第28話「森の中で」
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それは、帰路の二日目に起きた。
トーマス領からの帰り道。エレナとレイン、護衛のブレイ教官と二人の護衛兵、そして御者。馬車は東部街道を南に下り、アルヴェス領との境界にある森の中を進んでいた。アルヴェス領まであと一日半ほどの地点。
午後の陽が木々の間から差し込んでいる。鳥の声。風に揺れる葉の音。穏やかな森だった。
レインは馬車の中で、ヴァルターから借りた古代語の碑文を読んでいた。ハルヴェス家が「保留」を解除した場合に備え、追加の法的根拠を準備しておきたい。エレナは向かいの席で、縫い物をしている。セドリックの上着の繕い。あの兄はすぐに服を破る。ブレイ教官との稽古が激しくなっているのだろう。
森の街道は静かだった。木々の間を通る風が、葉を揺らしている。レインは風紋読みで周囲の気配を探った。習慣になっていた。星脈の流れに異常はない。動物の気配がいくつか。人の気配は——ない。
「レイン。少し休みなさい。目が疲れるわよ」
「もう少しだけ」
「いつもそう言うのよね」
エレナの声に、呆れと愛情が混じっている。レインは碑文から目を上げて、母の顔を見た。窓から差し込む光が、エレナの銀の髪を照らしている。穏やかな表情。
その時だった。
馬車が急停止した。
レインの体が前に投げ出される。碑文の紙が宙を舞った。エレナが反射的にレインの腕を掴み、引き寄せた。
「——何事だ」
ブレイ教官の声が、馬車の外で鋭く上がった。
街道の前方に、倒木が横たわっていた。大きな樫の木が、道を完全に塞いでいる。
——自然に倒れたものではない。
レインの目が、倒木の切断面を捉えた。鉈の跡。人為的に切り倒されている。
背筋が凍った。
「お母さん。伏せて」
「レイン——?」
森の中から、矢が飛んだ。
風を切る音。レインは風紋読みで矢の軌道を感じ取った。しかし「感じ取る」ことと「防ぐ」ことの間には、十歳の体では埋められない溝がある。
最初の矢はブレイ教官の盾に弾かれた。老兵の反応は見事だった。矢の音を聞いた瞬間に盾を構えている。しかし二本目と三本目は別の方向から——御者の肩と、護衛兵の一人の胸を同時に貫いた。御者が叫び、手綱を落とした。護衛兵が馬から崩れ落ちる。馬が暴れ、馬車が激しく揺れる。碑文の紙が床に散らばった。
「賊だ! 馬車を守れ!」
ブレイ教官が剣を抜いた。もう一人の護衛兵も剣を構えるが、森の左右から人影が現れる。八人。フードを被り、顔を隠している。
レインの頭が、瞬時に分析を始めた。
——装備が良すぎる。
「賊」の剣は、粗悪な山賊のものではなかった。統一された鍛造。鞘の金具も揃っている。動きも訓練されている。左右から挟撃し、退路を断つ陣形。
「山賊じゃない」
レインの声は冷静だった。しかし——手が震えていた。
「組織的な襲撃です。装備と陣形から見て、訓練を受けた傭兵です。左右から挟撃して退路を断つ——正規の戦術訓練を受けている」
分析が口をついて出る。止められない。恐怖を分析で塗りつぶそうとしている。頭が冷静でいられるのは——体が恐怖に支配されているからだ。
「レイン!」エレナの手が、レインの肩を掴んだ。強い力。「分析はいいから、座っていなさい!」
ブレイ教官ともう一人の護衛兵が、馬車の前で八人を相手にしていた。ブレイは最初の二人を素早く斬り伏せ、護衛兵も一人を退けた。しかし護衛兵の胴に刃が入り、男は膝をついた。残りはブレイ一人。三人目の突きを盾で受ける。しかし——数が多い。四人目がブレイの背後に回り込もうとしている。
レインは馬車の窓から手を伸ばした。
星脈を吸収する。地中の脈流から力を引き上げ、風相に変換し——
