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第27話「帰路」


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 ——この子は、いつから大人の目をするようになったのだろう。


 エレナは馬車の中で、眠りに落ちかけているレインの横顔を見ていた。


 ハルヴェス家との交渉報告のため、レインを連れて隣領のトーマス領を訪れた帰りだった。取引の展開と今後の盟約体制について、トーマス領主に説明する必要があった。同盟関係を深め、ハルヴェス侯爵の脅威に対する防衛網を構築するためだ。グレンは領地に残り、セドリックは稽古がある。エレナとレイン、護衛のブレイ教官と二人の護衛兵、それに御者の帰路。


 馬車が揺れる度に、レインの銀の髪が揺れる。エレナと同じ色の髪。しかしレインの髪は、光の加減で灰色に見える。エレナの銀とは、少しだけ違う色。


 「灰色の王冠」。ヴァルターがレインの髪をそう呼んだことがある。冗談めかして言ったが、老人の目は笑っていなかった。


 レインが初めて言葉を発した日のことを、エレナは覚えている。生後九ヶ月。普通の赤子なら、「まま」や「ぱぱ」が最初の言葉だ。レインの最初の言葉は——「つき」だった。窓の外の二つの月を指して。


 グレンは喜んだ。「この子は賢い」と。エレナも喜んだ。しかし同時に、胸の奥に小さな不安が芽生えた。赤子の目が、あまりにも——何かを知っている目をしていたから。


 あの時から、この子は他の子供とは違っていた。


 三歳で文字を読み、五歳でヴァルターの術式を理解し、八歳で星脈の地図を作り、十歳で侯爵家を退けた。天才。神童。周囲はそう呼ぶ。グレンは誇りと戸惑いを隠せない。ヴァルターですら、時折レインの才能に息を呑む。


 しかしエレナには、別の言葉が浮かぶ。


 孤独な子供。


 セドリックは違う。兄は明るく、素直で、人懐っこい。友達を作るのが上手く、領民の子供たちとも分け隔てなく遊ぶ。セドリックの周りにはいつも人がいる。レインの周りにはいつも——本がある。


 レインは笑わない子だった。微笑むことはある。しかし、声を上げて笑ったことが——何度あったか。セドリックは毎日笑う。転んでも笑い、負けても笑い、叱られても泣いた後に笑う。レインは——どこか遠くを見ている目をしている。いつも何かを考えている。そしてその「何か」を、家族にも見せない。


 夏の夜に母の歌を聴きたいと言ったあの時だけ——レインは子供の顔をしていた。膝の上で眠りかけた時の、あの安らかな寝顔。あの時だけ、レインは「何かを考えること」を止めていた。


 母親の直感がある。


 この子は——何かを背負っている。年齢にそぐわない重荷を。それが何なのか、エレナには分からない。星脈の才能のせいか。それとも——もっと深い何かか。


 レインの寝顔を見る。眠っている時だけ、この子は十歳の子供に見える。起きている時の、あの冷静で鋭い目。あれは子供の目ではない。もっと多くのものを見てきた——いや、「見てきたかのような」目。


 エレナは、レインの額から髪を払った。そっと、起こさないように。


 メルティアの実家を出る時、母——レインの祖母——が言った言葉を思い出す。「子供は親を選べない。だから親が子供を守るのよ」。あの頃はまだ若くて、言葉の重さを理解していなかった。今は——痛いほど分かる。


 「あなたは不思議な子ね」


 小さく呟いた。


 トーマス領主との面会で、レインは見事だった。十歳の子供が、大人の領主を相手に、星脈資源の共同管理計画を淀みなく説明した。トーマス領主は最初こそ半信半疑だったが、レインの分析の的確さに徐々に表情を変えていった。


 あの場でのレインは——完璧だった。言葉遣い、間の取り方、相手の反応を見ながらの軌道修正。大人でもあれほど見事な交渉はできない。トーマス領主が面会後に漏らした言葉を、エレナは聞いている。「あの子は——本当に十歳か」。


 誇らしかった。しかし同時に——怖かった。その完璧さの中に、子供らしさが欠けていることが、怖かった。


 エレナが見ていたのは、交渉の内容ではなかった。


 レインの目だ。交渉中のレインの目は——輝いていた。知性の輝き。しかしその輝きは、冷たかった。人を見ているのではなく、盤面を見ている目。トーマス領主を「人」としてではなく「味方になるべき駒」として見ている目。


 あの目を——エレナは知っている。


 グレンの父。先代のアルヴェス領主。政治に長け、周辺領主との駆け引きに明け暮れた男。最後は孤独の中で病死した。誰にも看取られず。あの男も——人を「駒」として見る目をしていた。


 レインがああなることを、エレナは恐れている。


 馬車が揺れた。レインの体が傾き、エレナの肩に寄りかかった。眠りが深いのだろう。十歳の体は小さくて軽い。


 エレナはレインの頭を肩に預けたまま、窓の外を見た。アルヴェス領の丘陵が見えてきた。夕暮れの光が丘を赤く染めている。


 ——大丈夫。


 エレナは自分に言い聞かせた。


 この子には温かい心がある。それはエレナが知っている。母の歌を聴きたいと言った夜。涙を一筋流した夜。「お母さん」と呼ぶ時の、あのかすかな甘え。あれは計算ではない。あの子の中にある、まだ育ちきっていない温もりだ。


 賢さは——武器にもなるし、檻にもなる。レインの賢さが檻にならないように。人の温もりから切り離されないように。


 それを守るのが、母の仕事だ。


 レインが目を覚ました。


 「……お母さん?」


 「おはよう。もうすぐ着くわよ」


 レインが体を起こし、寝ぼけた目をこすった。その仕草だけは、年相応の子供だった。


 「肩、重くなかったですか」


 「全然。まだまだ軽いわよ。——もう少し食べなさいね」


 レインが小さく苦笑した。笑った。声は出さなかったが、口元が緩んだ。


 エレナはその表情を、胸の奥に刻んだ。


 この笑顔を守る。この子の中にある温もりが、賢さに飲み込まれないように。どんなことがあっても。


 馬車の外で、ブレイ教官が先頭の馬を操り、二人の護衛兵が後方を固めている。グレンがこの編成を組んだのは正しかった。ブレイの背中は真っ直ぐで、街道の先を警戒する目は鋭い。


 エレナはブレイの背中を見ながら、ふと思った。この帰り道が——少しだけ、不安だった。根拠はない。母親の、理由のない予感。


 しかしその予感を、エレナは口にしなかった。言えば、レインがまた計算を始める。今は——ただ穏やかに帰りたかった。


 窓の外で、夕焼けが丘の向こうに沈もうとしていた。アルヴェス領の境界まで、あと二日。エレナの丘で家族四人で見た夕焼けを、ふと思い出した。あの日のレインは——少しだけ、子供の顔をしていた。


 あの顔が、もう一度見たい。ただ、それだけだった。


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