第25話「侯爵との対面」
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六十日のうち、四十五日目。
レインは、ハルヴェス侯爵家の居城を訪れていた。
城は巨大だった。アルヴェス家の館が丸ごと入る広間が、いくつもある。石壁は磨き上げられ、廊下には星脈灯が等間隔で灯っている。贅沢な光量。アルヴェス領では星脈灯は主要な部屋にしか置かない。ここでは廊下の照明にまで使っている。
——この光量だけで、年間維持費は相当なものだ。
十歳の少年は、商社マンの目で城を見ていた。
グレンが隣を歩いている。正装の父は、普段より背筋を伸ばしていた。緊張しているのだろう。しかしそれを表に出さない。領主としての矜持。
応接間に通された。
ディートリヒ・ハルヴェス侯爵は、すでに座っていた。
五十代半ば。白髪交じりの黒髪を後ろに撫でつけ、鋭い鷹のような目をしている。体格は細身だが、椅子に座っているだけで部屋の空気を支配していた。権力者の気配。レインは前世で何度もこの種の人間に会っている。大企業の取締役、省庁の高官——自分が場を支配していることを、意識せずとも体現できる人間。
「ようこそ、アルヴェス卿。——そして、噂の次男殿か」
侯爵の声は穏やかだった。しかしレインは、その穏やかさの裏にあるものを読み取った。品定めしている。
「お招きいただき光栄です、侯爵閣下」グレンが礼をした。
レインも頭を下げた。十歳の少年として、礼儀正しく。しかし目だけは侯爵から逸らさなかった。
侯爵の横には、法務を担う書記官と、鎧を纏った騎士が一人ずつ控えていた。騎士はレインをちらりと見て、興味を失ったように視線を外した。子供が一人混じっていることへの、無言の軽侮。レインはそれを記憶した。侯爵の周囲の人間は、子供を脅威と見なしていない。つまり——レインの情報は、侯爵の側近にまで共有されていない。
交渉が始まった。
最初の一時間は、双方の立場の確認に費やされた。形式的なやり取り。侯爵は余裕を崩さない。時折グレンに微笑みかけ、茶を勧め、世間話を交える。その一つ一つが計算されている。「自分は余裕がある」という演出。アルヴェス家のような辺境の中位貴族が、自分に対抗できるはずがない——その確信が、侯爵の一言一言に滲んでいた。
レインは黙っていた。グレンの隣で、記録係のように控えている。侯爵はレインを一度も見なかった。子供は眼中にない。
その油断を、待っていた。
「——閣下。一点、確認させていただきたいことがあります」
レインが口を開いた。
侯爵の目が初めてレインに向いた。軽い驚き。しかしすぐに余裕の笑みに戻る。「ほう。次男殿にも発言権があるのか」
「父の名代として同席しております。——閣下、星暦九百年以前の境界線に関する文書的根拠について、いくつかご提示したい資料がございます」
レインは懐から、折りたたんだ紙を取り出した。三枚の紙。古代語碑文の原文写し、その翻訳、そしてそれに基づく境界線の考証。ヴァルターの書庫で見つけた大崩壊以前の記録を、レイン自身が翻訳し、法的文書の形式に整えたものだ。翻訳の正確性を担保するため、古代標準語の活用変化と語根の対照表も添付してある。
侯爵の目が、紙の上を走った。笑みが——消えた。
「これは——古代標準語の碑文か」
「はい。大崩壊以前の境界標識の記録です。この碑文によれば、現在のアルヴェス領東端は、大崩壊以前の行政区画においても同一勢力圏に属しておりました。法令集第七章第三十二条が求める『星暦九百年以前の文書的根拠』に該当するものと考えます」
部屋の空気が変わった。
侯爵の側近たちが顔を見合わせている。古代語の碑文を読める人間は、ファルネーゼ全土でも数えるほどしかいない。王都の王立星脈学院にすら、古代標準語を実用的に翻訳できる術師は片手で足りる。それを十歳の少年が翻訳し、法的根拠として持ち込んできた。
侯爵の目が資料から上がり、レインを正面から見た。今度は品定めではない。再評価している。
「加えて——」レインは続けた。「東部の星脈資源の独占が、周辺領主にとって不利益となることは、すでに複数の領主が認識しています。国王裁定の場で、アルヴェス家は単独ではなく、東部中小領主の連携として立場を主張する用意があります」
侯爵の指が、肘掛けの上で止まった。
「さらに——」
レインは三枚目の資料を出した。カルロから得た情報。十年前のカーラ家併呑に関する記録の断片。直接的な告発ではない。しかし「こちらはこの情報を持っている」という示威。
「カーラ家の件について、当時の経緯を詳細に記した文書が、ソレイユの商業記録に残されていることを確認しております」
侯爵の目が——変わった。
穏やかさが消えた。鷹の目が、獲物を見つけた時のように鋭くなった。しかしそれは怒りではない。もっと冷たいもの。
沈黙が落ちた。長い沈黙。
やがて、侯爵は笑った。
「——大したものだ」
声は穏やかだった。しかし——笑みが目に届いていない。
「アルヴェス卿。よい息子をお持ちだ」
グレンは何も言わなかった。父の横顔を、レインは一瞬だけ見た。グレンの目は侯爵をまっすぐ見据えていた。しかしその手が——膝の上で、かすかに震えていた。
「……今日のところは、持ち帰らせていただこう。六十日の件は——再考の余地があるかもしれん」
侯爵の声は平静だった。しかしその指が——肘掛けを一度、強く握りしめたのを、レインは見逃さなかった。いや——見逃さなかったが、その意味を正しく読み取れなかった。あれは撤退のサインではない。怒りの、制御された表出だった。
侯爵が立ち上がった。交渉は終わりだった。
レインの胸に、確信が広がった。勝った。完全な勝利ではないが、相手を後退させた。十歳の少年が、侯爵を——。
城を出る時、レインは振り返った。
応接間の窓から、侯爵がこちらを見ていた。あの笑み。穏やかで、冷たい笑み。
レインの背中を、何かが走った。寒気ではない。もっと奥深い——本能的な警告。しかし、それが何を意味するのか、レインには読み取れなかった。
人は合理的な判断をする。コストが利益を上回れば、撤退する。それが鉄則だ。
馬車の中で、グレンは黙っていた。レインも口を開かなかった。二人の間に、奇妙な沈黙が横たわっている。
やがてグレンが、静かに言った。
「レイン」
「はい、父上」
「お前は——怖くなかったか」
レインは父の顔を見た。グレンの目には、息子への誇りと、もっと複雑な何か——恐れに似たものが混在していた。
「怖くはありませんでした」
正直な答えだった。交渉の場で恐怖を感じる余裕はなかった。変数を制御し、相手の反応を読み、次の一手を打つ。その連続の中に、恐怖が入り込む隙間はなかった。
グレンは窓の外を見た。「わしは——怖かった」
その告白を、レインはどう受け止めればいいか分からなかった。
馬車がアルヴェス領に入った。見慣れた丘陵が広がる。秋の市場で賑わったあの街道。ベルタの店があった広場。この風景を守るために動いている——はずだ。
しかし、人間には合理性では測れない変数がある。
屈辱。
十歳の子供に追い詰められた侯爵の屈辱を、レインは計算に入れていなかった。前世でも同じ過ちを犯していたことに——まだ、気づいていない。
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