構築。圧縮空気の弾丸。ヴァルターの書庫で学んだ初歩の攻撃術。
しかし——力が足りない。
十歳の脈路は、まだ細い。吸収できる星脈の量に限界がある。構築した風弾は、大人の術師の三分の一の威力しかない。
放った。
風弾は四人目の襲撃者の腕を掠めた。男のフードが吹き飛ぶ。若い顔——傭兵だ。男がよろめいたが、すぐに体勢を立て直した。倒れない。
——威力が足りない。
ヴァルターの書庫で学んだ理論では、風弾は近距離なら人を吹き飛ばせるはずだった。しかし理論通りの出力を得るには、成人の術師の脈路が必要だ。十歳の脈路では、せいぜい拳ほどの衝撃しか生めない。
初めての実戦。初めての「力が足りない」。
ヴァルターの書庫で理論を学び、風紋読みで星脈を感じ、地図を作り、術式を設計した。頭の中では完璧だった。しかし実際に人を相手にした時——十歳の体は、頭が描いた計画を実行できない。
もう一発。吸収し直す。しかし脈路が軋む。一度に流せる量が足りない。変換にも時間がかかる。
五人目がブレイの脇をすり抜け、馬車に向かってきた。
「退け!」ブレイが叫んだが、三人を同時に相手にしていて動けない。
馬車の扉が蹴り開けられた。
フードの男が、剣を構えて立っている。その目が——エレナとレインを見た。
エレナが動いた。
レインが反応するより早く。母はレインの体を馬車の奥に押し込み、自分が前に立った。
「お母さん!」
「動かないで、レイン」
エレナの声は——静かだった。震えていない。母親が子供を守る時の、絶対的な静けさ。
男が剣を振り上げた。
レインは叫んだ。右手を突き出し、星脈を吸い上げようとする。しかし脈路は先ほどの風弾で空になっている。力が戻らない。指先が痺れたまま、何も起きない。
ブレイが背後から男を斬った。間一髪だった。男が崩れ落ちる。しかしブレイの左腕にも傷がある。血が滴っている。
「馬車から降りるな! 絶対に降りるな!」
ブレイが叫びながら、残りの襲撃者と対峙する。三人が残っている。ブレイは片腕を負傷した状態で、三人を食い止めている。
レインは震えていた。
頭は動いている。分析は止まらない。「ハルヴェス家の差し金だ」「この規模の襲撃は侯爵の直接指示」「目的はアルヴェス家の後継者の排除——いや、交渉の切り札であるレイン自身の排除」。
しかし——体が動かない。手が震えている。十歳の子供の体は、恐怖に支配されている。頭がいくら冷静でも、体は——子供なのだ。
エレナがレインを抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫よ、レイン」
母の腕の中で、レインは自分が泣いていることに気づいた。
——泣いている場合じゃない。分析しろ。対策を考えろ。逃走経路を考えろ。ブレイの戦力を計算しろ。援軍の可能性を——
しかし涙が止まらなかった。体が震えている。歯がかちかちと鳴っている。十歳の体は、頭の命令を聞かない。
外で剣戟の音が続いている。ブレイの怒号。金属がぶつかる音。そして——一人、また一人と、倒れる音。
やがて、静寂が来た。
「——終わった」
ブレイの声。荒い息。馬車の扉が開き、血に塗れた老兵の顔が見えた。左腕が赤く染まっている。しかし——立っている。
「お怪我は。奥方、坊ちゃん」
「私たちは大丈夫です」エレナが答えた。その声はまだ震えていなかった。しかし、レインを抱く腕だけが——かすかに、震えていた。
レインはブレイの向こうに見える森を見た。倒れた男たちの体。血。折れた剣。
そして——一人の男が、森の奥に走り去るのが見えた。生き残りだ。逃げていく。報告に戻るのだろう。誰に?
答えは——分かっていた。
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