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第22話「宣戦」

---


 書状は、十歳の春に届いた。


 あの丘で四人で夕焼けを見てから、一年が過ぎていた。


 その一年は、表面上は穏やかだった。レインは法令集を読み込み、ヴァルターの書庫で古代語文献の翻訳を続けた。セドリックは十二歳になり、剣術の腕はブレイ教官が「筋がいい」と認めるまでに伸びた。エレナは変わらず歌を口ずさみ、グレンは領地を歩いた。


 しかし——水面下では、何かが動いていた。


 朝食の席に、グレンの顔色が悪い日が増えていた。エレナは気丈に振る舞っているが、針仕事の手が止まることがある。セドリックだけがいつも通りに見えたが、稽古の後に一人で中庭に座っている姿を、レインは何度か目にしていた。


 レインはヴァルターの書庫で法令集の読み込みを続けていた。貴族間の土地紛争に関する判例。過去の境界線変更の事例。脈点の所有権に関する王国法務院の見解。ファルネーゼ連合王国の法体系は、前世の日本法よりも判例の重みが大きい。過去の判決が積み重なって規範を形成する、コモン・ロー的な性格がある。


 そして——ある判例に行き当たった。


 星暦一四八七年。ベルクハイム家対ローゼン家の土地紛争。争点は脈点の帰属。ローゼン家が境界線の再解釈を求め、法務院に申し立てた。根拠として提出されたのは、大崩壊以前の古い測量記録だった。


 結果、ローゼン家の主張が認められた。ベルクハイム家は脈点を失った。


 レインは判例を二度読み返した。この判例が成立したのは三十六年前。現在も有効な先例として機能している。


 ——ハルヴェスが使う手は、これだ。


 古い記録を根拠に境界線の再解釈を求める。判例は整っている。法的には十分に成り立つ。グレンが「話し合えば分かる」と言っている間に、ハルヴェス侯爵は着々と法的な外堀を埋めているはずだ。


 書状が届いたのは、その翌週だった。


 朝、使者が馬で駆けつけた。ハルヴェス侯爵家の使者は正装をしており、態度は丁寧だったが、用件を告げる声には——威圧が含まれていた。上位貴族が下位貴族に向ける、当然の優位。


 レインは二階の窓から使者を見下ろしていた。使者の服装、馬具の紋章、従者の人数。すべてが計算されている。「これは正式な通告である」というメッセージを、視覚的に伝えるための演出だ。



    * * *



 応接間。


 グレンの前に、封蝋の押された書状が置かれていた。ハルヴェス侯爵家の紋章——鷲と盾——が赤い蝋に刻まれている。


 グレンは書状を読み終え、そのまま動かなかった。


 エレナが隣に座り、夫の顔を見つめている。レインは壁際に立っていた。セドリックは剣術の稽古に出ている。


 「……グレン。何と書いてあるの」


 エレナの声が、静かに問うた。


 グレンが口を開いた。声が掠れていた。


 「ハルヴェス侯爵家が、正式にアルヴェス領東部の脈点に関する領有権を主張した。王国法務院に対し、境界線の再確定を申し立てるとのことだ」


 予測通りだった。レインは表情を変えなかった。しかし胸の奥で、何かが冷たく固まった。


 「根拠として、大崩壊以前の測量記録を提出するらしい。それによれば、東部脈点は元来ハルヴェス領に含まれており、現在の境界線は大崩壊後の混乱期に不正確に引かれたもの——とのことだ」


 エレナの手が、膝の上で握りしめられた。


 「何かの間違いでは——」


 グレンの声に、いつもの温かさがなかった。困惑が、そのまま声になっていた。嘘をつかない人間は、困惑も隠せない。


 「話し合えば分かるはずだ。侯爵にも直接——」


 「父上」


 レインの声が響いた。


 グレンが振り向いた。エレナも。十歳の息子が、壁際から一歩前に出ていた。


 「この申し立てに対する回答期限は、いつまでですか」


 グレンが書状を見直した。「……六十日以内に、法務院に対して反論の書面を提出せよ、とある」


 「六十日」


 レインの頭の中で、前世のプロジェクト管理の思考が起動した。六十日。法務院への反論書面を準備する期間としては短い。しかし不可能ではない。


 「父上。この申し立ての法的根拠は、ベルクハイム対ローゼンの判例に依拠していると推測します。三十六年前の土地紛争の先例です。——僕は、この判例と、ハルヴェスが提出するであろう古い測量記録について、ある程度の分析を進めています」


