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第19話「不穏な影」


---


 冬の初め、ヴァルターの書庫で、レインは嫌な話を聞いた。


 「ハルヴェス侯爵家。——知っておるか」


 ヴァルターが茶を注ぎながら言った。いつもの飄々とした口調ではなかった。声に硬さがある。


 「名前だけは。アルヴェス領の東に隣接する上位貴族です。央域では有力な家門の一つで——」


 「それだけか」


 「……ヴァルター先生が気にするということは、もっと厄介な話があるのでしょう」


 ヴァルターが茶碗を置いた。窓の外を見る。冬の曇り空が、灰色の瞳に映っていた。


 「ハルヴェス侯爵——ディートリヒ・ハルヴェスという男は、表向きは穏やかな領主じゃ。社交の場では笑みを絶やさず、王都の貴族たちからの評判も悪くない。領地経営も手堅い」


 「しかし」


 「獲物を見つけたら、容赦せん男じゃ。十年前、南の小領主カーラ家が脈点の採掘権を巡ってハルヴェスと揉めた。結果——カーラ家は領地を失い、当主は王都で門番をしておる。法的にはハルヴェスの主張が通った形だが、実態はわしから見ても——」


 ヴァルターが言葉を切り、首を振った。


 「汚い、の一言じゃ」


 レインの背筋に冷たいものが走った。ヴァルターが感情を込めて人を評するのは珍しい。この老人がそう言うなら、相当なものだ。


 「先生。ハルヴェス侯爵が、なぜ今この話を」


 「お前の星脈地図。あれに描いた東の脈点。——あの脈点の存在が、どうやらハルヴェスの耳に入ったらしい」


 レインの手が止まった。


 「どこから」


 「分からん。だが、脈点の価値を知っている者は多くない。お前が地図を描いたこと自体は秘密にしておった。しかし——お前が領地を四ヶ月歩き回ったことは、目立つ。誰かが見ていたのかもしれん」


 あるいは——とヴァルターは続けた。


 「秋に来たソレイユの商人。あの男、ただの布商人ではないかもしれん。ハルヴェスの領地にも出入りしておった商会じゃ」


 マルコ。あの痩せた商人の顔が浮かんだ。レインが契約の罠を見抜いて追い返した男。あの時、マルコは「大したお子さんだ」と言って去った。あの言葉の裏に——情報が含まれていた。「アルヴェス家の次男は異常に聡明である」という情報が。


 そしてレインが領地を歩き回り、何かを調べていたという情報も。


 ——つまり、俺が商人を追い返したことが、かえって注目を集めた。


 腹の底が冷えた。前世なら分かっていたはずのことだ。敵を倒すと、より大きな敵の注意を引く。蓮はビジネスの世界でそれを何度も経験した。競合を打ち負かした途端、業界大手から目をつけられる。


 「先生。具体的に何が起きているのですか」


 「まだ表立った動きはない。だが——ハルヴェスの書記官が、王都の法務院で古い地図を閲覧しておったという話がある。アルヴェス家とハルヴェス家の境界線に関する、古い記録をな」


 境界線。脈点は、その境界線のすぐ内側にある。もし境界線の解釈が変われば——脈点の帰属も変わる。


 「これは企業買収と同じだ」


 声が出ていた。前世の言葉で。


 ヴァルターが怪訝な顔をした。「なんじゃ、きぎょーばいしゅう、とは」


 「——失言です。つまり、相手の弱みを握り、法的な外堀を埋めてから、本丸を落とすやり方です」


 「……お前、本当に九歳か」


 ヴァルターの呟きを無視して、レインは思考を回した。


 ハルヴェス侯爵が狙っているのは、東の脈点の採掘権。直接的な武力行使は貴族社会で禁じられている。ならば法的手段で来る。境界線の再解釈、あるいは過去の条約の読み替え。そのために古い記録を調べている。


