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第20話「ヴァルターの問い」

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 冬が明けようとしていた。


 書庫の窓から差し込む光が、少しずつ春の色を帯び始めている。ヴァルターの書庫は相変わらず本に埋もれていたが、レインが通い続けた一年半で、棚の配置だけは整理された。古代語の文献が左壁、現代の法令と歴史書が右壁、ヴァルター自身の研究ノートが奥の棚。レインが勝手に分類したものだ。


 「お前が来てから、書庫が使いやすくなったのは認めるが——わしの積み方にも意味があったんじゃぞ」


 「どの意味ですか。埃の堆積年数順ですか」


 「……口が減らん子供じゃ」


 ヴァルターが茶をすすった。いつもの軽口。しかし今日の老人は、茶碗を置いた後も沈黙が長かった。


 レインは古代語の碑文を翻訳していた。大崩壊直前の記録と思われる断片で、ある都市の星脈制御施設について書かれている。制御施設の規模と構造が記された箇所を、一語一語丁寧に訳していく。


 「レイン」


 「はい」


 「一つ、訊きたいことがある」


 ヴァルターの声から、いつもの飄々とした色が消えていた。レインはペンを置き、老人を見た。


 灰色の瞳が、真っ直ぐにこちらを向いている。


 「お前は将来、どんな人間になりたい」


 静かな問いだった。しかし——重かった。


 レインは答えられなかった。


 前世なら即答しただろう。「成功する人間になりたい」。鷹司蓮は二十代でそう決め、四十七年間その通りに生きた。年収を上げ、肩書きを上げ、業界での評価を上げる。目標は数値化でき、達成度は測定できた。


 そして——目標を達成した先に待っていたのは、空虚だった。


 「……分かりません」


 正直に言った。


 ヴァルターは頷いた。否定も失望もしなかった。ただ、窓の外に目を向けた。


 「わしもな、お前くらいの歳の頃は分からなかった。術師になりたいとは思っておったが、『どんな人間になりたいか』は考えたことがなかった」


 老人が茶碗を膝の上で回した。


 「術を覚えるのは手段じゃ。剣を覚えるのも手段。知識を蓄えるのも手段。——目的のない手段は、いずれ暴走する」


 「暴走——」


 「才のある人間は、手段だけで遠くまで行ける。お前のようにの。頭が良い。術式を設計できる。古代語も読める。法令も覚えた。——だが、その力を何のために使うのか。それが定まっておらんと、力は勝手に走り出す」


 レインは黙った。ヴァルターの言葉が、的確すぎた。


 秋の商人を追い返した時、レインは「家族を守るため」と思っていた。しかし本当にそうだったか。父の契約を守るためだったのか。それとも——交渉で勝つ快感を、追いかけていたのか。


 前世と同じだ。仕事で結果を出すことを「家族のため」と言い訳にしていた。しかし実際には、仕事そのものに酔っていた。勝利の高揚感に。


 「先生。目的とは、具体的に何ですか」


 「それをわしが教えたら、意味がないの」


 ヴァルターが笑った。しかし笑みの奥に、真剣な色があった。老人は茶碗を机に置き、椅子に深く腰掛け直した。本の壁に囲まれた書庫の中で、その姿は——知識の海に浮かぶ孤島のようだった。


 「ただ、一つだけ手がかりを出してやろう。——お前の父を見ろ」


 「父を」


 「グレン殿は不器用な男じゃ。政治も下手、剣も特別ではない。しかし——あの男には目的がある。はっきりした、ぶれない目的が」


 ヴァルターが指を一本立てた。


 「『家族を守る』。——それだけじゃ。グレン殿の行動原理は、すべてそこに帰着する。領地を治めるのも、領民と酒を飲むのも、お前たち兄弟に領地を見せるのも、すべて『家族を守る』の延長線上にある。だから迷わない。だからぶれない」


 レインの胸を、何かが突いた。


 家族を守る。——前の人生で、俺が最もできなかったこと。


 美咲を守れなかった。翔太を守れなかった。守るべき人がいたのに、守る方法を知らなかった。いや——守ろうとすらしなかった。「仕事で稼ぐこと」が「守ること」だと、本気で信じていた。


