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第26話「凱旋」


---


 六十日の期限が来る前に、ハルヴェス侯爵家から新たな書状が届いた。


 「領土異議申し立ての件、当面保留とする」


 一文だけの書状。封蝋はハルヴェス家の紋章——鷹と剣。しかしその一文が意味するものは大きかった。ハルヴェス家は——退いた。少なくとも、今は。


 アルヴェス家の館に、安堵が広がった。使用人たちの表情から緊張が消え、厨房からは久しぶりに賑やかな声が聞こえた。この二ヶ月、館全体が息を詰めていたのだ。


 グレンは書状を三度読み返し、それから深く息を吐いた。武人の父が見せた、珍しい弛緩の表情。エレナがグレンの肩に手を置き、小さく微笑んだ。


 「よくやったわね」


 その言葉は、グレンに向けたものだった。しかし視線は——レインにも向いていた。


 セドリックが走ってきた。稽古場から戻ったばかりで、額に汗が光っている。書状の内容を聞くと、顔を輝かせた。


 「やったな、レイン!」


 十二歳の兄が、十歳の弟の肩を叩く。遠慮のない、全力の一叩き。レインの体が揺れた。


 「セドリック兄さん、痛い」


 「ああ悪い! でもすごいぞ。父上の顔見たか? あんなに安心した顔、初めて見た」


 セドリックの声が弾んでいる。この兄は嘘がつけない。喜びも悲しみも、そのまま顔に出る。弟が成し遂げたことを自分のことのように喜び、父が安堵したことを自分の手柄のように語る。


 レインの胸に、温かいものが流れた。しかし同時に——かすかな違和感も。


 追い返した。本当にそうか。侯爵は「保留」と書いた。撤回ではない。書状の文面に、謝罪の言葉は一つもなかった。あるのは事実の通達だけだ。


 午後、レインはヴァルターの書庫を訪ねた。報告のためだ。


 老師は碑文の翻訳作業を続けていた。レインが入ると、ペンを置かずに訊いた。


 「保留、か」


 「はい。先生は——どうお考えですか」


 ヴァルターは翻訳途中の紙を横に置き、窓の外を見た。午後の光が、老人の白髪を照らしている。


 「わしの考えは、以前言うた通りじゃ。——お前は正しいことをした。しかし正しいことが、常に良い結果を生むとは限らん」


 「先生」


 「追い詰められた獣は、二つのことをする。逃げるか、噛みつくか。——侯爵は、逃げるような男かの」


 レインには、その問いの答えが分かっていた。しかし——分かっていても、今はこの安堵を壊したくなかった。


 「侯爵のような男は、負けを認めん。保留は——時間稼ぎかもしれんの。次に打つ手を考えるための」


 レインは黙った。自分もそう思っていた。しかし家族の前では言えなかった。


 「——注意を怠らぬようにの」


 ヴァルターの声は穏やかだったが、目は笑っていなかった。


 その夜、食堂で家族四人の夕食が取られた。グレンが珍しく酒を出した。セドリックにも少量の果実酒を注ぐ。


 「今日は祝いだ」グレンが杯を掲げた。


 レインは水を手にしていた。十歳の体にアルコールは早い。しかし杯を掲げる仕草はした。


 「レインのおかげだ」グレンが言った。


 その声には——感謝があった。しかし、レインは気づいていた。父の目の奥に、感謝だけではない何かが揺れていることに。恐れ。あるいは——畏怖。秋に商人を追い返した時と同じ色。自分の息子の能力に対する、理解を超えた戸惑い。


 「父上。まだ終わってはいません」


 レインは冷静に言った。祝いの席で言うべきではないと、どこかで分かっていた。しかし口が止まらなかった。分析が先に出る。それが自分の——悪い癖だ。


 「保留は撤回ではありません。ハルヴェス家が次にどう動くか——」


 「レイン」


 エレナの声が、レインの言葉を遮った。


 母の声は穏やかだった。しかし——遮るということ自体が、エレナには珍しい。レインは口を閉じた。


 「今日は、そういう話はやめましょう。——今日は家族の食事よ」


 エレナの目が、レインを見ていた。微笑んでいる。しかしその微笑みの奥に——影がある。悲しみに似た、あるいは憐れみに似た何か。


 「あなたは賢い子ね、レイン」


 「……ありがとうございます、お母さん」


 「でもね——」


 エレナは茶碗を両手で持ち、その温もりを確かめるように指を動かした。


 「賢いだけの人は、いつか一人になるわ」


 食堂の空気が、一瞬だけ止まった。


 グレンは黙って酒を飲んだ。セドリックは意味が分からず首を傾げている。


 レインの体が——凍りついた。


 その言葉が、深い場所に刺さった。なぜかは分からない。いや——分かっている。前世で、似たような言葉を聞いたからだ。離婚届を出す日の朝、妻に言われた。「あなたの隣にはいつも仕事しかない」。


 違う。エレナの言葉は、あの時の言葉とは違う。エレナは怒っていない。責めていない。ただ——心配している。自分の息子が、人の温もりから離れていくことを。


 「お母さん。俺は——一人になるつもりはありません」


 レインの声が、少しだけ震えた。


 エレナは微笑んだ。柔らかく、深く。


 「知っているわ。だから言うのよ」


 エレナが手を伸ばし、レインの髪に触れた。食事の席で母に髪を触られることに、レインは恥ずかしさを感じた。セドリックの前で。しかし——振り払えなかった。エレナの指が髪を梳く感触。あの夜の歌を聴いた時と同じ温もり。


 セドリックが口を挟んだ。「母上、俺にもやってくれよ」


 「あなたは汗をかいているでしょう。先にお風呂に入ってらっしゃい」


 「ひでえ!」


 グレンが小さく笑った。エレナも笑った。レインの口元も——少しだけ緩んだ。


 それ以上、エレナは何も言わなかった。夕食は穏やかに続いた。グレンとセドリックが剣術の話をして、エレナが笑い、レインはその光景を見ていた。


 温かい食卓。家族の声。蝋燭の光に照らされた四人の影。セドリックがグレンに剣術の技の話をしている。ブレイ教官に新しい型を教わったらしい。グレンが「見せてみろ」と言い、セドリックが箸を剣に見立てて構えを取る。エレナが「食事中よ」と笑いながらたしなめる。


 日常。穏やかな、日常。


 しかしレインの頭の中では、計算が止まらなかった。ハルヴェス家の次の一手は何か。「保留」の裏にある侯爵の真意は。トーマス領との連携をどう強化するか。カルロからの情報をどう法的に使えるか。


 勝ったはずなのに——安心できない。


 それは慎重さではなかった。これは——依存だ。戦略を考え続けることへの、依存。思考を止めれば、目の前の温もりに向き合わなければならない。それが——怖い。向き合い方を、知らないから。


 エレナの言葉が、耳の奥で繰り返されていた。


 賢いだけの人は、いつか一人になる。


 前世の鷹司蓮は——まさにそうなった。


 しかし「ではどうすればいいのか」が、レインにはまだ分からなかった。勝つこと以外の方法で、家族を守る術を。


 自室に戻った時、机の上に小さな花が置いてあった。野の花。セドリックが摘んできたのだろう。花瓶もなく、ただ紙の上に置いてある。不器用な祝福。


 レインはその花を手に取った。名前も知らない花。しかし——握りつぶすことだけはしなかった。


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