第24話「ソレイユの糸」
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六十日のうち、二十日が過ぎた。
レインはアルヴェス領の南端にある宿場町、ロンメルに来ていた。ソレイユ商業共和国との非公式な接触のためだ。
相手はカルロ・ヴェルディ。ソレイユ七大商会の一つ、ヴェルディ商会の末席幹部。レインが指名した相手だった。
なぜカルロか。理由は二つある。一つは、ヴェルディ商会がハルヴェス家との取引で利益を上げている一方、ハルヴェス家の独占的な振る舞いに不満を持っていること。秋にアルヴェス領を訪れたマルコの件で、ソレイユの商人たちがこの地域に関心を持っていることは分かっている。もう一つは、カルロ自身が商会内で出世競争に苦戦しており、「手柄」を必要としていること。ソレイユの商業記録は公開されている部分が多い。人事異動の記録から、カルロの立場を推定するのは難しくなかった。
相手が何を欲しているかを知ること。それが交渉の第一歩だ。
ロンメルの宿場町は、ソレイユとファルネーゼの商人が行き交う場所だった。通りには香辛料の匂いが漂い、異国の言葉が飛び交っている。ブレイ教官に護衛されながら宿場に入った時、レインはこの町の空気を吸い込んだ。活気がある。アルヴェス領の静かな農村とは別の世界だ。
宿場の一室。質素だが清潔な部屋に、二人は向かい合った。
カルロは三十代半ばの痩せた男だった。ソレイユの商人らしく、身なりは地味だが仕立てがいい。目だけが鋭い。
「——アルヴェス家の次男殿が、わざわざ。お父上の名代とは恐れ入る」
「お時間をいただき感謝します、ヴェルディ殿」
レインは姿勢を正した。十歳の子供が名代として交渉の場に出ること自体が異例だ。カルロの目には当然、警戒と好奇心が混在している。
「単刀直入に申し上げます。ハルヴェス侯爵家が東部の星脈資源を独占した場合、ヴェルディ商会はどうなりますか」
カルロの目が細くなった。
「……ずいぶんと、大きな話をなさる」
「大きな話だからこそ、早い段階でお伝えする価値があります」
レインは机の上に、一枚の紙を置いた。東部の星脈分布図——ただし、脈点の正確な位置は伏せたもの。概要だけを示す図。
「東部には三つの脈点があります。そのうち一つはすでにハルヴェス領内にある。ハルヴェス家が我がアルヴェス領の東の脈点まで手に入れれば、三点のうち二点を掌握することになります。残る一点はトーマス領内ですが、二点を押さえた者が価格を左右できる。つまり——東部の星脈結晶取引は、実質的にハルヴェス家の独占市場になります」
カルロの指が、かすかに動いた。商人の癖だ。計算している。
「独占市場では、売り手が価格を決めます。現在、東部の星脈結晶は三つの脈点から供給されています。アルヴェス家の東の脈点が侯爵家に渡れば、供給元は実質一つに統合される。ヴェルディ商会がこれまで東部で得ていた利益率は——維持できなくなるでしょう」
沈黙が流れた。カルロは紙を見つめている。レインはその沈黙を読んだ。否定しない。つまり、この分析が正しいと認めている。
「……それで。アルヴェス家は何をお望みで」
「情報です」
「情報」
「ハルヴェス侯爵家に関する、公には出回っていない情報。特に——十年前、南の小領主カーラ家が領地ごと呑まれた一件に関して」
カルロの表情が、初めて動いた。唇の端がわずかに引き攣った。
「それは——相当な代物を求めておいでだ」
「代わりに、アルヴェス家はヴェルディ商会に東部の星脈結晶取引における優先交渉権を提供します。ハルヴェス家の独占を阻止した暁には、ですが」
レインは条件を提示した。相手に利益を示し、こちらの要求を通す。Win-Winの構図。前世で何百回と繰り返した手法。
カルロは長い間、レインの顔を見つめていた。
カルロは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。商人の目で、レインの全身を見ている。服の仕立て、靴の質、手の爪の状態。ソレイユの商人は相手の服装から資産を読む。しかし今、カルロが読もうとしているのは資産ではない。この子供の中身だ。
「……お幾つです」
「十歳です」
「十歳」カルロが小さく息を吐いた。「ソレイユには、天才は十歳で商会を興すという言い伝えがある。——しかしそれは言い伝えで、実物を見たのは初めてだ」
「言い伝えには興味がありません。結果にだけ興味があります」
レインの返答に、カルロは一瞬目を見開き——それから、初めて本物の笑みを見せた。商人同士の笑みだった。
交渉は三時間に及んだ。カルロは慎重だったが、レインは粘った。相手の質問の一つ一つに正確に答え、不確かなことは「現時点では確認中です」と正直に伝えた。嘘をつかない。エレナの言葉が、交渉の場でも活きていた——もっとも、レインにとってそれは「信用を勝ち取る戦術」でもあったが。
最終的にカルロは「調査する」と約束した。ハルヴェス家のカーラ家併呑に関する記録を、ソレイユの情報網で探る。見返りは、将来の取引優先権。
宿場を出た時、日はすでに傾いていた。
護衛のブレイ教官が馬車の横で待っていた。レインが戻ると、無言で頷いた。ブレイは詳細を訊かない。グレンに命じられた「息子の護衛」を、余計な口を挟まず遂行する男だ。
馬車に揺られながら、レインは目を閉じた。
交渉は上手くいった。カルロの反応は想定通り。利害が一致すれば人は動く。合理的な判断だ。
——しかし。
ヴァルターの声が頭に蘇った。先月の稽古の後、老師が静かに言った言葉。
「お前の手法は見事じゃ。相手の利害を読み、最適な提案を組み立てる。——しかしレイン。お前は誰のために動いておる。家族のためか。それとも——勝つためか」
「家族のためです」と答えた。即答だった。
しかしヴァルターは首を振った。「即答できること自体が、考えておらん証拠じゃよ」
馬車の窓から、夕焼けが見えた。赤い空。母が好きだった空の色。
家族を守るため。——その言葉に嘘はない。しかし、交渉の最中に感じた高揚感。カルロの表情が動いた瞬間の快感。相手の利害を読み切った時の充実感。
それは——「家族を守る」とは別の場所から来ていた。
勝ちたいのだ。
認めたくないが、認めざるを得ない。この戦いの中で、レインの中の「鷹司蓮」が目を覚ましている。案件を回し、変数を制御し、相手を出し抜く。あの感覚が——十歳の体の中で、嬉々として脈打っている。
それが悪いことなのか、レインには分からなかった。勝たなければ家族を守れない。手段として必要な力だ。
しかしヴァルターの目は——どこか悲しげだった。
馬車が村に戻った時、エレナが門の前で待っていた。夕暮れの光の中で、母の銀の髪が赤く染まっている。
「おかえりなさい、レイン」
「ただいま、お母さん」
エレナはレインの顔を覗き込み、そっと頬に触れた。
「疲れた顔をしているわね」
「大丈夫です」
「嘘ね」
エレナは微笑んだ。それ以上は訊かなかった。ただ、レインの肩に手を置いて、一緒に家に入った。
その手の温もりが——交渉の高揚感よりも、深い場所に届いた。しかしレインは、それに気づく余裕がなかった。頭の中ではすでに、次の手順を組み立て始めていた。
六十日のうち、二十三日が過ぎていた。
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