 「父上は、この件を知っていますか」


 「わしからグレン殿には伝えておる。——だがな」


 ヴァルターの顔が曇った。


 「グレン殿は『話し合えば分かるはずだ』と言うておった」


 レインは目を閉じた。


 父の言葉は予測できた。グレン・アルヴェスは嘘をつかない人間であり、人を信じる人間だ。それが美徳であることは——エレナから聞いた。しかし、嘘をつかない人間が、嘘つきの前では無防備になることもまた事実だ。


 「先生」


 「なんじゃ」


 「俺に、何かできることはありますか」


 ヴァルターはレインを長い間見つめた。灰色の瞳が、何かを計っていた。


 「……今すぐにはない。だが、備えはできる」


 老人が棚から一冊の本を取り出した。ファルネーゼ連合王国の法令集。貴族間の土地紛争に関する条項がまとめられている。


 「これを読め。法の知識がなければ、法で戦えん」


 レインは本を受け取った。分厚い。しかし——前世で会社法と国際商事法の条文を暗記した男にとって、法令集を読むことは苦にならない。


 「ただし、レイン」


 ヴァルターの声が低くなった。


 「お前は九歳の子供じゃ。表に出るな。表で戦うのは、お前の父の仕事じゃ。——お前は裏で、知識を揃えろ。それが今のお前にできる最善のことじゃ」


 レインは頷いた。



    * * *



 その夜、夕食の席は普段通りだった。


 エレナが焼いたパンと、根菜の煮込み。セドリックが「今日の稽古でブレイ教官に一本取れそうだった」と嬉しそうに語り、グレンが「ほう、もうそこまで行ったか」と目を細める。穏やかな食卓だった。


 レインはスープを口に運びながら、父の顔を見ていた。


 グレンはいつもと変わらない。ヴァルターからハルヴェスの件を聞いたはずだが、食卓に不安の色を持ち込んでいない。エレナやセドリックを心配させまいとしているのか。あるいは——本当に楽観視しているのか。


 「父上」


 「なんだ、レイン」


 「……いえ。パンが美味しいです」


 言いかけた言葉を飲み込んだ。ハルヴェスの件を食卓で切り出すべきではない。ヴァルターの言う通り、今は裏で知識を揃える時だ。


 エレナが不思議そうな顔でレインを見たが、何も言わなかった。


 食後、自室に戻ったレインは、ヴァルターから借りた法令集を開いた。蝋燭の光の下で、貴族間土地紛争に関する条項を一つずつ読んでいく。


 法令の言い回しは、古代語とは別の難解さがあった。曖昧な表現が多く、解釈の余地が意図的に残されている。前世の蓮は国際商事法の条文と格闘した経験がある。法律の文章は、どの世界でも似ている。書いた者の意図と、読む者の解釈の戦いだ。


 第七章、第三十二条。「領地の境界に関する異議申し立ては、王国法務院に対して行うものとし、申し立てに際しては星暦九百年以前に遡る文書的根拠を要する」。


 ——星暦九百年以前。大崩壊が星暦八一二年。つまり、大崩壊以前の記録まで遡れるということだ。


 しかし大崩壊以前の記録は、ほとんど残っていない。残っているものの多くは古代語で書かれている。


 レインは顔を上げた。


 古代語。自分が読める古代語。ヴァルターの書庫にある、大崩壊以前の文書。


 ——もし、ハルヴェスが古い記録を根拠に境界線の再解釈を求めるなら、その記録の原文を読めることが武器になる。


 胸の中で、別の思いが渦巻いていた。


 嵐が来る。しかし、どうやって備える。九歳の脈路では、術の威力はたかが知れている。交渉なら勝てるかもしれない。しかし秋にソレイユの商人を追い返した時の、父の畏怖の目を思い出す。正しさだけでは、人は動かせない。


 ならば——何を揃えればいい。


 窓の外で、風が鳴った。冬の風だ。レインは風紋読みで、その風に含まれる情報を無意識に読み取っていた。東から来る風。乾いた、冷たい風。ハルヴェス家の方角から。


 蝋燭の炎が一つ、揺れた。レインはページをめくった。法令集の条文が、蝋燭の光の中で影を落としている。


 ——まだ間に合う。そう信じて、読み続けた。


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