——叫んでいた。
四十七年の人生で、こんな声を出したことはなかった。鷹司蓮は叫ばない人間だった。会議で声を荒らげたこともない。妻に怒鳴ったこともない。息子に声を上げたこともない。感情を表に出すことは、弱さだと信じていた。
しかし今——レインの口から出ているのは、十歳の子供の、理性の崩壊した叫び声だった。周囲で何が起きているかも分からない。ブレイが残りの敵と戦っているのかもしれない。新たな敵が来るのかもしれない。何も——分からない。母の体だけが、レインの世界のすべてだった。
エレナの目が開いた。
焦点が——ゆっくりと、レインに合った。
「レイン……」
血の混じった息。しかし声は、穏やかだった。あの夜の歌と同じ、穏やかな声。
エレナの手が上がった。震える指が、レインの頬に触れた。
「あなたは……賢いだけの子じゃないわ。優しい子よ。だから……大丈夫」
「やめて——喋らないで——先生を呼ぶから——」
レインの声が崩れていた。論理も分析も、何もかもが壊れていた。ただ母の体を抱きしめて、止まらない血を手で押さえて。しかし血は——指の間から溢れ出ていく。
「お母さん。お母さん……!」
エレナの指が、レインの頬から滑り落ちた。
ゆっくりと。時間を引き延ばすように。
その指を、レインは掴もうとした。両手で。しかし——指が滑る。血で濡れた手では、何も掴めない。
エレナの目が閉じた。唇が、かすかに動いた。何かを——言おうとしている。最後の言葉。
しかし——聞き取れなかった。風の音に消えた。あるいは、レイン自身の叫び声に。あるいは——もう、声にならなかったのか。
「お母さん——お母さん——」
同じ言葉を繰り返した。他の言葉が出てこなかった。四十七年分の語彙が、全て消え去っていた。残ったのは——子供が母を呼ぶ、その一言だけだった。
手が——冷たくなっていく。
さっきまで温かかったのに。さっきまで髪を撫でてくれた手が。歌を歌ってくれた口が。「おかえりなさい」と言ってくれた声が。
すべてが——止まった。
森の中で、鳥の声がしていた。風が木の葉を揺らしていた。世界は何も変わっていない。
しかしレインの世界は——壊れた。
どれくらいの時間が経ったのか分からない。
気づいた時、ブレイが傍にいた。老兵の体は血だらけだった。自分の血か、敵の血か。ブレイがレインの肩に手を置き、何かを言っている。しかし——聞こえない。世界から音が消えていた。
レインの手は、エレナの手を握ったままだった。冷たい手。さっきまで——ほんの少し前まで——温かかった手。髪を撫でてくれた手。頬に触れてくれた手。
指を離すことが——できなかった。
空が赤く染まり始めていた。夕焼け。母が好きだった、夕焼け。
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