第18話「商人の匂い」
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商人は、九歳の秋の終わりにやってきた。
ソレイユ海洋共和国の紋章——三本マストの帆船と天秤——を荷車の幌に掲げた商隊が、アルヴェス領の門を通った。朝靄がまだ残る時刻だった。馬車二台、護衛四人。小さな商隊だが、装備は上等だった。護衛の革鎧は手入れが行き届き、馬具も磨かれている。
レインは屋敷の二階からそれを見下ろし、目を細めた。
——金がある。
前世の嗅覚が動いた。商隊の規模は小さい。しかし装備にかける費用は惜しんでいない。つまり、「小さく見せている」のだ。大規模な商隊で乗り込めば警戒される。少数精鋭で、しかし中身は充実した装備で来る。
これは、下調べの訪問だ。
商隊の長は、マルコと名乗った。四十代の痩せた男で、笑顔が絶えない。グレンとの面会を申し入れ、応接間に通された。レインは同席を許された。次男坊の見学という名目で、グレンが教育の一環として同席させていた。
「アルヴェス卿、このたびは面会の機会をいただき光栄でございます」
マルコの言葉遣いは丁寧で、腰が低い。しかしレインは——その目を見ていた。
瞳が動いている。応接間の調度品、壁にかけた剣、窓の外の領地の風景。目が情報を集めている。商人としてごく自然な観察行動だが、見ているものが——多い。家具の質から領地の財政状態を推定し、領主の服装から趣味と教養を読み、護衛の配置から警備の手薄さを見積もっている。
前世の蓮も、同じことをしていた。商談の相手のオフィスに入った瞬間、棚の本、机の上の書類、窓からの景色——すべてが情報だった。
「——この度はアルヴェス領で産出される上質な亜麻布について、ぜひ取引のご相談を」
マルコが本題に入った。声の調子が変わった。世間話から商談へ。アルヴェス領の亜麻布は央域では評価が高い。質は良いが流通経路が限られており、正当な価格で売れていない。マルコはソレイユの商会を通じて、広域での販路を提供すると提案した。
「なるほど」とグレンが頷いた。「ありがたい話だ。この地の亜麻布は自慢でな」
マルコが契約書を出した。
レインの目が、紙の上を走った。
——来た。
契約書は丁寧に書かれていた。取引条件、支払い条件、品質基準。一見して問題はない。しかし——レインの目は、本文ではなく但し書きに吸い寄せられた。
但し書きの三項目め。小さな文字で記されている。「品質に関する判定は、購入者側の指定する検査官の判断に委ねるものとする」。
そして但し書きの五項目め。「連続三回の品質不適合が認められた場合、購入者は契約を一方的に解除でき、その際の違約金は売り手側が負担する」。
——これだ。
前世で何十回と見た手口だった。本文の条件は寛大に見せる。しかし但し書きに罠を仕込む。品質判定の権限を相手側に握らせれば、いつでも「品質不適合」を理由に契約を解除できる。しかも違約金は売り手負担。つまり——マルコの商会は、気に入らなければいつでも撤退でき、その際の損失はすべてアルヴェス家が被る。
グレンは但し書きに目を通していなかった。本文の条件に満足し、ペンに手を伸ばそうとしている。
「父上」
レインの声が響いた。
グレンの手が止まった。マルコの笑顔が——一瞬だけ凍った。ほんの一瞬。しかしレインは見逃さなかった。
「この契約書の但し書き三項目について、お伺いしてもよろしいですか」
レインはマルコに向き直った。九歳の子供が、商人に質問する。普通なら相手にされない。
「品質判定を購入者側の検査官に委ねるとありますが、検査基準の明文化がされていません。つまり、何をもって『品質不適合』とするかの客観的基準がない。——これでは、購入者側が恣意的に不適合を宣告し、五項目めの違約条項を発動させることができます」
応接間が静まり返った。
グレンが目を見開いている。マルコの笑顔が——消えた。痩せた顔に、別の表情が浮かんでいる。驚き。そしてその奥に——計算。
「……坊ちゃん、どこでそのような読み方を」
「本を読みました」
嘘ではない。前世の四十七年間、何千ページもの契約書を読んだ。
マルコは数秒の沈黙の後、笑みを取り戻した。しかし先ほどまでの温かい笑みではない。商人が「対等な相手」に見せる、薄い笑みだった。
「これは失礼いたしました。但し書きの表現が不十分でしたね。品質基準については、改めて双方で協議の上——」
「協議の前に、もう一つ確認させてください」
レインは止まらなかった。止められなかった。前世の交渉モードが起動している。
「この商隊は、ここに来る前にクレスタ村の亜麻農家を訪問していますね」
マルコの目が鋭くなった。
「護衛の方の靴底に、クレスタ特有の赤土が付いていました。クレスタの土壌は鉄分を多く含み、独特の赤色を呈します。市場町の黄土色とは明らかに異なる。——直接農家と接触して、アルヴェス家を介さない取引ルートの可能性を探ったのではありませんか」
マルコの顔から、すべての笑みが消えた。
沈黙が降りた。重い。グレンが唾を飲み込む音が聞こえた。
マルコは立ち上がった。契約書を丁寧に巻き、懐に収めた。
「……大したお子さんだ、アルヴェス卿。今日のところは、これにて」
商人は深く一礼し、応接間を出ていった。足音が遠ざかり、やがて馬車の車輪が砂利を噛む音がした。
グレンが息を吐いた。長い、長い息だった。
「レイン……お前は、一体」
父の目に、見慣れない色があった。感謝。しかしその奥に——畏怖。自分の息子に対する、言いようのない畏怖。
レインはその目を見て、初めて気づいた。
——あ。
父が怯えている。自分の九歳の息子に。
「助けたのに、なぜだ」と——前世なら思っただろう。しかし今のレインは、秋の市場でグレンの背中を見た後のレインだ。少しだけ、ほんの少しだけ——分かりかけている。
「正しいこと」を言うだけでは、人は安心しない。正しさの刃は、味方をも傷つける。
エレナが入ってきた。廊下で聞いていたのだろう。グレンの肩にそっと手を置き、それからレインを見た。
「大丈夫よ。——二人とも、立派だったわ」
その声は穏やかだった。グレンを労い、レインを褒めている。しかしエレナの目には——レインだけが気づく微かな不安の影があった。母の目は、レインの才能ではなく、レインの目の奥にある冷たい光を見ていた。
——俺は、間違えたのか。
何を間違えたのかは、まだ分からなかった。正しいことを言った。家族を守った。しかし父の目に浮かんだあの色は——前世でも見たことがある。部下が自分を見る時の目。取引先の担当者が会議の後に見せる目。
畏怖。それは信頼ではない。
夜、セドリックが部屋に来た。
「レイン、聞いたぞ。商人を追い返したんだって? すごいな!」
兄の目には、畏怖はなかった。純粋な敬意と、弟への誇りだけがあった。セドリックはいつもそうだ。レインの異常さを、ただ「すごい」の一言で受け止める。
「……ありがとう、セドリック兄さん」
「でもさ、父上が少し元気なかったぞ。何かあったのか?」
レインは答えられなかった。
この出来事が、ある侯爵家の耳に届くまで——そう時間はかからなかった。
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