第2話「声なき揺籃」
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世界は、色の塊だった。
輪郭のない橙。揺れる白。滲んだ茶色。目を開けるたびに、そうした不確かな色彩が視界を満たす。何が何なのか分からない。ただ、暗闇ではないということだけが、かろうじて分かった。
意識は、断片的にしか保てなかった。
眠る。目を覚ます。泣く。眠る。その繰り返しが、どれほどの時間を占めているのか見当もつかない。一日が百回の眠りと覚醒で構成されているような感覚。まとまった思考ができない。頭の中に言葉はあるはずなのに、それを掴もうとすると指の隙間から零れ落ちてしまう。
──俺は、誰だ。
問いだけが浮かんでは消える。答えを組み立てる前に、意識がまた霧の中に沈んでいく。
けれど、一つだけ確かなものがあった。
温かさ。
目覚めるたびに、そこにある温かさ。体を包む腕。胸元に押し当てられた頬に響く心音。それから──声。同じ声。聞き取れない言葉を、繰り返し、繰り返し、語りかけてくる声。
その声が聞こえると、泣き止むことができた。理由は分からない。ただ、この声の温度に触れていると、頭の中の霧が少しだけ薄くなる気がした。
* * *
視界に、初めて輪郭が生まれた日のことを覚えている。
ぼやけた色の塊が、少しずつ形を持ち始めた。橙色の揺らぎは、暖炉の炎だった。白い広がりは天井の漆喰。窓の向こうに見える青は──空だ。
そして、顔。
いつも声を聞かせてくれていた「それ」に、顔があった。
灰色がかった銀の髪。柔らかく波打って、肩のあたりに落ちている。肌は白く、頬がほんのりと紅い。大きな瞳は──何色だろう。淡い紫のような、灰青のような、名前をつけがたい色をしていた。
その顔が、こちらを覗き込んで笑っている。
唇が動いた。聞き慣れた響き。毎日、何十回と聞いてきた音の連なり。
──レイン。
意味は分からない。しかしこの音が自分に向けられていることだけは、何度も何度も聞いたおかげで理解していた。呼ばれている。この人が、俺を呼んでいる。
手が伸びてきた。細い指が、頬に触れる。冷たくはない。ほのかに温かい、乾いた手。その手が頬を撫で、額を撫で、産毛の残る頭をそっと包んだ。
口が開く。声が出る。しかしそれは言葉にならない。赤ん坊の喉から漏れたのは、意味を持たない母音の断片だけだった。
──話せない。
頭の中には何かがあるのに、体が追いつかない。この口は、この喉は、俺の思考を音に変換する回路をまだ持っていない。もどかしさが込み上げるが、それすらも長くは保てない。感情の輪郭が曖昧なまま、すぐに霧の中に溶けていく。
あの顔が──この人が、また笑った。何も伝わっていないはずなのに、嬉しそうに笑っている。
* * *
もう一つの顔を認識したのは、それからしばらく後のことだった。
大きな影が、視界を覆った。ぼんやりと輪郭を辿る。広い肩。太い首。濃い茶色の短い髪と、日焼けした肌。角ばった顎に、不器用に結ばれた唇。
この人は、あまり笑わない。
銀髪の人──母、なのだろうか──が毎日のように笑いかけてくるのに対して、この大きな影は遠くからこちらを見ていることが多かった。近づいてきても、抱き上げることはあまりない。ただ、大きな手のひらが頭にそっと置かれることがあった。
分厚い、硬い手だった。指の腹にざらついた感触がある。剣を握る手だ──と、なぜか思った。なぜ「剣」という概念が浮かんだのか、自分でも分からない。頭の霧の中に、まだ言語化できない記憶の欠片が漂っている。
大きな手が頭に触れるたびに、唇が小さく動くのが見えた。何か言っている。しかし声が小さすぎて聞こえない。
この人は──不器用なのだ。
そう感じたことに、自分で少し驚いた。赤子の頭で、そんな判断ができるのか。できている。断片的で曖昧だが、人の態度を読む能力だけは、この体になっても衰えていないらしい。
……なぜ、俺にはそんな能力がある?
