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第21話「母の丘、夕暮れ」

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 九歳の春の終わり。


 エレナが「みんなで丘に行きましょう」と言い出したのは、昼食の席だった。


 セドリックが「いいな!」と即座に応じ、グレンが「久しぶりだな」と頷いた。レインだけが一瞬躊躇した。ヴァルターから借りた法令集の残りを今日中に読み終えたかった。ハルヴェスの動きが気になる。冬の間に法務院で古い記録を調べていたという話は、まだ進展の報告がない。


 しかしエレナの顔を見て——法令集を置いた。


 母が、四人でどこかに行きたいと言うことは、最近では珍しかった。セドリックは剣術の稽古が忙しく、レインは書庫と訓練に明け暮れている。グレンは領務に追われている。家族が揃う時間が、少しずつ減っていた。


 エレナは——家族の時間が少しずつ減っていることに、気づいていたのだろう。


 丘は屋敷から歩いて半刻ほどの場所にあった。なだらかな斜面の頂上に、一本の大きな樫の木が立っている。エレナが「ここから見る夕焼けが、お母さんは一番好きよ」と言った、あの丘だ。


 四人で丘を登った。先頭はセドリック。十一歳の兄は足が速い。日焼けした腕を振って、坂を駆け上がっていく。グレンがその後を追い、エレナとレインが並んで歩く。


 「お母さん、速くないですか」


 「大丈夫よ。お母さんだって、昔は丘を駆け回っていたのよ」


 エレナが笑った。銀の髪が風に揺れている。春の夕方の光が、母の横顔を柔らかく照らしていた。


 頂上に近づくと、セドリックが「おーい、早く来いよ!」と叫んでいた。グレンが息を切らしながら追いつき、「お前は元気だな」と苦笑している。セドリックはここでも休む間がない。兄の周りには常に動きがある。レインとは対照的だった。


 丘の頂上に着くと、アルヴェス領が一望できた。三つの農村の屋根。市場町の広場。屋敷の煙突。南の小川が光の帯のように蛇行している。東の丘陵の向こうに、夕陽が沈みかけていた。


 空が燃えていた。


 橙色と紫が混じり合い、雲の端が金色に輝いている。二つの月のうち大きい方が、まだ淡い姿で東の空に浮かんでいた。星脈の光が空の端をうっすらと照らし、夕焼けの中に薄い筋を引いている。


 「……綺麗だな」


 グレンが呟いた。隣にエレナが立ち、二人並んで夕焼けを見ている。グレンがエレナの肩にそっと手を回した。エレナが夫に寄り添う。自然な動作だった。何年も繰り返してきた二人だけの所作。


 セドリックが樫の木の根元に座り、レインに声をかけた。


 「レイン、こっち来いよ」


 レインは兄の隣に座った。草の匂いがする。春の土の匂いが混じっている。


 「お前、最近忙しそうだな。書庫にばっかりこもって」


 「……色々と、調べることがあって」


 「ハルヴェスのこと?」


 レインは驚いた。セドリックが知っているとは思わなかった。


 「父上の話を聞いてたんだ。壁が薄いからな、うちの屋敷は」


 兄が笑った。しかしその笑みの奥に、十一歳なりの不安が見えた。


 「俺にはよく分からないけどさ。法律がどうとか、境界線がどうとか。——でも、父上と母上が心配してるのは分かる」


 セドリックが草の上に寝転んだ。空を見上げる。


 「レイン。お前は将来、何をしたい?」


 ヴァルターに問われた時と同じ問い。しかし兄の口から聞くと、響きが違った。ヴァルターの問いは哲学的だった。セドリックの問いは——もっと素朴で、まっすぐだった。


 「……分からない」


 正直に答えた。


 「俺はさ」


 セドリックが空を見たまま言った。


 「この領地を守りたい。父上や母上が守ってきたものを、俺も守りたい。剣で、体で。——そういうの、古臭いかもしれないけど」


 レインは兄の横顔を見つめた。日焼けした顔。剣胼胝のある手。十一歳の少年が、すでに「守る」ということを知っている。知識としてではなく、体の芯から。


 ——俺は、四十七年生きても知らなかったのに。


 「古臭くないですよ、セドリック兄さん」


 「ほんとか?」


 「ほんとです」


 セドリックが嬉しそうに笑った。


 グレンとエレナが歩み寄ってきた。四人が樫の木の下に集まる。夕陽が最後の光を投げかけ、空が紫から藍に変わり始めていた。


 エレナがレインの手を取った。細くて温かい手。


 「レイン。覚えてる? あなたが四歳の時にも、ここに来たわね」


 「覚えています。『いつか、あなたの大切な人にも見せてあげてね』と、お母さんが言っていました」


 エレナが少し驚いた顔をして、それから微笑んだ。


 「よく覚えているわね」


 「忘れません」


 声に力がこもっていた。自分でも驚くほど。エレナは何か感じたのか、レインの手をきゅっと握った。温かかった。


 グレンがセドリックの頭を撫でた。「お前もよく頑張っているな、セドリック」。兄が照れくさそうに笑う。「父上にそう言われると、なんか変な感じだ」。グレンが笑う。エレナが笑う。レインも——笑っていた。


 四人で夕焼けを見ていた。何を話していたか、後から思い出そうとしても、断片しか出てこない。セドリックが剣術の話をし、グレンが領地の畑の話をし、エレナが昔のメルティアの話をした。どれも取るに足らない会話だった。


 しかし——この時間が、レインにとってどれほど重かったか。言葉にならなかった。胸の中に、名前のつけられない感情が溢れていた。


 風が丘の上を渡っていく。風紋読みの感覚が、無意識に起動する。風に含まれる情報——家族四人の体温、草の匂い、遠くの農村から立ち昇る煙の温度——そのすべてが、今この瞬間の風景を構成している。レインはそれを「情報」としてではなく、ただ——感じていた。


 前の人生には、これがなかった。


 家族で夕焼けを見る時間。——いや、時間はあったのだ。差し伸べられた手を、何度も振り払っただけだ。「今週は仕事が」「来月なら」「次の機会に」。次の機会は、来なかった。


 今、レインの目の前に広がっている夕焼けは——法令集を置いて、ここに来ることを選んだ結果だ。小さな選択。しかし、その小さな選択こそが、前の人生では最も難しかったもの。


 ——失いたくない。この時間を。


 その思いが胸を焼いた。しかし同時に——「失いたくない」と思うだけでは、何も守れないことも知っている。


 夕焼けが消えていく。空が暗くなる。星が一つ、二つと瞬き始める。小さな赤い月が、東の空に姿を現した。


 「さて、帰ろうか」


 グレンがゆっくりと立ち上がった。エレナの手を取り、丘を下り始める。セドリックが後に続く。レインは最後に一度だけ振り返り、夕焼けの残光を目に焼きつけた。


 この夕焼けを、レインは一生忘れない。


 丘を下りながら、エレナが歌を口ずさんでいた。メルティアの収穫祭の歌。あの夏の夜に歌ってくれた、あの歌だ。グレンが隣で耳を傾けている。セドリックが後ろで足を踏み鳴らしてリズムを取っている。


 四人の影が、夕闇の丘に長く伸びていた。


 ——二度と、この四人で見ることはないから。


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