 「先生」


 「なんじゃ」


 「家族を守る、というのは——具体的に何をすることですか」


 ヴァルターが目を見開いた。それから——老人の顔に、複雑な表情が浮かんだ。憐れみではない。理解、に近い何か。


 「お前にとっては、それすら分からんのか」


 「……はい」


 正直な告白だった。九歳の子供が、四十七年分の無知を認めている。


 ヴァルターは長い間黙っていた。書庫の外で、鳥が鳴いていた。春を告げる声。窓から差し込む光が、老人の白髪を照らしている。レインは待った。ヴァルターが沈黙する時は、言葉を選んでいる時だ。一年半の師弟関係で、それは分かっていた。


 「……以前、妻の話をしたの。覚えておるか」


 レインは頷いた。忘れるはずがない。リーナという名の妻。最期の夜に手を握ることしかできなかった、あの話。


 「あの時、わしはお前に『手を握れ』と言うた。——じゃがな、レイン。わしがあの答えに辿り着くまでに、二十年かかっておる」


 老人の声が、低く、静かになった。


 「リーナが逝った後、わしは十五年間——何もできんかった。宮廷を辞め、術の研究に没頭した。研究していれば考えずに済む。妻がおらんことを、忘れていられる」


 ヴァルターが窓の外を見た。春の光が、老人の顔の皺を深く刻んでいた。


 「守れなかった、と思うておった。術師としてあれほどの力を持ちながら、妻一人救えなかった。——その無力感から逃げるために、わしは研究に溺れた。誰にも会わず、どこにも行かず。気がつけば、友も弟子もおらん老人になっておった」


 レインの胸が痛んだ。その姿が——前世の自分と重なったからだ。


 「この村に流れ着いて、ようやく気づいたことがある。リーナが最期に言うた言葉の意味を、わしは十五年間、取り違えておった」


 ヴァルターの声が、かすかに震えた。


 「リーナは『ありがとう』と言うたのじゃ。——わしが何もできなかったことを、責めてはおらなんだ。そばにいた。それだけで、十分だった。リーナにとっては、それが『守られた』ということだったのじゃ」


 書庫に沈黙が降りた。


 「守るとはな、レイン。大層なことではないのじゃよ。——ただ、そばにいること。その人が笑っている時も、泣いている時も、そこにいること。力で救うことではない。答えを出すことでもない。それが、わしが二十年かけてようやく分かった、唯一の答えじゃ」


 レインの胸に、何かが広がった。


 そばにいること。セドリックが落ち込んだ夜、隣に座っただけで兄の足音が軽くなった。エレナが歌ってくれた夜、母の膝の上で眠りかけた。あの時——レインはただ「そこにいた」だけだ。


 しかしそれが「守る」ことだったのだとしたら——ヴァルターが研究に逃げたように、自分もまた、何かに逃げていたのではないか。そばにいることが怖くて、別の場所に立ち続けていたのではないか。


 その問いは、答えを出すには重すぎた。しかし問いそのものが、胸の奥に根を下ろした。


 「答えは——見つかるか」


 ヴァルターの声が、穏やかに戻っていた。


 「……まだ、見つかりません。でも——見つけなければならないと、初めて思いました」


 ヴァルターは頷いた。深く、ゆっくりと。


 「それでよい。——焦るな。答えは、歩いている間に見つかるものじゃ」


 窓の外で、春の風が吹いていた。まだ冷たさを含んだ風。しかし——その中に、確かに、新しい季節の匂いが混じっていた。


 帰り道、丘の上に立った。エレナの丘。ここから見る夕焼けが好きだと、母は言っていた。今は昼だが、丘の上から見渡すアルヴェス領は——小さくて、穏やかで、美しかった。


 この場所を。この家族を。


 守りたい。


 答えはまだ形になっていない。しかし問いだけは、胸の中に確かにある。それを持っていることが——何も持っていなかった前世の自分とは、少しだけ違うのだと。そう思いたかった。


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