答えは、まだ霧の向こうだった。
* * *
三つ目の顔は、突然やってきた。
小さな顔。自分よりは大きいが、大人よりずっと小さい。丸い頬。好奇心で目を見開いた、茶色の瞳。父親に似た髪の色。
その顔が、揺り籠の縁からこちらを覗き込んでいた。
しばらく無言でこちらを見つめた後、その小さな顔が振り返って叫んだ。大きな声で、何かを言っている。母らしき人が慌てて駆け寄ってくる。
小さな手が、揺り籠の中に伸びてきた。指が、こちらの手に触れる。
──握った。
反射だった。赤ん坊の手が、近くにあるものを握る本能。思考が追いつく前に、小さな手の指を握り返していた。
小さな顔が、ぱっと輝いた。歯の欠けた口を開けて、声を上げて笑っている。振り返って、また何か叫んでいる。母が微笑み、父が──珍しく、口元を緩めていた。
この小さな人間は、自分より二つほど年上だろうか。兄、なのかもしれない。
握られた指から伝わる体温が、やけに鮮烈だった。小さな手のひらの熱。生きている温度。この感触に、頭の霧の奥で何かが疼いた。
──誰かの手を、握ったことがある。いや、握れなかったのか。
記憶がすぐ傍まで来ているのに、掴めない。靄のかかった湖面の向こうに、何かの輪郭が見える。しかし手を伸ばすと、水面が揺れて消えてしまう。
もどかしい。
しかし指は離さなかった。この小さな手を握り返す力だけは、赤子の体にもあった。
* * *
言葉を覚え始めたのは、自覚するよりも先のことだった。
意識が明瞭になっていく過程は、夜明けに似ていた。真っ暗だった空が、いつ明るくなったのか正確には分からない。気がつけば、空は白み始めている。
母の声が、音から意味に変わり始めた。
最初に分かった言葉は、やはり「レイン」だった。それが自分の名前だということを、理屈ではなく反復で理解した。次に分かったのは、母がレインの後に続けて言う柔らかな音の塊。それが「愛している」に類する何かだということを、声の調子と表情から推測した。
言語の構造が、少しずつ見えてくる。主語の位置、動詞の活用パターン、形容詞の修飾規則。それらを意識的に分析しているわけではない。頭の中の何かが、自動的にパターンを抽出し、分類し、体系化している。
これは──普通ではない。赤子の学習速度として、明らかに異常だ。
なぜ自分がそう判断できるのかも分からない。「普通の赤子の学習速度」がどの程度かを知っている前提で思考している。なぜ知っている? どこで学んだ?
霧は、少しずつ晴れつつあった。しかしまだ、その向こうにあるものの全貌は見えない。
分かっているのは、自分が「普通ではない」ということ。そして、この家の人々がそのことに──まだ──気づいていないということだけだった。
* * *
ある夜のことだ。
目が覚めた。珍しく、母の腕の中ではなかった。揺り籠の中で、一人だった。
部屋は暗い。暖炉の火は落ちかけていて、微かな赤い残り火が闇の中に浮かんでいる。隣の部屋から、かすかに寝息が聞こえる。
泣こうと思えば泣けた。声を上げれば、母はすぐに来るだろう。しかし、泣く理由がなかった。寒くもない。腹も空いていない。ただ──目が冴えていた。
視線を動かすと、窓があった。木製の格子がはまった小さな窓。その向こうに、夜空が見えた。
月が出ている。
──月が、二つ。
思考が、突然鋭くなった。霧を突き破るように、認識が走った。
一つは大きく、青白い。もう一つは小さく、かすかに赤みを帯びている。二つの月が、見知らぬ星座の中に並んで浮かんでいる。
地球の月は、一つだ。
──地球。
その単語が、頭の中で爆ぜた。地球。日本。東京。自分はそこにいた。そこで──何をしていた? 何を?
まだ掴めない。しかし確信だけが、胸の底から湧き上がってくる。これは地球ではない。ここは、俺が知っている世界ではない。
月が二つある世界。知らない言語を話す人々。暖炉と石壁の部屋。この体は、赤ん坊の体だ。
目を窓に据えたまま、小さな手を握りしめた。心臓が早く打っている。恐怖ではない。混乱でもない。もっと原始的な──生き物としての、覚醒の感覚。
夜空に、淡い光の筋が走った。
流れ星、ではなかった。空の一角から別の一角へ、ゆっくりと流れていく半透明の光。脈打つように明滅しながら、夜空を横切って消えていく。美しかった。この世界のものではない光──いや、この世界にしかない光だ。
赤ん坊の目は、その光を追いかけた。やがて光は地平線の向こうに溶け、二つの月だけが元通りに空に残った。
──その時だった。
胸の奥で、何かが脈打った。
心臓の鼓動ではない。もっと深い場所──骨の中を、血管の奥を、何かが微かに震えた。空を渡った光に呼応するように、体の内側で名前のない何かが一瞬だけ目を覚ました。
すぐに消えた。あまりに微かで、夢だったのかもしれない。しかし指先が痺れるような感覚だけが、しばらく残っていた。
泣かなかった。
叫びもしなかった。
ただ、小さな拳を握ったまま、窓の外の夜空を見つめていた。二つの月は何も語らない。しかしその沈黙が、はっきりと告げていた。
お前はもう、前の世界には戻れない。
──この世界には、月が二つある。そして、この体の中にも──何かが、ある。
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