 グレンの目が見開かれた。「レイン、お前……いつの間に」


 「ヴァルター先生と相談の上、冬から準備していました」


 嘘ではない。ヴァルターの助言のもと、法令集を読み、判例を調べ、古代語の文献を漁ってきた。その蓄積が、今——使える。


 レインは一歩を踏み出した。


 「反論の要点は三つです。第一に、ハルヴェスが提出する測量記録の年代特定と信憑性の検証。古代語で書かれた記録であれば、僕が原文を読めます。改竄や誤訳があれば指摘できる」


 グレンが息を飲んだ。


 「第二に、大崩壊後の境界線設定の正当性。これは星暦九百年代の連合王国成立時の文書に基づくべきで、ヴァルター先生の書庫にその写しがあります」


 エレナがレインを見つめていた。驚き。しかし——それだけではない。母の目の奥に、何か別のものが浮かんでいた。


 「第三に——」


 レインは言葉を区切った。ここからが本題だ。


 「僕が作成した星脈流路図があります。東部脈点の正確な位置と、星脈の流路の実測データ。ハルヴェスの主張する境界線と、脈点の実際の位置を照合すれば——ハルヴェスの主張に矛盾がある可能性があります」


 沈黙が降りた。


 グレンは息子を見ていた。十歳の子供が、侯爵家の法的攻撃に対する反論の骨子を、三点に整理して提示している。その目に、また畏怖が浮かんでいた。


 しかし今回は——畏怖だけではなかった。その奥に、頼りにしている色があった。父が息子を頼りにしている。それは——歪んだ関係かもしれない。十歳の子供に頼る父。しかしグレンには、他に頼れる者がいなかった。


 「レイン」


 グレンが声を絞り出した。


 「お前は——戦えるのか。これと」


 レインは一瞬だけ目を閉じた。


 戦える。前世の知識と、今世の古代語の読解力と、星脈地図のデータがある。法的な反論を組み立てる能力はある。


 しかし——ヴァルターの言葉が頭をよぎった。「表に出るな。表で戦うのは、お前の父の仕事じゃ」


 そしてもう一つ。「目的のない手段は、暴走する」


 「戦えます」


 レインは目を開けた。


 「ただし、表に立つのは父上です。僕は裏方に徹します。——家族を、守るために」


 その言葉が口から出た時、自分でも驚いた。ヴァルターに問われた時には答えられなかった「目的」が——今、声になっていた。


 グレンの目が潤んだ。父は何も言わず、ただ深く頷いた。


 エレナが立ち上がり、レインの前に来た。両手でレインの頬を包んだ。温かい手。


 「あなたは強い子ね。——でも、無理はしないでね」


 「はい、お母さん」


 エレナの手が離れた。母は微笑んでいたが、その目の奥に——覚悟と、不安と、愛情が、混じり合っていた。


 その夜、レインはヴァルターの書庫に走った。


 「来たか」


 老人は待っていたように、茶を二つ用意していた。レインが事情を説明すると、ヴァルターは黙って聞き、そして——棚の奥から、鍵のかかった引き出しを開けた。


 レインの星脈流路図。春に完成させ、ヴァルターが預かっていた巻物。


 「これが要るじゃろう」


 「はい」


 「——六十日しかないぞ」


 「十分です」


 ヴァルターが目を細めた。笑みではない。教え子を見る目だった。覚悟を確かめる目。


 「レイン。最後にもう一度だけ訊く。——お前は何のために戦う」


 「家族を守るためです」


 今度は——迷わなかった。


 ヴァルターは深く頷いた。そして地図をレインに渡した。


 十歳の少年が、侯爵を相手に戦いを挑む。


 ——その結末が何をもたらすかも、知らずに。


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